song1234です. こんにちは、お元気ですか?

日記です。Since 2007年11月~、神奈川県湘南在住、ハワイアン、ウクレレ、スチールギター演奏が趣味。

スチールギター・バッキー白片氏・その1

2021年07月04日 16時39分19秒 | スチールギター

バッキー白片、、、、
日本のハワイアンを語るなら、欠かすことのできない方が、バッキー白片氏だと思う。
ハワイアンファンなら、ほとんどの方が、そう思うでしよう。

オイラのブログは、今まで3回引っ越しいる。
ライブドア→ヤフー→そして、このGooブログ。
このgooブログで、14年以上になるが
ハワイアン、スチールギターを課題にした日記なのに、大御所のバッキーさんのことを
あまり取り上げていないことは、「それは、ないだろう」でした。
あ、レコード、CD等では、当然何回も取り上げているけど。。。

氏の情報は、多数あるけど、氏の生い立ちとかの紹介は意外とまとまった形のものは、少ない。
特に氏の代名詞のような「スチールギター」は、残念ながら、最近は知名度が低いので、
しっかりと、ブログレベルですが、残しておきたい、、
というのが、僭越ながら、おいら、、一庶民、、ハワイアンを愛する者として記録しておきたい、、
という気持ちです。

今回は、バッキー白片氏を、詳細に取り上げているが「バッキー白片 ハワイアン・パラダイス」、
早津敏彦著、サンクリエイト社出版、昭和57年10月発行の、本を中心に、紹介したい。
この本は、検索すれば、すぐに出てくるが、情報としては、そこまで。
具体的な内容は、ありません、、。
(おいらだけ知らなくて、あるのかもしれないけど、、、、、、。)
そういうことで、ブログにでも残しておけば、少しは具体的に残せるかな?

とうことで、僭越ですが、偉大なハワイアン・スチールギタープレイヤー、バッキー白片氏の
ご紹介を書き込んでみました。長いですよ。。

ですから、ハワイアン、スチールギターに興味のない方は、ここで、パスしてください。
ハワイアンにご興味のお持ちの方は、じっくりお読みください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どの位の量になるか、分かりませんが、少なくとも
1回では終わらないので、今日は、「その1」とします。
どの位まで続くのか?分かりませんが、ともかく、バッキーさんの晩年までは
しっかりとご紹介させて頂きます。では。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回は、その1、「出生から、氏が20歳のころまで」。。
以下、その(2)「20歳から60歳まで」、その(3)「60歳から晩年まで」??
という形で書きたいと思いますが、いつ頃になるかは、分かりませんが
なるべく、日を空けない近づけて書きます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、その1、「出生から、20歳まで」です。
参考にした本は、↓「バッキー・白片 ハワイアンパラダイス」早津敏彦著、サンクリエート出版
(昭和57年(1982年)10月発行、、)、全285頁、です。

なお、著者様が書かれていない、オイラの勝手な言い分も時々入れてます。
著者様に失礼のないように、その時は、勝手に、( )をしてオイラ:と書きます。


「バッキー白片氏の誕生」
バッキー白片氏は、明治45年4月16日(1912年)に、ハワイで生まれた。
バッキーさんの父親、白片民一氏は、明治22年4月(1889年)生まれ、3歳の時に
ハワイに、山口県熊毛郡平生町から、ハワイに山城丸で移民している。
でも、この時、父親の民一氏は、まだ3歳、、叔父夫婦に伴われて来布したらしい(バッキー談)。
当然、まだ、バッキー白片氏誕生の20年以上も前の話である。

日本から、ハワイへの渡航は、1868年(明治元年)の153名から始まり
以降、1885年(明治18年)から1894年(明治27年)に至るまでに
26回に及ぶ「官約移民」と呼ばれる、政府の斡旋したハワイへの日本人の移民が
行われた。これは1894年に民間に委託されるまで、続いた。
(その後、1900年までの移民を、契約移民、1908年までの移民を
自由移民と呼称されている。)
移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場の労働力確保が目的だった。
他に、中国、ポルトガル、ドイツなど様々な国から来島しているが
日本からの移民が最も多かった。

1894年までの移民の輸送船の山城丸は、26回に及ぶ官約移民中で、
2,527トン、日清戦争直近の日本では、最大最新鋭の、民有の鉄船だった。

民一氏が、来布した1892年の移民船は、山城丸だけだった。1月、6月、11月の、
3回に渡りハワイへ航海しているが、どの回船に、民一氏が乗ったかは不明である。
但し、1892年の移民船山城丸に乗った総数、3,217名の一人であることは確かである。
1868年から1885年に至る日本からの26回に及ぶ移民による渡航者は、
約3万人になる。
当時のハワイの総人口は、9万人、ホノルルで、3万人という時代だったので
日本人の渡航者の数は、驚くべき比率であった。
ハワイに渡った移民は、主に、広島、山口の両県人が多かった。

