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喜びや悲しみのある世界の創発――哺乳類への進化

2005年11月10日 | いのちの大切さ
 私たち哺乳類のご先祖さまである哺乳類型爬虫類=単弓類は、12月23日(2億9千万年前)頃、古生代ペルム紀に大繁栄します。

(最近、哺乳類型爬虫類は、「爬虫類」と名がつくものの、実は爬虫類とは別のグループではないかという考えが強くなりつるあるようですが。)

 しかし、12月24日(2億4千5百万年前)頃、古生代末に起った生物の大量絶滅によって、哺乳類型爬虫類もほとんど死滅してしまいました。

 古生代末の大量絶滅は、中生代末の恐竜やアンモナイトの絶滅の規模をはるかに超えた大変なものだったようです。

 ここで、もし私たちの直系のご先祖さまである哺乳類型爬虫類が一匹残らずダウンしてしまっていたなら、今の私たちはいなかったのですが、ご先祖さまたちの一部が、おそらく頑張りと幸運とでかろうじて生き延びてくれたのです。

 これは、ほとんど奇跡といってもいいくらいのことです。

 続いて、12月25日、中生代三畳紀に入り、他の爬虫類のなかまが恐竜へと進化します。

 そして次の12月26日、ジュラ紀には、恐竜には巨大な体をもつものも現われ、それから長い間――1億年あまりも?――地球上を我がもの顔に歩いていたようです。

 もちろん、それは草食性恐竜を支えるだけの植物があり、その草食性恐竜を食べる肉食性恐竜も生きられたということです。

 さらにいえば、それだけの植物を生育させるような暖かい気候条件があったということでもあります。

 そうした恐竜とほぼ並行して、辛うじて絶滅を免れた哺乳類型爬虫類から哺乳類が進化してきます。

 しかし、先祖である哺乳類型端虫類が君臨していた生態系の頂点の座を恐竜に奪われ、哺乳類は、彼らの繁栄の陰でいわばひっそりと生きていかざるをえなくなりました。

 最初の哺乳類は、ハツカネズミくらいの小さな動物だっただろうといわれています。

 爬虫類や恐竜は、いわゆる「変温動物」で、周りの気温が下がると、体温も下がり、活動できなくなります。

 それに対して、哺乳類は、「恒温動物」で、自力で体温を保つことができますから、温度が下がっても活動できます。

 そういうわけで、小さな哺乳類は、温度が下がり恐竜の眠っている夜に活動することができたので、何とか生き延びることができたようです。

 自分を変え、新しいライフスタイルを考案し、億年単位にわたって、ひそやかに、ささやかに、しかし粘り強くいのちを伝え続けている小さな哺乳類のご先祖さまのことを想像すると、私はちょっと胸がいっぱいになります。

 (ただし最近、「羽毛恐竜」の発見が相次ぎ、小型肉食恐竜と鳥類との類縁関係が強く示唆され、少なくとも一部の恐竜は恒温だったのではないかという「恐竜恒温動物説」も有力になってきているそうです。)

 さて、ここでも確認しておきたいことは、最初の哺乳類は、私たちの直系のご先祖さまだということです。

 そして、哺乳類で初めて、はっきりとした情動・感情のセンターである大脳の辺縁系が出来ています。

 喜びや悲しみといった感情は、私たち人間の発明したものでもなければ、独占物でもなく、哺乳類のご先祖さまから受け継いだものであり、他の哺乳類と共有しているんですね。

 だから、私たちは、体温・血の冷たいヘビやトカゲではなく、温かいイヌやネコと気持ちが通じやすいという気がするのかもしれません。

 例えば愛犬を飼っておられる方、彼らとはもうまちがいなく愛情のコミュニケーションが成り立っているとお感じになりませんか?

 ともかく、哺乳類-大脳辺縁系の創発と共に、宇宙には喜びや悲しみや愛情といった感情が創発したのです。

 こうして宇宙は、本能と衝動だけでなく、豊かな感情のある世界へと、まさにより豊かに美しく進化してきたのだといっていいでしょう。

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生命力の源泉――爬虫類のご先祖さまからの遺産

2005年11月09日 | いのちの大切さ

 最初のころ陸に上がった植物は、それほど大きくないシダ類などだったようですが、やがて10メートル以上もある大木になって、海辺に近いところから深い森が繁るようになりました。

 そのシダ類の大木が豊かな太陽エネルギーを体の中に蓄え、やがて倒れ土に埋もれて、長い年月を経て石炭になったのです。

 それが、宇宙カレンダーの12月22日、石炭紀です。

 その翌23日、両生類の中から最初の爬虫類が分かれて登場します。

 石炭紀から数千万年、森はしだいに海辺からさらに陸地深くにと広がっていったようです。

 実にゆっくりと悠久の時間をかけて――気候変動によるジグザグは当然あったのですが――しかし確実に、大地全体が緑で覆われていく様子を想像してみてください。

 大地を覆う森はその中や土中に多くの昆虫やミミズのような生き物を育んでいきます。

 それらは、肉食の動物にとってはもちろん食糧です。

 当然、遠くても食べに行きたいですよね。

 しかし、両生類は、水辺からあまり離れることができませんでした。

 それはなぜでしょうか?

