未だに軍国主義時代を懐かしむ風潮が日本社会にはある。最も目に付くのがスポーツの世界ではないだろうか?日本は科学をスポーツの世界に取り込むことが遅れた。水を飲むな、うさぎ跳び、ケツバット、鉄建制裁などなど私が学生時代日常茶飯事であった。現在は異なるようだが。スポーツは「根性」でやるもので科学など「理屈ではない」と言う世界だった。しかし一見軟弱に見える欧米流のスポーツ科学を享受した選手に日本の選手は勝てなかった。
連戦連勝のナポレオンの軍隊は、ヨーロッパ諸国の古い体質の専制主義国家の軍隊より強力であった。1分間に60歩が行軍の速度だった時代に、ナポレオンは1分間に90歩としそのリズムを維持するために生まれたのがマーチと言う音楽であった。また兵糧が保存が利くように缶詰を開発し、大砲の砲撃の下を突撃したり、まさに天才であった。しかしそのナポレオンの軍隊をワーテルローで打ち破ったのは個人ではなくモルトケと参謀本部を有したドイツ(プロシア)であった。ナポレオンは彼がいない戦場では負けていた。フランス皇帝となり版図が広大になるととても一人では対応できなかった。ナポレオンは部下(高級将校)が手柄を立てることを嫌っていた。自分が戦争の手柄で現在の地位に就いたことを知っていたからだ。また幾らフランス革命が「自由と平等」を旗頭にしていてもこのころの兵士には民主的などという概念が低かった。理想的なワンマン体制である。兵士はナポレオンを神の如く信奉していた。多くの中小企業の社長が憧れる状況である。逆にナポレオンに意見具申するものもいなかった。片やモルトケは戦場でも兵士の自主性を尊重した。どちらが民主的な軍隊であろうか。そしてナポレオンはモルトケと参謀本部と言うチームに負けたのである。天才ナポレオンでさえ民主的軍隊に勝てないのである。まして我々では。この事例を受け入れられない方が日本には多数存在している。
しかし、太平洋戦争前も「日本の軍隊は上官の命令で行動し最強だ」と言われていた。「アメリカの民主主義の軍隊は理屈ばかりで軟弱だ」と言っていたが結果はご存知の通りである。軍隊は民主的になるほど強くなるのである。その他の組織も同じである。歴史が証明している。「いやあれは物量が違いすぎて」と言う日本人が多い、この物量の差を戦場に生かさないようにするのが「戦略」である。根本的なことが理解できていない方が、「根性論」を好むようだし、ワンマン経営に憧れる経営者は多い。
日本人が歴史に学ばない一例である。年号や名前を覚えるのが歴史学ではない。過去の教訓を未来に生かすことが歴史の本道である。人間は経験を未来に生かすことができるが世代が違うと個人の経験など関係なくなる。そこで世代が異なれど「社会の経験」として歴史が重要になる。
連戦連勝のナポレオンの軍隊は、ヨーロッパ諸国の古い体質の専制主義国家の軍隊より強力であった。1分間に60歩が行軍の速度だった時代に、ナポレオンは1分間に90歩としそのリズムを維持するために生まれたのがマーチと言う音楽であった。また兵糧が保存が利くように缶詰を開発し、大砲の砲撃の下を突撃したり、まさに天才であった。しかしそのナポレオンの軍隊をワーテルローで打ち破ったのは個人ではなくモルトケと参謀本部を有したドイツ(プロシア)であった。ナポレオンは彼がいない戦場では負けていた。フランス皇帝となり版図が広大になるととても一人では対応できなかった。ナポレオンは部下(高級将校)が手柄を立てることを嫌っていた。自分が戦争の手柄で現在の地位に就いたことを知っていたからだ。また幾らフランス革命が「自由と平等」を旗頭にしていてもこのころの兵士には民主的などという概念が低かった。理想的なワンマン体制である。兵士はナポレオンを神の如く信奉していた。多くの中小企業の社長が憧れる状況である。逆にナポレオンに意見具申するものもいなかった。片やモルトケは戦場でも兵士の自主性を尊重した。どちらが民主的な軍隊であろうか。そしてナポレオンはモルトケと参謀本部と言うチームに負けたのである。天才ナポレオンでさえ民主的軍隊に勝てないのである。まして我々では。この事例を受け入れられない方が日本には多数存在している。
しかし、太平洋戦争前も「日本の軍隊は上官の命令で行動し最強だ」と言われていた。「アメリカの民主主義の軍隊は理屈ばかりで軟弱だ」と言っていたが結果はご存知の通りである。軍隊は民主的になるほど強くなるのである。その他の組織も同じである。歴史が証明している。「いやあれは物量が違いすぎて」と言う日本人が多い、この物量の差を戦場に生かさないようにするのが「戦略」である。根本的なことが理解できていない方が、「根性論」を好むようだし、ワンマン経営に憧れる経営者は多い。
日本人が歴史に学ばない一例である。年号や名前を覚えるのが歴史学ではない。過去の教訓を未来に生かすことが歴史の本道である。人間は経験を未来に生かすことができるが世代が違うと個人の経験など関係なくなる。そこで世代が異なれど「社会の経験」として歴史が重要になる。