なぜ、いのちは大切か?

2005年11月22日 | いのちの大切さ

 人間は、言葉をもった時から、「あれは何?」、「これはなぜ?」という問いを発するようになったと思われます。

 本来・生まれつき与えられた能力つまり「本能」だけで生きている生物が、物事やいのちそのものに疑問をもつということは考えられませんね。

 まあ、例えば、夏、地面を歩いているアリが何かにぶつかって、「これは何だろう? 食べられるかな?」といったふうに首をかしげ、触手をいろいろに動かしている、といったことはあります。

 でも、彼らが「オレは、何のためにこの暑い日盛りにこんなに苦労して働かなければならないんだ?」とか、まして「何のためにこんなつらい人生、いや蟻生を犠牲を払ってまで――これはつまらない駄洒落ですが――生きなければならないんだ? もう死んだほうがましだ」とか考えるとは思えません。

 「なぜ、いのちは大切か?」といった問いは、言葉を使って生きている人間だからこそ問う問いでしょう。

 そもそも「なぜ」も言葉ですし、「いのち」も「大切」も言葉です。

 言葉を使わなければ、問うことさえできません。

 進化の、言葉が創発した段階で、「なぜ、いのちは大切か?」という問いも創発したのです。

 ところで、「なぜ、いのちは大切か?」という問いと、「なぜ、人を殺してはいけないか?」という問いは、おなじ問題の表と裏だといっていいでしょう。

 「いのちは大切」だから、「人を殺してはいけない」ということになるのですね。

 では、「いのち」とは何か? 「大切」とはどういうことか? それが言えなければ、「人を殺してはいけない」ということも、はっきり言うことができません。

 「人を殺してはいけない」というのは、もっとも基本的な倫理であり、それをはっきりさせることができなければ、実はほかの倫理的なことがらもはっきり語ることはできません。

 そして、倫理を語ることができなければ、実は「こういうふうに生きるべきだ」、「こういうふうに生きるといいよ」と子どもを教育・指導することも、本質的にはできないはずです。

 現在そうしたことが曖昧なままでも教育が成り立っているように見えるのは、ある年齢までの大人の中では既成の倫理観が「当たり前」のこととして自明化されたままそこそこ共有されているからだと思われます。

 しかし、次第に若い世代ほど「当たり前」のこととして共有されなくなってきているようです。

 倫理観の共有がいちばん底のところで崩壊してきているのではないか? と私は考えています。

 やや哲学的に難しげな言葉でいうと、「自明性の喪失」・「自明性の崩壊」という状況です。

 教育に責任のある立場のみなさんには、ぜひ、この「自明性の崩壊」を自覚的に捉えて、根本的な対処の方法を考えていただきたいと願っています。

 現代の日本がそういう状況にあるからこそ、もう一度「いのちとは何か?」、とりわけ「人間のいのちとは何か?」が、共有できるかたちではっきりさせられる必要がある、と思うのです。

 そうしないかぎり、教育の崩壊状況――それが若年層における深刻な問題・事件を引き起こしている大きな原因だと思われますが――をとどめ、再建することは不可能ではないでしょうか。

 この公開授業の目指すところは、現代科学の成果をベースにしながら、宇宙=コスモスの複雑化の到達点としての「人間のいのちとは何か」を明らかにすることです。

 そういう試みを、「つながり-重なりコスモロジー」あるいは略して「コスモロジー」と呼んでいます。

 今回、あえてまたブログ・タイトルを変えさせていただき、そういった趣旨を直截簡明に示すものにしました。

 教育・思想に関わる方々、父母のみなさん、そして若者諸君に、メッセージが伝わることを心から祈っています。

*余談ですが、できるだけたくさんの人に伝えたいという意図で、今回、ブログのカテゴリーも変えてみました。
ブログ村の哲学ブログ部門では、お陰さまで早速1位になることができました。「つまらないプライド(マナ識)」と思いながらも、くすぐられて素直に喜んでいます。
 しかしもちろん主たる意図は、できるだけたくさんの人に伝わること、その結果たくさんの人が元気になってくれることです。
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コメント (3)
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