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ブログ版 シュプリッターエコー

美しい鬼だった―清原選手引退

2008-10-02 00:36:41 | スポーツ、オリンピック
 ゆうべのことです。
 JR三ノ宮駅の角の交差点に人だかりができていました。
 テレビに見入っている人びとでした。
 
 テレビの画面では大映しになって男の顔が泣いていました。
 鬼のようなコワい顔をくしゃくしゃにして泣いていました。
 野球の鬼となった男です。

 鬼は、京セラドームの、その上の、夜空に向かって叫びました。
 「天国の仰木監督、ありがとうございます」
 しぼりだすように叫びました。

 23年前、甲子園球場で笑顔を輝かせていた高校球児。
 あのさわやかな若者が、あのあとプロ野球の世界に数々の記録を残し、そして鬼のような顔になって、いま現役を去ろうとしているのです。
 プロ選手としての闘いの年月が、闘いの人生が深く、深く、刻まれた顔なのです。 
 退場の花道では、5歳と3歳になる彼のこどもが待っていました。

 清原選手の涙をテレビで見たのは二度目です。
 
 一度目は20年ばかり前の秋、西武ライオンズの選手として日本シリーズで読売ジャイアンツと対戦し、優勝を決めた日のことです。
 勝利が決定的となった最終回、彼は一塁ベースを守りながら、ハラハラと、まるできらめくような大粒の涙を落としました。
 その瞬間をテレビカメラがクローズアップでとらえました。

 プロ世界の入り口で清原選手はいきなり残酷な裏切りに遭いました。
 ジャイアンツが指名を約束しておきながら、ドラフト会議では清原選手の親友の桑田投手を選びました。
 清原選手は大阪の生まれですが、心からジャイアンツにあこがれていたのです。
 最も愛するものからの思いもかけなった裏切り。
 日本シリーズの落涙には、二重にも三重にも、あるいは四重にも五重にも、複雑な心の動きが見えました。

 けれど少年時代に心にはぐくまれたあこがれは、彼じしんにさえどうすることもできないほど強く、深く、熱いものだったのでしょう。
 1996年、FAを取得してついにライオンズからジャイアンツに移ります。
 タイガースの当時の吉田監督が、タテジマのユニホームをヨコジマにしてもいい、清原を大阪に迎えたい、と申し出たのさえ蹴って、です。

 しかしその夢のジャイアンツがまたしても裏切ります。
 年齢を重ねるに従って故障が出はじめ、往年の活躍ができなくなるのはプロの選手の宿命です。
 衰えていく力を取り戻すため、選手もひそかに自分との死闘を繰り広げていくのです。
 清原選手が鬼の顔になったのも、そのころからのことでした。
 けれどジャイアンツはとうとう彼を放り出してしまうのです(2005年)。
 キャリアも誇りも大きな傷を受けました。
 
 救ったのは、オリックス・バファローズの仰木監督(故人)でした。
 「おまえの花道はボクが絶対につくってやる。大阪へ帰ってこい」
 
 だが、ヒザの故障が悪化して、出場もむずかしくなってきました。
 復帰をかけて、手術、トレーニング、とそこにどんなに人知れない苦闘があったか…。
 鬼の形相が深まりました。

 しかし人間とは不思議なものです。
 そんな彼に昔のような罵声(ばせい)を浴びせるものはもういませんでした。
 三振にも大きな拍手が飛ぶようになりました。
 彼がバッターボックスに戻ってくれば、ファンはそれで満ち足りました。

 「大阪、そしてオリックスバファロ-ズのみなさん、思うように活躍できず、申し訳ありませんでした」
 あの大選手が、なんと長い時間、ダイヤモンドの真ん中で頭を下げていたことでしょう。
 
 テレビの前の男たちからもあちこちで鼻をすする音がたちました。

 みなが心のなかでこんなふうに言っているように見えました。
 鬼よ。
 もう鬼でなくていい。
 小さなふたりの少年のパパに帰れ。

 美しい鬼でした。