 春の池や小川のことを思い出してください。

 ゼラチン状のカエルの卵を見たことがありませんか?

 そうです、ゼラチン状の卵によって子孫を残していくためには、水を離れるわけにいかないんですね。

 水のない陸地では、卵が乾燥して死んでしまいますからね。

 でも、陸地の奥深いところは食糧になる生物の宝庫になっています。

 水辺を離れて、奥地に進出するにはどうしたらいいでしょう?

 みなさんが両生類のフロンティアだったとしたら、どういう戦略を考えますか?

 そのとおり! 卵に殻をつけるんです。

 爬虫類は、殻があり陸地の乾燥に耐えることのできる卵を発明することによって、陸の奥深い場所まで自分たちの生息圏-なわばりにすることができたのです。

 爬虫類はまた、カエルの子、オタマジャクシのように最初はエラで呼吸し、後から肺で呼吸するようになるのではなく、生まれた時から肺で呼吸します。

 したがって、最初から陸で暮らし、陸で卵を産めるわけです。

 完全に水辺を離れることのできた爬虫類は、まだ競争相手の少ない陸で、いわば「陸の王者」になっていきます。

 ところで、もちろんこの爬虫類も私たちの先祖です――「トカゲのなかまが先祖だなんて」とぞっとする人もいるかもしれませんが。

 私たちの脳の中には、ご先祖さまである爬虫類の遺産が残っているようです。

 本能と衝動のセンターである「脳幹」という部分が、爬虫類の脳とほぼ同じパターンになっているのだそうです。

 「本能と衝動」というと、洗練された文明人のつもりの方はちょっと嫌な気がするかもしれません。

 しかし、「食べたい」、「セックスしたい」、「戦おう」、「逃げよう」といった心の働きは、生きるエネルギーの源泉です。

 人間においては、いうまでもなく本能や衝動は適切にコントロールされる必要がありますが、それらがあるからこそ生き延びることができるのですし、それらがあってこそ活き活きと生きることができるのです。

 本能と衝動は、なくてはならない生命力の源泉です。

 私たちは、そうした生命力の源泉を、爬虫類のご先祖さまからの大切な遺産として受け継いでいる、といっていいようです。


 ……と、ここまで考えてきて、もう1つ気づきました。

 今では当たり前のように思っていますが、陸の奥深いところはもともとは生物の棲めるところではなかったのです。

 そこをまず植物が開拓し、続いて昆虫が開拓し、さらに爬虫類が開拓して、豊かな生命圏に変えていったわけです。

 それに続く哺乳類-霊長類-人類は、それらのご先祖さまの親戚や直系のご先祖さまの開拓地という遺産をもらって暮らしている、ともいえるのではないでしょうか。

 内面的にも外面的にも、爬虫類というご先祖さまから受け継いだ遺産は大きいのですね。


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ご先祖さまの大冒険――動物の上陸

2005年11月08日 | メンタル・ヘルス

 12月21日(4億800万年前)頃、デボン紀が始まり、最初の昆虫、先に上陸した植物を追って、動物が上陸作戦を開始します。

 豊富な太陽エネルギーを摂取して豊かに繁った食糧である植物を放っておく手はないわけですね。

 最初に陸に上がっていったのは、昆虫類です。

 続いて、エサとなる植物や昆虫を追って、魚が上陸していきます。

 といっても、話は簡単ではありません。

 魚類は生きるための息つまり酸素の吸収を海水からエラによってしています。

 水のないところで大気からじかに酸素を取り入れるには肺が必要です。

 「必要は発明の母」ということなのでしょう、肺が創発します。

 古生代の魚類の中に肺をもつものが現われるのです。

 その一部は肺をさらに「うきぶくろ」へと進化させて、現在まで生き延びている魚類の大部分の先祖となります。

 しかし、胸びれを前足に腹びれを後足に進化させ、上陸した動物がいます。

 海から陸へと生活形態を変えるために体の形態も根本的に変革したのです。

 魚は魚でなくなることによって、陸というまったく新しい生活圏を獲得したわけです。

 いのちがけの大変容・大冒険ですね。

 ご先祖さまのこの大変容・大冒険なしには、陸上生物である私たちの今の生活もありません。

 そのことを思うと、ちょっとじーんと来るものがあります。

 といっても、最初はまだ完全に水を離れるのではなく、水と陸の間を行き来しながら生きています。

 つまり両生類の登場ですね。

 カエルやサンショウウオのなかまだと思えばいいでしょう。

 私たち人類との関係でいえば、ただくねるだけの蠕虫的運動から、魚のように腹びれ、胸びれ、尾による複雑な運動へ、やがてカエルなどのように前足と後足によるより随意的な運動へと進化した、その流れがやがて直立二足歩行につながってくるわけです。