尚、その頃のハワイは、どのような時代だったのか?!
父民一氏が、来布した直後(1892年)は、リリウオカラニ女王の
王朝の廃絶、ハワイ仮政府の樹立等、激動の時だった。
スチールギターの登場には、二つの説がある。
一つが、ハワイ移民のインド人、ガブリエル・ケククだとするならば、1885年となり、
他の一つである、ジョセフ・ケクク(1874-1932)、オアフ島・ライエ出身
のハワイ人一学生、説ならば、1893年となる。
いずれにせよ、どちらなのか、は明確でない。

その後、父民一氏は、満17歳の時に、単身来布した和田キク(1890-1961)16歳と
結婚した。いわゆる、写真一枚を頼りに、いわゆる写真結婚である。

尚、母和田キク氏は、琴と三味線をしていたというから、バッキー白片は、母キクの血筋を
受け継いだのかも知れない。

そして、バッキー白片は、明治45年(1912年)4月16日に次男として生まれた。
(オイラ:この年は、7月より、元号が大正元年になる)

本名:レイモンド・白片力(つとむ)
家族は、父:白片民一、母:キク、長男:トマス、次男:力(バッキー白片)、
弟:ボローである。
↓写真は、バッキー一家(バッキーが、大学時代)。
右から、父:民一、兄:トマス、母:キク、バッキー白片、弟:ボロー。


レイ少年(バッキー氏)は、小学生の頃から、人が弾いているウクレレを見ていた。
彼がウクレレを覚えたのが、10歳の時、見よう見まねで演奏するようになった。
その後、レイ少年がドラマーになったのが、日本でいう中学一年生の時だった。
何故ドラマーを選んだのか?だが、当時学校では、軍事教練があって、9ポンドの
銃を担ぎたくなかったからで。ドラマーなら重い銃を担がなくていい、、ので、多くの生徒達が
ドラマー希望に殺到した。先生のテストがあって、音感鋭いレイ少年は、見事にドラマー
希望に合格した。合格者は、たった二名だけだった。
その後、レイ少年は、マッキンレー・ハイ・スクール(1926-1930)に入学した。
当時は、633制でなく、684制、、つまり、マッキンレーは、中学3年生から
高校3年までに相当する。ここでレイ少年は、クオーテットバンドで、ドラムを担当する。
バンドと言っても、4人、、だが、アルバイトで、ジャズを演奏して小遣いを稼いだ。

レイ少年が、ウッドスチールギター(以下、WSG)に興味を持ち、自宅で
演奏をはじめたのが、高校4年、17歳(1929年)だった。
但し、両親は、他所で弾くことは厳禁だった。
彼が強く影響を受けたのが、ソル・ホオピイだった。

翌1930年レイモンド・白片は、医師になるべくハワイ大学に進学した。
当時のWSGの弱点は、音量不足だったが、リッケンバッカーがついに、電気化に
成功して、音量不足の欠点を、突破した。
1931年最初に世に出したのが、A-22と、A-25 だった。
当時は、その形から、フライパンとか、パン・ケーキの愛称で呼んでいた。
値段は、62ドル50セント、小形アンプとのセットでは、125ドルだった。
当時の1ドルは、2円、月給50円は良い方だった時代。
物価指数からみると、現在なら、80万円位になるか?
ともかく、当時は、ソル・ホオピイの演奏は、欠かさず聴きに行っていた。

ハワイ大学在学中は、ホノルル・シンフオニー・オーケストラ(各国人参加混合)に参加して、
ドラムを受け持っていた。
アルバイトで、大いに稼ぎ、殆どを楽器購入に使っていた。
当然、前述の、リッケンバッカー製のスチールギター(以下SG)も保有した。

バッキーは、ホノルル・シンフオニー・オーケストラで勉強した経験は
クラシック音楽の基礎から叩き込まれ、ジャズや、ハワイ民謡と幅広く
音楽に取り組んでいた、、、(注:オイラから、、この経験は、大きかったと思います)。

