朝から快晴です.
でもそろそろ冬将軍の出番でしょうか?
今日は、恐縮ながら、すごく私ごとですが、このブログは、私にとって
日記でもありますので少し個人的な内容、書かせて戴きます.
母が亡くなったのが、2年前、、、
12月3日生まれの母、、もし今存命なら、95歳になります.
亡くなる日まで、病気一つせず、その日は、
なんと午前中に、美容院に一人で行きました.
帰ってきて、家の庭で、転んで頭を打って
そのまま逝ってしまいました.
私は、母には毎日夕方電話をかけていましたので
前の日にも電話かけていました.
たしか、風呂は気持ちいいねえ!とかの話でした.
亡くなってから、母の日記を見たら、亡くなる前の日に
ちゃんと自分から電話もらったことが書かれていました.
更に、亡くなる日、美容院から帰ってきて、多分お昼頃、
日記に「今帰ってきました」、、、と書いてありました.
なんと母は、一日を何回かに分けて日記を書いていたのです.
最後になってしまったその日の日記を見た時は
すごい!の一言でした.
当時92歳の母が、そんなことしていました.
家には自分一人でいい、、て言って一人で住んでいた母.
どうして、自分が一緒に住んであげなかったのか!
悔やんでも悔やみきれません.
また、台所の白板に5月31日(晴れ)、、と書いてありました.
兄弟誰ひとり、それを消すことはできませんでした.
いつも12月になると、母を思い出します.
ハワイアンの好きだった母、、だからか、兄弟共に
今でもハワイアンが好きです.そして楽器も少し触ります.
親の影響ってすごいです.
場合によっては、子供の運命を決めてしまうことさえ
あります.
母に聴いてもらった最後のスチールハワイアンは
フラブルースでした. ソル・フーピーで有名ですが.
「いいね、いいね」っていってくれました.
この後、「鈴懸けの径」を弾きましたが、さっきのを
もう一度ってフラブルースをリクエストしました.
マイナーコードはあまりお好きでないようでした.
母は、明るい曲が好きで、演歌は嫌いでした.
もともと能天気な性質で、なんでも前向きに
考えてくれました.
(家の近くの茅ヶ崎パシフイック・ホテル、1970年頃)
海が好きな自分が、帰ってきたらすぐに冷たい麦茶を
出してくれました.
就職、結婚全て、「そうかい、そうかい」ってやさしく喜んで
くれました. 反対された記憶はありません.
3人兄弟でしたが、自分が一番下だったので、茅ヶ崎の
実家にいる頃は、子供では自分だけでした.
やさしい母! 12月になると、今でも思い出します.
今でも自分の心の中には、母はいます.
生んでくれて、ありがとう! ってね.