 こうして無数の「進化の積み重ね」が、やがて私のいのちに届けられるのです。

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大地が緑に染まり始める――植物の陸地への移動

2005年11月07日 | メンタル・ヘルス

 宇宙カレンダーの12月20日(4億3900万年前)、シルル紀が始まった頃、まず植物が陸地への移動を始めます。

(オルドビス紀まで遡るという説もありますし、動物が先という説もあるようですが、ここでは植物が先という説を採用しておきます)。

 先祖の光合成微生物、光合成植物たちが長い時間かけて形成してくれたオゾン層のお陰で、陸上でも太陽の紫外線によって細胞膜が壊されることがなくなります。

 生命の危険は少なくなってきたのです。

 しかも、太陽光のエネルギーを利用するのは陸上のほうが有利です。

 この有利な新しい場所を放っておく手はありません。

 すると実際、新しい生活の場を開拓するための冒険を始める生命が出てきます。

 しかし、考えてみると海の中と陸上ではまったくといっていいほど生きるための条件が違っています。

 新しい環境に合うように自分を変えなければ、生命は陸地で生きることはできません。

 ところが、そういう自己変革・革命を遂げ、大冒険に挑む生命がいたのです。

 細胞つまり生命のいちばん基本になっている物質は水です。

 ところが、陸上には肝腎の水がありません。

 しかし、豊かな光エネルギーは欲しい。

 そこで、植物たちは「工夫した」のではないでしょうか。

 私は、擬人化だといわれても、そう思わざるをえません。

 これを、単なる「偶然の突然変異が自然選択された結果」とは考えにくいのです。

 重要なので何度も繰り返しますが、たとえある種の偶然だとしても、そこには宇宙の自己組織化という一貫した方向性があることだけは確実です

 植物は、枝葉を陸上-空中に伸ばし、根で土中の水を吸い上げて葉先まで送るというそれまでになかったより複雑なシステム・組織を発明したのです。

 それだけでなく、根から葉先まで水を揚げることのできる管(維管束、いかんそく)も発明しています。

 私たちが今見ることのできる見上げるような大木も、そうした構造で、根から高い枝先、葉先にまで水を送っています。

 まったく意外なことですが、この「維管束」がどういうメカニズムで何十メートルもの高さまで水を揚げることができるのか、いまだにわかっていないのだそうです。

 いわゆる「毛細管現象」で水が上がるのはほんの少しの高さで、とても大木の梢までは上がりません。

 もちろん、ポンプのようなものがついているわけではありませんね。

 どうやって植物は水を高いところまで揚げているのでしょう?

 それがわかったらノーベル賞ものだ、という話を読んだことがあります。

 理系の学生諸君、挑戦してみませんか?

 (もしかして私の勉強不足で、すでにわかっているようでしたら、ご存知の方、ぜひ教えてください。)

 さて元に戻ると、そうはいっても最初の植物は水際に生えていました。

 磯の潮溜まりに行くと、潮が引くと陸になり潮が満ちるとまた海中になるような場所でちゃんと生きている海草を見ることができます。

 最初はたぶんあんな風だったのでしょう。

 それから、水辺の植物、例えばトクサのようにずっと水の上に体を伸ばすようになり、アシやマングローブのように繁るようになったのでしょうか。

 ともかくこうして、それまで何の生命も存在しなかった殺風景な陸地が、海辺・水辺から次第に緑に染まりはじめます。

 想像するだけで、心が弾んでくるような気がしませんか?

 今私たちが享受している、青い海、青い空、そして緑の大地という美しい地球が、ゆっくりと形成されつつあるのです。

 最初に上陸した植物たちの冒険がなかったら、私たち陸上動物が生きることのできる豊かな緑の大地は存在しなかったのですね。

*写真は宮崎県青島の海岸、通称「鬼の洗濯板」

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姿・形と香りのある世界の創発――蠕虫から魚類へ

2005年11月06日 | いのちの大切さ



*図は、ピカイアとナメクジウオ


 続いて、多細胞生物の創発から10日つまり約4億年ほどもたった、宇宙カレンダーの12月15日、ようやく最初のヒモムシ・蠕虫(ぜんちゅう)といった、単純な神経組織を持っていて、したがってある種の感覚があると思われる生物が誕生します。