1933年(昭和8年)4月、日本で、モアナ・グリー・クラブを主宰していた
ハリー・灰田可勝(よしかつ、後の、有紀彦、1909年生まれ)に、バッキーは
灰田氏に会っている。
当時、灰田氏が慶応の予科を終了したあと、ハワイ大学に入ろうと来布していた。
バッキーは、そのことを新聞で知り、灰田氏を訪ねてきたのだ。
バッキーは、仲間3人でやってきて、演奏を灰田氏に
聴いてもらって、感想を求めた。
バッキーは、日本に行って、音楽で身を立てたい、と言った。
灰田氏は、バッキーより3歳年上、、「君は、大学の最終学年にいるのだから
学校を卒業してから、日本に来たらどうか、とアドバイスした(灰田有紀彦談)。

この時、仲間3人は、放送局に出演しなければ駄目だと、テストを受けに行き、一発で合格。
バンド名を、↓アロハ・ハワイアン・トリオとした。

灰田氏には、卒業してから、、と言われたが、バッキーは、待てなかった。
日本に行くことの同意を得て、他の二人と共に、1933年(昭和8年)暮に、
アロハ・ハワイアン・トリオは、ハワイ・ホノルルを出て、日本へ向かった。

・p71:↓写真は、昭和10年(1935年)
(オイラ:注:参考にしている本では、この部分、昭和10年(1935年)と書かれているが
前後の内容から、2年前の1933年と思われる)。
日本に永住の決意で鎌倉丸の船上での、父・民一氏とバッキー白片氏。



1933年ころの、横浜ニュー・グランド・ホテルに出演時の
アロハ・ハワイアン・トリオ、左から、野坂G、バッキー、森脇U。


この三人は、皆、小男だったので、「バック・ショット・ナンバー・・スリー」の
ニックネームが付けられた。
バック・ショットとは、本来は、鴨撃ち等の銃に使う散弾、バラ弾丸の意味だが
転じてスラングでは、「小男」のことをいう。
スラングのバックショットから、転じて、「バッキー」となった。
(おいら:注:バッキーと言われるようになったのが、いつなのかは、不明。
英語表現→スラングから、日本に来る前のハワイでは、、と推察される)

東京に滞在中、機会があって、3人は、コロムビアでレコードを吹き込んだ。
B面だったが、曲は、ウイ・Eと、アカカの滝だった。
その後、アロハ・ハワイアン・トリオは、横浜のホテル・ニュー・ギランドや
溜池のダンス・ホール・フロリダ等に出演した。
アロハ・ハワイアン・トリオは、関西での公演をもって解散したが、バッキーと
野坂はしばらく日本にいたが、二人の音楽の旅は、半年後で終わった。

竜田丸でハワイに帰ったバッキーは、1934年9月、再びハワイ大学に戻った。
バッキーは、医者になるよりミュージシャンとして日本で身を立てる決心を
はっきりと固まっていた。

この頃、トミー・カストロ(1911-1963)というSG(スチールギター)マンがいた。
カストロは、KGMB放送の音楽番組に出演していた。
同局のスタジオには、小さな見物席が設けられていた。スタジオとは防音ガラスで
仕切られているが、音はスピーカーを通して客席に聞こえるようになっていた。
バッキーは、かねてからカストロのチューニングに注目していたので、日参して
その客席に座った。
黙々と通い詰めて、バッキーは遂に、「ミネハハの滝」からカストロのSG調弦が
上から、E,C,A,E、C,Aの、Aマイナーだと見破った。
(注:但し、Aマイナー調弦が、上記カストロの創案なのかは、分からない)

1935年(昭和10年)6月、23歳、バッキーはハワイ大学を卒業した。
しかし、ドクター・シラカタは、誕生しなかった。
バッキーは、父母の祖国である日本で、音楽人になろうと固い決心をしていたからだ。
11月、両親、兄弟に見送られて、鎌倉丸(旧秩父丸)で、日本に向かった。

憧れの日本に着いてから、友人たちのあちこち案内してもらった。
無論、いろんな所で、演奏はしていたはずだが、このあたりは情報がない。

・p。61:1935年(昭和10年)日本に永住の覚悟で日本にくる時に持って来た楽器は
リッケンバッカーSGと、カマカウクレレ、ラドウイグ製のドラム・セットだった。
(アンプは、不明)
12月27日、JOBK(NHK/大阪中央放送)で「ハワイ音楽の夕べ」という
番組があり、この時初めて、村上一徳(かずのり)(1913-1964)と共演する。
村上は、ウクレレ持参、神戸商大、丸坊主、詰襟の学生服を着た22歳の青年だが、彼にとっては
6月、7月に続く三度目の放送出演、既に東京でのコンサートの実績を持っていた。
他方、バッキーは、エレクトロSG、、リッケンバッカーを持って来た。
村上は、初めてエレクトロSGを見て、咽喉から手が出るほどに欲しい、、と思った、、と
後年述懐している。。
↓写真は、当時のJOBK出演時、左から、甲賀清俊、バッキー、村上、ジョージ・アラワ、門脇重博。
1935年12月27日。


