上野公園といえば西郷隆盛さんの銅像があることで有名ですが、なぜ西郷さんの銅像が上野公園にあるのかは知らない人が多いのではないかと思います。
かく言う自分もつい最近まで知りませんでした。
上野公園は、もともと徳川家のお寺である寛永寺が所有していた敷地で、その寛永寺には明治維新に不満を持つ武士たちが集い、彰義隊と名乗って新政府軍と対峙していました。
ここは政治体制が切り替わる幕末において、文字通り戦場だったのです。
新政府軍の指揮をとったひとりが西郷隆盛でした。後々に新政府と決別して、日本史上最後の内乱と呼ばれる西南戦争後では朝敵と認定されるのですが、生前の彰義隊を討伐した働きぶりが評価されて上野に銅像が建てられました。
▲上野公園の地図
▲寛永寺の正門(黒門)あとに、こうした歴史を伝えるモニュメントが建てられてあります。西郷隆盛の率いる兵士は、ここから突撃しました
▲横の階段をのぼり
▲すぐ右手に西郷隆盛の銅像があります
江戸無血開城と呼ばれていた大政奉還のときでも、局地的ながら流血事態が起きていました。
どんな時代も権力が移行する時はかならず激しい衝突が起こり、権力の坐を奪われた側は敗北者として歴史の片隅に追いやられます
▲西郷隆盛の銅像のそばにあるのが
▲上野戦争で散った彰義隊のお墓です
▲彰義隊のお墓も一緒になって紹介されないと、なぜ西郷隆盛の銅像が上野にあるのか説明できないでしょう
ちなみに銅像の除幕式に招かれた未亡人の奥さん(西郷糸子。通称いと)が、「あらまあ、うちの人はこんなんではなかったわ!」(アラヨウ、宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ!)と言ったエピソードはあまりに有名ですが、西郷さんはどんな立場の相手であれ常に正装で会っていたらしく、銅像が浴衣姿だったことからそれが原因ではないかと言われています。
最初は軍人ゆえに軍服を着せる予定だったのですが、いくら許されたとはいえ西南戦争では新政府に反旗を翻した逆賊だったので、ウサギ狩りに行くラフな格好にしたようです。
また西郷さんは極端な写真嫌いだったので誰も正確にその顔立ちを表現できる人はおらず、やはりある程度違っていた可能性は十分あります。
そして決定的に違うのは西郷さんはバンクロフト糸状虫に感染していたので陰嚢が象皮病(陰嚢水腫)になっており、とてつもなく大きな睾丸を抱えていたことです。
▲こうなります
事実、彼の死を認められたのは象皮病の陰嚢を持った巨体な男が自害していたからでした。
ただ銅像を作製するにあたって様々な忖度や政治的配慮があったのは想像難くありません。そうしたこともあって、奥さんが「こんなの、うちの人とちがう!」と言ったのでしょう。
自分もつい最近まで知らなかったんですよ!
たまたま桜を見に行ったときに西郷さんの銅像があって、解説に経緯が書かれてあったのでナルホド~と思ってブログに書きました。
調べれば調べるほど西郷さんは日本の歴史に重要な仕事をした人なんだなって思いました。
過激な思想の持ち主でもあったのですが、すごく思いやりのある人で、この人のためなら死んでも構わない!と思わせるほど魅力あふれる人だったようですね。
そうだったんですか?いやあ さすがですね!モンモン この銅像 夜見た事あるけど 解説暗くて読まなかったわあ!
いつもビシッと決めて正装だったとか なんとか病とかも知らなかったわあ!
この病気 移動が大変そうですね!
💖😊ユーユーさんは 博学だわあ!🐼❤️
モンモンは 大食いだわあ!アッハッハ
たしかに夜だと解説の石板が黒だから読めないですよね!
西郷さんの博愛エピソードは色々とあるのですが、奥さんに屋根が雨漏りするから治してほしいと頼まれたら、他の人たちも穴の空いた屋根で暮らしているのだから自分の家だけ直すわけにはいけないと突っぱねたり、食べ物に困ってるときでも犬に食べ物を分け与えていたり、明治天皇に男なら痛いと言いなさるなと忠言するほど豪傑な人だったようです。
たしかにあの大きなオチンチンをぶらさげてどうやって移動したんだろうと自分も不思議でした笑
大食いは健康の証だから良いことだと思いますよ!