 大まかにいえば、ミミズやゴカイのような虫だと思っていただけばいいでしょう。

 この後、3日間つまり1億年以上、海の中では無脊椎動物が繁栄します。

 12月17日頃には、最初の海洋プランクトンが創発し、三葉虫が栄えています。

 そして12月18日(5億1千万年前)、オルドビス紀に、最初の脊椎動物である魚類が誕生するのです。

 ここで、神経管があり、したがって知覚することのできる生命が創発したわけです。

 脊椎動物の先祖といわれるピカイアに似た現生のナメクジウオには半透明の体に光を感じる細胞が存在していますが、目はありません。

 ところがヤツメウナギくらいの魚になると、完全なかたちの目が突然のように発生するのだそうです。

 目が見える、つまり世界を見ることができる生命が創発したのは、約5億年くらい前、12月18日頃のことです。

 目が見える生命・魚もまたコスモスの一部です。

 魚において、コスモスは自らの姿・形を初めて見ることができるようになった、といえるのかもしれません(地球以外のところですでにそういう生命が創発していれば別ですが)。

 鼻-匂いをかぐ能力もこの頃創発したようです。

 それまではあっても知覚されなかった世界の匂い・香りが、魚の鼻によって知覚されるようになったということです。

 ここで、世界は姿・形があり香りがある世界になった、といってもいいのではないでしょうか。

 知覚されないかぎり、それはあってもないのと同然ですからね。

 先にお話ししたように、生命の家系図をたどっていくと、この最初の多細胞生物もヒモムシも私たちのご先祖さまですし、最初の脊椎動物である太古の魚類は直系のご先祖さまです。

 ということは、現在の魚類はいわばずっと昔に分家した――進化には本家も分家もありませんが――私たちの親戚だということになりますね。

 心の中でそうしたつながりをイメージして、改めて感じてみましょう。

 最初のバクテリアから多細胞生物へ、そして魚類、次の両生類へと、いのちの流れは、何千万年、何億年、何十億年と、ほんのわずかも途切れることなく、つながっています。

 そして、蠕虫のあたりで感覚、魚類で知覚と、ゆっくりとおぼろげながら〈心〉のようなものが生まれはじめていることに注意してください

 私たち人間は、見えることやその他の知覚能力を、こうした大変な進化の積み重ねによってプレゼントされているのです。

 そういうことを知ってみると、「見ることができる」のや「匂いをかぐことができる」のが、「誰だってできる、能力ともいえないほどの当たり前のこと」ではないという気がしてきませんか?

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細胞たちの協力体制の創発=多細胞生物

2005年11月05日 | いのちの大切さ

 本格的な酸素大気ができ、オゾン層が形成されて紫外線がかなり吸収され、海面近くでも生きられるようになり、細胞が複雑化していく中で、宇宙カレンダーの12月5日(10億年前)、複雑化がさらに1段階ジャンプして、多細胞生物が創発します。

 多細胞生物とは、いろいろな細胞が役割分担をしながらつながりあっている生物です。

 私たち人間もいうまでもなく多細胞生物で、私たちの体には、最近の説では、何と37兆2千億個もの細胞があって、協力しあっています。

 例えば骨細胞、内臓の細胞、脳細胞などなど、実にさまざまな細胞が役割分担をしながらつながっているわけです。

 たまには協力体制がうまくいかなくて病気になることもありますが、ふつうは実にみごとに一糸乱れず協力しあっているのです。

 これもまた、驚くべきことですね。

 ここでも重要なのは、役割分担をしながらつながりあっていること――分化と統合――です。

 とても興味深いことに、それが自然に一貫して見られる法則のようです。

 ここでもし、細胞が「みんなお互いに平等じゃないか」と主張しあって、役割分担=分業を拒否したらどうでしょう?

 例えば脳細胞以外の細胞すべてが、脳細胞に向って、「なんでおまえだけがカッコイイ脳細胞をやるんだ。おれも脳細胞をやりたい」といったら、どうなるでしょう。

 全部の細胞が脳細胞になったら、人間は生きていけませんね。

 ちょっと尾籠な話をすると、例えば肛門の細胞が「おれ、こんな汚い役、やりたくない。いちばんカッコイイ脳細胞をやらせてくれ」といって、役割を放棄したら、全体としての体は排泄できなくて死んでしまいます。

 そうすると、もちろん結果として肛門の細胞自身も死んでしまいます。

 セミナーの参加者の方が教えてくれたんですが、これとそっくりのネタの落語があるんだそうですね。

 ただ、その落語では、肛門細胞が目の細胞に向って、「なんでおまえだけ美人を見て楽しむんだ」とか、舌の味覚細胞に向って、「なんでおまえだけうまいものを味わっていい思いをするんだ」とかいうらしいのですが。

