近代科学主義の世界観は、すべてをばらばらなモノに還元する傾向があるので、私はわかりやすくするために「ばらばらコスモロジー」と呼んでいます。
私たちは、戦後教育の中でそうした近代科学主義的な世界観ばかり学んできたために、宇宙と自分を分離したものと思い込みがちです。
しかし、これまで大まかに見てきたように、現代科学の標準的な仮説を総合して考えると、「宇宙と私たちはつながって1つ」というほかありません。
ほんとうの全宇宙は今、事実として、いのちのないばらばらのモノだけで出来ているのではありません。
宇宙は私たちとつながっていますし、そもそも私たちは宇宙の1部で、宇宙は私たちを含んでいるわけですから、宇宙は私たちのいのちと心を含んでいます。
そういう意味で、現在の宇宙にはまぎれもなくいのちと心があるというほかありません。
「宇宙にはいのちと心がある」というと、とたんに「え? 怪しい!」と反応される向きがあるかもしれません。
しかし先にも言いましたが、これは、神秘的・オカルティックな意味で暗黒の空間に無数の星が輝いているという物質的な宇宙に生命とか意識といったものがある、という意味ではありません。
より詳しく言うと、宇宙にはその一部としての私たちというかたちで、いのちと心がある、ということです。
このことを遡ってよく考えると、宇宙は最初のビッグバンの時点で、すでに物質だけでなくいのちと心を生み出す潜在的可能性も持っていたと考えるほかありません。
そして、エネルギーを基礎にして物質が創発し、物質を基礎に生命が、生命を基礎に心が、というふうに積み重なりながら創発・展開してきたのが宇宙137億年の歴史だ、ということになります。
そのことを私自身に引き付けて考えると、宇宙は最初から私を生み出す潜在的可能性を持っていた、そしてその可能性は今現実性になっている、ということになります。
そして私が今・ここにいるという現実から逆に遡って考え、やや比喩的な表現をすれば、「宇宙は始めから私を生みたかったから生んだ」ということも無理なく言えるのではないでしょうか?
そういう世界観を私は「つながり・かさなりコスモロジー」と呼んでいます。
これは非科学的なロマンチシズムなどではなく、現代科学の標準的な仮説を十分に含んだ上でその先まで考えている、そういう意味でとても現実的・合理的な宇宙解釈だと私は考えています。
「私とは、すべてモノにすぎない宇宙の中で、ばらばらのモノが偶然にも組み合わさってこういう形になったモノにすぎない(そして、やがて解体してばらばらのモノになってしまうだけだ)」という自己観と、「宇宙は始めから私を生みたくて137億年もかけて生んでくれた(だから、生まれる前も、生きている今も、死んだ後も、宇宙とつながっており、宇宙に包まれているのだ)」という自己観と、どちらが人生に意味を感じさせてくれるでしょう?
みなさんは、現代科学的で現実的・合理的な根拠があり、そして人生に意味があると感じさせてくれるコスモロジーと、近代科学的で限定された合理性があるにすぎず、そして人生を無意味だと思わせてしまうコスモロジーと、どちらがお好みですか?
そして、どちらを選択することが、たぶん一回きりの人生を生きて死ぬ個人としての人間にとって、賢いことだと思われますか?
学生たちには、こう言います。
「僕は、いちおう思想の自由ということを重んじているから、もちろん、選択は諸君の自由だと思うよ。でも、どちらが妥当でかつ自分にとって得なんだろうね?」と。
ネット学生のみなさんは、どちらを選択されるでしょう?
……ちょっと結論のまとめ風になってきましたが、コスモロジーの話はまだもう少し続きます。よろしければ、続けておつきあいください。
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