その頃、バッキーは神戸に落ち着いた。
神戸の海岸通りにあったダイヤ・クラブでは、ドラムを叩き、ハワイ人たちと、ハワイアンも演奏し、好評だった。
この頃のバッキーの演奏を、村上は、時代を先取りしていたため、客に理解されぬことを悔やんでいた。

昭和10年代(1935年ー1944年)のバッキーは、ジャズバンドでドラム、ギター、時に、ベースを弾き、
後半は、学生の応援を得て、SG一本で立とうと決心した変転期であった。
だが、時代は日中戦争、太平洋戦争に突入し、未曽有の激動期にぶつかる。
ジャズ(当時は、ハワイアン、タンゴもこう呼ばれていた)は、敵性音楽の烙印を押され、
弾圧が加えられ、バッキーは、昭和12年(1937年)11月11日に自分のフアンの妹で
あった大阪府出身の奥井富美子という女性と結婚した。この時、バッキーは、25歳であった。

二世から帰化して日本人となったが、この頃が、バッキーにとって、精神的、肉体的、
経済的に、最も苦しんだ試練の時だったにちがいない。
昼は、尼崎のタイガー、夜は、神戸のダイヤ・クラブをジョーたちと出演して
なんとかしのいだ。

少し時が前後するが、アズマニアンズという楽団は、昭和11年(1936年)にオープンし、
当時横浜のダンス・ホール「フロリダ」に出演していたが、バッキーのSGに注目し、
後バッキーは専属となる。
バッキーのSGは、このあたりから日本の若い音楽マニア達を熱狂させた。
そのアズマニアンズの演奏を横浜山下町のフロリダで聴いて毎晩スチールを聴きに来る慶応ボーイが
2,3人いたが、その一人が、後のベースマンになる、当時19歳の藤原満穂氏であった。
彼は、バッキーの演奏に夢中になり、楽屋に面会に行き、交際が始まった。
1937年(昭和12年)7月に、盧溝橋事変が起きて、日中戦争が始まっている。

昭和12年(1937年)頃のアロハ・ハワイアンズ、
前列左から、鶴田、清水、新納、後列左から、バッキー、星野、香田。


そして、レイ・キング楽団の吹込み時、於いて:コロムビア・スタジオ、
左から、岡見如雪、月村博光、テイーブ・釜萢(ムッシュの父)、バッキー、一人於いて、山口。



昭和18年(1943年)、江の島海岸にて、三根(デックミネ)音楽集団メンバーと。
後列右がデックミネ、3人目が、バッキー。



(オイラ:第二次世界大戦中は、バッキーは、苦しい時期だった。
その中で、デックミネ(三根)は、恩人になる。
いろんな仕事を持ってきてくれた。。
でも、戦争は、なかなか終わらない、、バッキーの試練の時期だったに違いない。。)

(以下は、その2、、近日投稿予定です。へ続きます)




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3 コメント

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Unknown (no name)
2021-07-05 13:14:47
著作権侵害にお気をつけください。
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マルチタレント (Tommy)
2021-07-05 15:37:18
バッキー白片の生い立ち、漠然と何となく知ってたつもりでしたが、ここまで詳しく紹介してもらい、改めて知る事ばかりです。
太平洋戦争前は、次第に軍事色が濃くなっていき、jazzなんかの敵性音楽は白い目で見られていたんですね。
バッキーさん、ドラム・ウクレレ・ベースなど何でもこなしておられたんですか。
もし今の時代なら、一人で吹込み多重録音で どんな音楽を作っておられたんでしょうか。
次回以降の続編を楽しみにしています。
返信する
トミー様 (song1234)
2021-07-05 16:34:02
手先が大変器用でおられたようですね。お父様が、3歳の時にハワイへ、、当然、バッキーさんは、生まれていません。戦争時は、さぞご苦労されたと思います。軍が敵スパイの容疑者として、監視していたらしいですから。。なんとも悲しい、許せない気持ちになります。こんな演奏できる人って、これからも出てこないのでは、、と思います。バッキー、、オッパチ、、良きライバルの存在も大きかったかもですね。。
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