 それはともかく、全体としての体が生きるためには、すべての細胞や細胞の集まりである器官が合意をして、つながりあって役割分担をすることが不可欠です。

 それが命というもので、そういう場合、それぞれの細胞や器官にとって、損か得かという話はありません。

 たぶん、人間の集まりにもそれに似たことがあるのではないでしょうか。

 つながりあって役割分担をし、それぞれがそれを「ああ、これは私の役割だ」としっかり受け止めることによって、集団が生きるのです。

 みなさんは、すでに仕事に就いていたり、やがて就いたりするでしょうが、その場合、例えば日本の中で、世界の中で、そして進化史の中で、宇宙史の中で、何が自分の役割なのか、全体のつながりの中で自分がやるべき役割をしっかりと見極めていただけるといいと思います。

 特にこれから職業を選ぶ若い世代の方は、収入がいいかどうか、社会的評価が高いか低いかといったことを優先するより、何が宇宙から与えられた自分の役割なのかを見極めて仕事を選ぶといいと思います。

 そういう宇宙的役割を担うものであれば、仕事は宇宙的にすばらしいものになるはずです。

 逆にそういう選び方をしないと、いつかどこかで仕事に空しさを感じることになるのではないでしょうか。

 やや横道のようですが、多細胞生物が、いろいろな細胞の集まり、すなわち役割分担とつながりによってできているということは、より複雑な多細胞生物であり社会性生物である私たちにそういう人生の教訓も示してくれるのではないかと思うのです。

*念のためにいっておくと、私のいいたいことは、戦前の右寄りの思想家の「国家は全体としての生命体であり部分としての国民は細胞のようなものだ」という話と一見似ていると思われるかもしれませんが、根本的に違っています。詳しくは、拙著『自我と無我――〈個と集団〉の成熟した関係』(PHP新書)を参照してください。

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孤独を感じている人に

2005年11月04日 | メンタル・ヘルス

 社会学では、近代は、人が血縁と地縁という共同体から切り離されて、自由になったと同時に孤独になった時代だといわれます。

 確かに今の日本にも、さみしさを感じながら暮らしている人がたくさんいるようです。

 私は、それにはもう一つ、近代人が自然から切り離された意識を持ってしまったということも大きな要因になっていると考えています。

 しかしこれまでお話してきたように、よく考えてみると、私たちは自然と切り離されていないどころか、まったく一体です。

 例えば、大地は私たちを生まれてから今まで、朝から晩まで24時間体制、年中無休、しかも無償、無条件で支えてくれています。

 これは事実だと思いますが、どう思われますか?

 これは誰にとっても事実ですよね。

 だとしたら、この世には、誰にも何にも支えてもらえていない孤立した人は一人もいない…ということになります。

 私は、独り暮らしで「さみしくてたまらない」という人には、まず「さみしいでしょうね」と共感してから、2つのことをお話しします。

 一つは、ごく常識的ですが、勇気を出して自分から進んで友達をつくることです。

 もう一つは、環境のいいところへ行って、足の裏で大地をよく感じながら、「大地はいつでも私を支えていてくれる。私は独りぼっちではない」と心の中で言ってみることです。

 よかったら、やってみてください。

 この世には、孤独だと思っている人はたくさんいますが、事実として孤独な人は一人もいない、と私は思うのです。

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学生たちの変化

2005年11月03日 | 心の教育

 今日は、実際の授業での学生たちの反応を紹介したいと思います。

 ネット授業の今より少し前の段階、前期6月頃の感想文です。

 最初は1年生の女子学生、次は2年生の男子学生のものです。


「私は、最近の授業で習ったことを昔、考えていたことがある。

 でも、いつも途中でよく分からなくなり、気持ち悪くなってやめてしまっていた。

 自分が今、ここにいる理由というのは単純なようでいて、とても難しいと思う。

 先生は、宇宙が137億年かけて私達を産みたかったと理解していると、おっしゃっていたけれど、私もそのように思った。

 18年前に産まれて、色んな人とであって、成長してきたが、それらも単なる偶然などではなく、宇宙がそうすべく、私に与えてくれたように感じる。

 それに、また、なぜ産まれてきたのか、よく分からず、今、友達と出会って隣にいられることも、偶然だというのでは、なぜかむなしく感じてしまう。

 しかし宇宙の意思によって存在しているのだと思うと、自分というものが見えてくるような気がする。

 137億年前、宇宙が始まった瞬間から私がここに産まれることは決まっていて、そしてようやく存在することができたということを、嬉しく思える。

 色々なことで悩んでいることも、本当にちっぽけだと感じた。

 考え方1つでこんなにも変われると思うとすごいと思った。」

              *

 自分はなぜ生きているのか、死んだらどうなるのか、誰もが抱いたことのある疑問にちゃんと答えてくれる大人にこれまでの人生で会っていない若者が非常に多数のようです。

 つながり-かさなりコスモロジーは、そういう深い問いへの相当に説得力と治癒力のある答えになるものではないか、と私は考えています。

              *

「僕は先生の話を聞いて、以前の自分の考えと今の自分の考えが大きく変化しました。

 でも、正直なところ初めは先生がおっしゃっていたことを素直には受け入れようとはしませんでした。
 
 それは、自分が今まで考えてきたことと、先生がおっしゃっていたことがあまりにも違うからです。

 僕は今までは、物事をこのようにとらえてきました。

 「偶然」に、物質(原子)が生まれ、その物質が「偶然」にもくっつき、「偶然」にも星が生まれ、「偶然」にも生物が発生し、「偶然」にも人間が生まれ……というような考えを、今まではそれが当たり前だと、自分の中で理論づけてきました。

