あれからもう何年経つだろうか。
南アルプスの北部、北のはずれの夜叉神峠から、30キロ近いザックを担いで登って行った。たった一人で。
鳳凰三山を登り、北沢峠。
甲斐駒ケ岳に登り、仙丈岳。
野呂川越えから北岳、間ノ岳、農鳥、西農鳥、そして熊ノ平。
塩見岳を経て三伏峠、大鹿村へ下山。
いつか残りの南アルプス南部の縦走をしようと思っていた。
数えてみればもう35年以上昔のことだ。
* * * * * * * * * * * * * *
この春、買い物途中やランニング途中で脚が痺れて、立っていられない症状に襲われた。
外科医は冷徹に告げた。
『典型的な脊柱管狭窄症ですな』
それでも、南アルプス南部への山旅の思いは捨てられなかった。
ランニングで磨り減ってしまったトレランシューズを新調した。
テント、寝袋、防寒着、炊事用具、雨具、食料を用意した。
入山口を調べた。光岳から聖、赤石、荒川、三伏峠と辿るのが一番妥当だと思えた。
ところが公共交通機関利用だと、入山口の易老渡までタクシーで1万6千円ほどかかるらしい。
あきらめて自家用車で行くことにした。
そうすると同じところに下山しなければならない。
改めて計画を練り直した。
今回は易老渡~光岳~聖岳~易老渡の周遊コースにしよう。
* * * * * * *
7月27日午前2時に出発。
同じ長野県とはいえ、北と南。二百数十キロの距離がある。これは東海道の、実に半分の距離に当たる。
易老渡には現在タクシーしか乗り入れできない。
自家用車は4キロほど手前の駐車場に停める。
6時半、貧乏人は、ここから歩く。
途中、何台かのタクシーが下って行き、登って行った。
久しぶりに背負った幕営用の荷が、きりきりと肩に食い込んだ。
傍らに遠山川の激流を見ながら、前かがみになりながらひたすら歩いた。
若いころは、こんな風に上高地あたりを歩いていたなあ。
50分ほど歩いて、光岳の入山口に着いた。
この橋を渡れば、いよいよ登山路になる。
少し歩くと、先ほどのタクシーで入ったらしい富裕層の人々が、二人、少し離れてまた二人、その先には単独の人という風に、それぞれのペースで登っている。
急な坂が続き、先行者は路を譲る。
いかにも南アルプスらしい、苔むした林の中を、たくさんの汗をかきながら歩き続けた。
霧の中で、木の葉が美しかった。
登山道には数字の標識。
この数字が、ペース配分と心理的な励み。
稜線の易老岳には11時20分に着いた。易老渡から4時間。
標準のコースタイムは5時間40分。重い荷を背負っていたことを考えれば、まずまずの成果。
腰の痛みも全くない。脚も痺れない。
この体は、もはや山登りに特化してしまったか。
稜線を右に辿れば光岳、左に辿れば聖岳。
今回は光岳を往復してここに戻り、聖岳を目指す。
稜線上は霧が出て、眺望は利かない。
南アルプスらしく2500メートル付近でも豊かな森林が登山道の両側に続く。
途中、イザルガ岳への分岐がある。
ザックを置いて、空身で往復。
ザックを下ろすと、体が妙に軽く、歩いても、体がふわふわしていた。すっかり重さになじんでしまったのだ。
この感じは本当に久しぶり。
静高平という草原に出た。
高山植物が咲いていた。
露に濡れたハクサンフウロ。
南アルプスのおいしい水。
飲み放題。
光小屋に着いたのは1時20分。易老渡から6時間。
小屋で受付。早い到着なので、テント場は一番乗り。
一番奥が我が家。
まだ早いので光岳と光石を往復することにした。
光岳はテカリダケと読む。
『山名の起こりは、寸俣川の谷間からこの山を望むと、満月の夜には山頂付近の岩が月の光を反射してキラキラ光ることからきたものであるといわれる。本当に何とロマンチックな山名なのだろうか。しかも【てかり】という鄙びた方言がまた山の深さを物語って、なんともいえぬ暖かさをもっている。深い針葉樹林に包まれた山腹の、こんもり茂る黒木の中に、白い大きな岩が神秘的な月の光を浴びて光る静かな夜の光景は、心に描いてみるだにロマンチックな絵そのものである。』
信州百名山の著者、我が敬愛する清水栄一はこのように書く。
2,591メートルの山頂は数人の登山者。
日本百名山の最後の山が、この光岳だという人に、この山旅で3人に出会った。
やはり、縦走路から大きく外れたこの山は、まさに奥深い山なのだ。
そして、南アルプス最南の日本百名山。そして、世界でも最も南にハイマツのある山。
これがテカリ石。向こう側は恐ろしく切り立った崖になっていた。
夕刻、霧が晴れた。
雲海の中に、南アルプス最南部から見た赤石山脈の峰々が島のように浮かんでいた。
隣のテントの青年は、一週間かけて北沢峠から縦走してきたという。
その間ずっと雨に降られたと、それでも満ち足りた顔で言う。
そんな中で、こんな景色を見られれば、言うことはない。
ながいながい間、想い続けた山の懐に抱かれて、テントの中で眠りに就いた。
(光岳の項終わり)
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