ところで、人間が言葉を使って文化をつくることには、大きな長所と同時に短所があると思われます。
世界の言語のほとんどが、主語+述語、特に名詞・代名詞と動詞という構造になっているそうです。
とりわけ、名詞・代名詞を使って世界を見るということが問題なのです。
言葉を使い始めた人間は、一つにつながった宇宙のあるかたちをもった部分に「名前」をつけて認識するようになります。
例えば一本の木は、先祖のバクテリア―植物―その種の木の先祖という数十億年のいのちのつながりの中で、今、「一本の木」というかたちをしています。
また、その木が生えているための大地、吸収するための大地に降った雨、二酸化炭素を吸収し酸素を排出するための大気、光合成によってエネルギーを得るための太陽の光……など無数のものとのつながりによって、ある一定の時にその場所で「木というすがた」を現わしています。
それがほんとうのところではないでしょうか?
つまり、時間的にも空間的にも、その木はその木ではないものによってその木になっているのですね。*1
ところが、それを「木」という名前=名詞を使って認識したとたんに、大地とも雨とも大気とも太陽ともつながっていない「木そのもの」が、独立・分離的に存在すると見えてくるのです。
もちろん、ある「木」は、他の木と区別はできますし、大地などほかの「モノ」とも区別できます。
しかしよく考えると、分離はしていない、できませんね。
自然のほかの部分と分離したら、木は枯れてしまう、それどころか、そもそも生えてくることさえできないのです。
そういうふうに、人間の言葉には、ほんとうはつながっているものを分離していると見せてしまうという根本的な欠陥があるようです。
区別・区分はあるし、できるが、分離はしていないし、できないはずの一つの宇宙を、「ばらばらに分離したモノの組み合わせ」と見せるのです。
仏教は、言葉による分離的なものの見方を「分別知」と呼び、智慧というよりはむしろ根源的な錯覚・無知・「無明」と捉えています。
その洞察は、どうも根本的に当たっていると私には思えるのですが、どうでしょう?
とはいっても、分別知には一定の、そうとうな有効性があり、人間の文化、特に近代の科学と技術の基礎になっているといっていいでしょう。*2
自然を「分析」して部分に還元し、その「仕組み=メカニズム」が「分かる」と、それを人間のつごうのいいように組み換えることもできるようになります。それが、「技術」の基本です。*3
(それが極限に達しつつあるのが「遺伝子の組み換え技術」だと思われます。)
そういう意味で、言葉はまぎれもなく人間が形成してきた文明の基礎です。
しかし同時に、ほんとうは一つにつながったものを分離していると見る見方から、人間同士の中に敵と味方という分離した見方→戦争、人間と自然・宇宙の関係に対立や利用という分離した見方→環境破壊が生まれてき、また「宇宙とつながった、宇宙の一部としての私」ということが忘れられ、「分離し・孤立し、やがて解体してしまう、ただのモノの組み合わせにすぎない、空しい私のいのち」というニヒリズム的な錯覚が生まれるのではないでしょうか。*4
人間が言葉を持ったということは、大変な栄光と同時に、恐るべき悲惨をももたらしている、と私は思うのですが、みなさんはどうお考えになりますか。
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