 しかし、先生の話を聞いて、それは違うのではないか?と思うようになったのです。

 よく考えてみれば、そんな「偶然」って、そんなに連続して起りえるのだろうか?という考えです。

 もちろん、確率の話で言えば0%ではないわけであり、可能性を全ては否定できません。

 しかし、それを仮説として挙げるには、理論にはほど遠いモノとなってしまいます。

 そんな僕に、先生は「進化は方向性がある。宇宙には意思がある。すなわち、方向性があって決められている。それは必然的なのである」とおっしゃいました。

 たしかに私たち人間という、おかしな生物がこの地球に生まれたことを偶然と呼ぶには説得力がないと思います。

 先生がおっしゃる通りに、宇宙に意思があるなら、私たちは何らかの意味をもって生まれてきたのかもしれません。

 私たち人間は心と体を持っています。

 私たち人間の体は、水分、タンパク質、脂肪などの様々な成分から成り立っています。

 それと同様に私たちのまわりにあるすべての物は何らかの成分で構成されているのです。

 先生は講義の中で、「ビッグバン仮説」なるものをおっしゃっていました。

 この仮説を使えば、すべてのモノは一緒で自分(主体)とそれ以外のもの(客体)に区分・区別されているにすぎないと言えるのです。

 僕は以前は、モノとモノ(生物を含む)は個々で成り立っており、一つのモノとは考えもしませんでした。

 この授業を受けて、その考えはなくなり、自分と他の人との間の「心のしこり」のようなものが取れたような気がします。

 最後に、これからも先生が私たちの見落としている考えを教えてくれることを期待しております。」

               *

 近代的なコスモロジーから現代的コスモロジーへの変化を自分のこととして体験することを、この学生はとても適切な言葉で表現していると思います。

 「自分と他の人との間の『心のしこり』のようなものが取れたような気がしています」と。

 ネット学生のみなさんはいかがでしょうか。こういうふうな心の変化を体験しておられますか?

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性――このすばらしいものの創発

2005年11月02日 | いのちの大切さ
 
 生命は誕生してから何と25億年も、ひたすら細胞分裂をすることで繁殖をしていたようです。

 個体は、いわば自分の単純なコピーを作って、いのちを増やし、引き継いでいたわけです。

 そういう単細胞生物には性別はありませんから、そういう生殖の仕方を「無性生殖」というのはご存知のとおりです。

 つまり、ただいのちをつなげていくだけなら、性は必要なかったらしいのです。

 ところが今では、多くの生物は、同じ種の生命でありながらオスかメスかに分かれています(分化)。

 といっても、分離、分裂したわけではなく、つながり結びあうことによって(統合)、生命を伝えていくわけです。

 「有性生殖」といわれるかたちですね。

 ここでも「分化と統合」という宇宙進化の基本パターンが現われています。

 生命がオスとメスに分かれたのは、一説では15億年ほど前だと推測されています。宇宙カレンダーでは11月21日、そろそろ暮も近づいたという季節です。

 (これにはいろいろ説があるようですが。)

 ところで、私たちヒトという動物の場合も、それぞれの個体は基本的には男性か女性かどちらかの性であるわけです。

 それはつまり、私たちが男か女かとして生きているということも、自分で決めたわけではなく、宇宙そして生命の進化史が決めたことから始まっているということではないでしょうか。

 おそらく考えたこともないかもしれませんが、父と母がいて子ども=私が生まれるということも、基本的なかたちとしては今から15億年も前にすでに決まっていたわけです。

 これもまた、考えてみると驚くべきことです。

 毎回えらそうにいっていますが、私も学ぶまでは考えたこともなかったことばかりなんですよ。

 学べば学ぶほど、世界・コスモスは驚きに満ちています。

 ところで、たぶん読者も実感しておられるでしょうが、性があるということはとても魅力的なことであると同時に、いろいろな悩みやトラブルの元でもあります。

 異性がいない世界を想像すると、実につまらない味気ない世界だろうと思われます。

 私は、この世に女性が存在しなかったら、ほとんど生きている意味がなくなるのではないかと思うくらい、女性がこの世に存在していてくれるということはすばらしいことだと感じています。

 幸いにして、女性の方にうかがっても、たいていの場合は、男性のいない世界なんてつまらないといってくださいます。

 お互いが異なった性であるということは、とてもいいことですね。

 でも、時には、異性なんかいなかったら、性というものがなかったら、どんなに人生が単純ですっきりとしているだろうという気がすることもありませんか。

 どうして宇宙は、こういう素敵でもあり面倒でもあり、時にはとても醜く汚らしくもなるような性というものを創ったのでしょう。

 そのいちばん出発点・原点のところ、つまり「性の創発」の意味を考えてみたいと思います。

 (これは出発点での意味であって、すべての意味ではありませんが。)

 ある生物学者がこういっています(ショップ『失われた化石記録』講談社現代新書)。

 「あらゆる進化上の革新のなかで、二つの事柄がとりわけ重要なものとしてきわだっている。

 その一つは、酸素を発生するシアノバクテリアの光合成……。

 二つめは、真核生物の性であり、高等生物における遺伝的変異の主たる供給源で、かつ著しい多様性と急速な進化の原因となった革新であった。」

 すでにお話しした光合成に続く、進化史上のもう一つの大事件が、性の始まりだというのです。

 どういう意味で大事件なのでしょう。

 生命の中にオスとメスの違いが生まれた決定的な意味は、無性生殖のように細胞分裂で遺伝子が単純にコピーされるだけではなく、オスとメスの遺伝子が半分ずつ組み合わされるようになったということらしいのです。

 単純なコピーでは、コピーのズレやまちがいを除いて、新しいものが生まれてくる可能性はごくわずかです。

 しかも生命情報としての遺伝子は、新しければいいというものではなく、環境に適応できるものでなければなりません。

 単純なコピーのまちがいでできた新しい遺伝子のほとんどは、環境に不適応なものだったと推測されます。

 したがって、生命の新しくてしかも適応的なかたちができる可能性はほとんどありません。

 ですから、実際、初期の生命の進化は非常にゆっくりとしたものだったようです。

 ところが、性というものが創発――新しく創造的に発生――して、オスとメスの別々の遺伝子が半分ずつ組み合わされるようになると、新しいものが生まれてくる可能性が驚くほど高まったのです。

 どのくらい違うかというと、例えば無性生殖で1つの遺伝子に10の突然変異が起こったとすると、できる遺伝子の組み合わせは元のもの+10=11、つまり11通りだけです。

 ところが、有性生殖だと、10通りの突然変異が混ぜられて3の10乗通り、約6万通りができるのだそうです。

 大変な違いで、変異の数が増えれば、もちろん違いももっと大きくなります。

 実際、有性生殖によって生物の多様化が爆発的に促進されたといわれています。

 今、この地球上に確認されているものは一説によれば500万種、推測2500万種の生命がいろいろ多様に存在しています。

 さらに最近の説では、さらにその10倍くらい、2億5000万種くらいいるのではないかともいわれているようです。

 何とも大変な数ですね。

 そしてここで重要なポイントは、実に豊かな生命の多様性は性によってもたらされたということです。

 私たち人間の、個人個人のつごうとしてだけでなく、地球自体、性がなければ実に単調な世界のままだったでしょう。

 これまで、宇宙には自己組織化―複雑化という方向性があるという話をしてきました。

 「組織化」とは、混沌とした癒着状態でもなく、ばらばらな分離・分裂状態でもなく、全体がそれぞれの部分に分化――区分・区別できる状態になること――しながら、しかも統合されている、つまりつながりあってまとまりをなしているということです。

 オスとメスも、分化しながら統合されたかたちで、いのちをつないでいき、さらに新しいいのちのかたちを生み出していくという働きをするために、生命の歴史の中で創発したもののようです。

 そして、オスとメスのつながり-結びつきによって生命の新しい種が多様に生み出されてきたという生命進化の流れの中に、哺乳類も霊長類もそして現生人類もあるのです。

 オスとメスの分化と統合がなかったら、こんなにも豊かな生命の種が存在する世界にはならなかったし、人類も発生しなかったし、私の両親も私も生まれなかったんですね。

 そう考えると、確かに性の創発は進化の重大な事件の一つだという感じがしませんか。

 それは、個人レベルでいえば、みなさんそれぞれが、男性あるいは女性であるということも、宇宙進化の流れの中、生命進化の流れの中で一つの役割を担うように、ヒトのオス・メスになっているということではないでしょうか。

 生命進化における性の役割をまとめていえば、①いのちをつないでいくことと、②いのちをより豊かにしていくこと、の2つだといっていいでしょう。

 ということはまた、自分が男か女であることには、生命進化上での決定的な意味があるといえます。

 あるいは、さらに宇宙的な意味があるということもできるのです。

 もちろんいろいろな事情で、生理的に男性か女性かはっきりしない人もいますし、自分の生理的な性と心理的な性が一致しないという人もいます。

 もちろん、そういう人の人間としての権利は認める必要はあります。

 しかし、だからといって男と女の区別はなくなったほうがいい、同じであるべきだ、あるいはあいまいでいい、ということにはならない、と私は考えています。

 男と女が違った存在であり、男か女であるということには、生命の歴史の中ではっきり意味があるように思われます。

 ですから、男も女も、自分に与えられた性を「自分の好きなように勝手に」使うと、宇宙の方向性から外れ、その結果として自分にもまわりにもいろいろな歪み、傷、悪影響を与えることになるでしょう。

 この授業では、性の倫理について詳しくお話しすることはしません。

 ただここでは、もっともスタートのところから現在に到るまで、私たちが生かされて生きているこの宇宙には「関係ないだろ」、「私の勝手でしょ」といってすますことのできない事実があり、性に関してもそうだ、ということだけ、伝えておきたいと思います。

 ネット学生のみなさんは、ただの偶然だと思っていたかもしれませんが、「自分が男に生まれたこと、女に生まれたことには、宇宙的・進化史的な意味があるのではないか」ということを、ぜひ一度考えてみてください。

 そしてよかったら、何となく恋をしたり、安易にセックスをしたりする前に、「もしかすると、私が恋をしたり、セックスしたりすることは、宇宙の進化という長い長いいのちの流れの、ちいさな、けれどもとても大切な一こまなのかもしれない」と考えてみてはどうでしょう。

 そのほうが、恋もセックスも、それこそロマンティック、ドラマティックになるはずです。


*やや詳しくは、サングラハ心理学研究所のHPにアクセスして、会報第72号の「性と愛のコスモロジー」をお読みください。また、時々、「コスモロジー的恋愛論講座」を開催していますので、よかったらプログラムを見てお出かけください。

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近代とエコ・システムの破壊

2005年11月01日 | いのちの大切さ

 進化のこの段階まで来ると、生命でないもの(例えば太陽、大地、水、空気などなど)と生命が分化し、生命も微生物や植物や動物というふうに無数に分化し、でもすべてがしっかりとつながってエコ・システムをなしている、つまり統合されていることがわかります。

 宇宙は、分化と統合、分化と統合……というふうに複雑化し続けている、つまり進化しているのです。

 私たちもそういう進化の流れの中にあり、進化の流れが生み出したエコ・システムの一部として存在しています。

 それなのに、人間だけが、ほかの生命たちの都合を無視して、自分たちの勝手な産業活動をやっていいと錯覚しはじめたのが近代、この2~300年くらいです。

近代人は、この2~300年間、勝手なことをやって、その結果、海や大気が汚染され、二酸化炭素が増え、地球温暖化が起こり……たぶんまちがいなく、この数年の夏の暑さや暖冬、極端な雨不足かと思えば集中豪雨、ハリケーンの巨大化などなどの「異常気象」は地球温暖化のせいだと思われます。

 近代人のそうした自分勝手な産業活動は、実は近代合理主義と近代科学、それに裏付けられた技術と深く関わっていることは、すでにお話ししてきたとおりです。

 人間以外の自然と人間とは、おなじ1つの自然であり、つながりあいながら1つのエコ・システムをなしているのですが、近代人は、主体・人間と客体・自然が分離しているかのように考え、そうした分離思考を元に生活を営んできたのです。

 今、その限界・欠陥が決定的なかたちで現われ、エコ・システムが破壊されようとしているのではないでしょうか。

 エコ・システムは人類の生活の基盤ですから、それが破壊されれば、やがて人類の生活も崩壊してしまいます。

 しかし、私たちが、こういう40億年の生命の歴史、あるいは宇宙の137億年の歴史の中で、宇宙とつながり、自然とつながって、「生かされて生きている」というふうに自分を捉えはじめた時、今までとはちょっと違う人生観と生き方が起こってくるはずです。

 というより、そういう現代科学に裏付けられた新しいコスモロジーと、それに基づいた新しい技術と産業が生み出されないかぎり、いわゆる「環境問題」の根本的な解決はありえない、と私は考えています。

 いや、こういう否定的な言い方はやめて、肯定的に言い換えましょう。

 現代科学のつながりコスモロジーへの理解が大きく広がり、それに基づいた新しい技術や産業が創発する時、きわめて困難で、ほとんど絶望的にさえ思える「環境問題」に、根本的な解決の方向が開けてくる、と私は確信しているのですが、ネット学生のみなさんはどうお考えでしょう?

 ぜひ、意見を聞かせてほしいと思います。

 なお、私の「環境問題」についてのより詳しい意見に関心を持っていただける方は、サングラハ心理学研究所のHPにアクセスして「自然成長型文明に向けて」という論文をお読みいただけると幸いです。

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