東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

仙台と蔵王 秋から冬へ

2024-11-22 | 仙台・東北

柿干して陸奥の陽を凝縮す  歳々



仙台と蔵王

秋が深まりました。

もうすぐ冬です。








仙台城 琵琶首丁 川内









蔵王 遠刈田温泉















宮城蔵王 不動滝












蔵王不動尊








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山崎君と300MeVすき焼き

2024-11-16 | バイク・山歩き













ツーリングで九州電力玄海原子力発電所に行った。


発電所を見て山崎君のことを思い出した。

山崎尚宏君が逝去した。最近は身内だけで家族葬を行い、その後に訃報を送られることが多くなった。山崎君は、はにかみ屋で内気だが、敵を作らず、親しみがあり芯の強さがあるいい奴だった。謹んでお悔やみ申し上げます。


山崎尚宏君とは修士課程では同じ原子炉工学研究室に所属した。指導は江草龍男教授だった。小生は4年から同研究室に所属していた。

ボクたちが在学中に、東北大学では大騒動となった原子核紛争があって、結果は原子核工学科の歴代教員の総入れ替えとなった。かつて原子炉工学研究室は小林清志教授と飯田嘉宏先生が担当していた。小林教授は静岡大学に移動し後に豊田工大の学長になられ、飯田先生は横浜国大に移り後に横浜国大の学長になられた。その後任に、ボクが4年のとき原子力船事業団から江草龍男先生が教授として赴任してこられた。

山崎尚宏君は学部では原子炉計測研究室に所属していたが、修士課程ではボクと同じ原子炉工学研究室に移動してきた。

修士課程で山崎君とボクはライナックブースターの研究に取り組んだ。学生は前途多難でも無地の心境で薦められたテーマに取組むものだ。ライナックブースターとは加速器と原子炉を組合せた中性子源炉のことで、高い繰り返し周期で原子炉を臨界状態にし、それに同期させて高エネルギー加速器のビームを炉心の中性子源に衝突させ、高密度の中性子パルスを発生させ、物性研究などに役立てる研究用原子炉です。当時はガス炉、軽水炉、重水炉、高速炉と原子力開発は花盛りの興隆期にあり、中性子源パルス炉も研究炉の新しいアイデアのひとつだった。

ライナックブースターの研究会には、仙台市三神峯にある東北大学原子核理学研究施設(核理研)所長の木村一治教授と渡辺昇先生(後に筑波大学教授)、日本原子力研究所の平田実穂先生(後に原研大洗研究所長)と、山崎君とボクの指導教員である江草龍男教授が参加していた。

修士課程1年の山崎君とボクは渡辺昇先生のご指導で三神峯の核理研にある300MeV 電子直線加速器(リニアック、ライナックとも言う)の高速電子ビームを模擬ターゲットに衝突させ、その放射化強度で中性子源の強度分布を予測するという実験を重ねていた。

修士1年次の夏休みには、山崎君とボクは茨城県東海村にある日本原子力研究所(原研)の真砂寮に住み、高速炉設計班の平田実穂室長のもとで猪川さんのご指導でブースターの臨界計算を実施した。

修士2年次では、山崎君は東北大の核理研で300MeV加速器による中性子ターゲットに関する実験を継続して担当し、ボクは原研に移住しブースター炉心の核熱設計を実施した。

修士課程を終了した後、山崎君は三菱原子力(現在は三菱重工)に就職し、その後は軽水炉関連の仕事に従事していると伺っていた。今回ボクがツーリングで行った九電玄海原子力発電所や関電高浜発電所の仕事もあっただろうと思う。彼は忙しくボクらの学科同期会には時たま参加してきたが、そこはお互いに現役だったので、やあ元気かという程度の会話で、自分の会社の仕事や話題を避けるのが企業人たる武士の道と暗黙の合意が成立していた。山崎君は企業を退職後も、つい最近まで国の原子力監査機関で仕事をしていると風の便りで聞いていました。彼は仕事も忙しいのか長いあいだ会うことがなかった。ボクが退職して気ままに過ごしていても、彼は遊ぶ暇もなかったようで、技術者として長きに渡り原子力の一途な道に筋を通して全うしたことには多いに敬意を表します。

山崎君との思い出は、東北大の300MeV加速器実験で遮蔽体の鉛ブロックを一緒になって黙々と積み上げていたこと。鉛は比重11.36で非常に大きく、レンガの比重1.7とは重さが全く違う。鉛がこんなに重いのかと実感したことがある。
次に、たぶんご褒美だと思うが、先生方と山崎君と一緒に、仙台市向山の木村一治先生のご自宅に招待頂き、遠慮もせずに即答で、はしたなくも、すき焼きをご馳走になったことがあった。金欠が常の学生にとって、先生宅のスキヤキは竜宮城の宴か、あるいは天にも昇る思いで舌づつみを打ち、洒落ていて高貴な会話とともに、心豊かになって帰宅した思い出があります。

山崎君、今となれば学生時代は刺激的で思い起こせば楽しいことも多かったですね。そちらでも絶品スキヤキを堪能していてください。合掌



もみじ狩り一期一会の別離かな  歳歳




雲仙 仁田峠




雲仙普賢岳の紅葉










福島浜通り沖

僚船との出会いと別れ





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母成峠古戦場跡

2024-10-26 | バイク・山歩き





母成峠古戦場碑


母成峠(ボナリ峠)は安達太良山中腹の西南方向にある。母成峠の標高は972m、安達太良山頂上の標高 1,728 m。

ここで1868年10月6日に幕府方と朝廷方の戦闘があった。両軍合わせて百余名が戦死。多勢に無勢と装備の差で、幕府方は奮闘するも敗走し、その後、会津城も陥落する。

・幕府方 東軍:大鳥圭介(幕府)、田中源之進(会津)、丹羽丹波(二本松)、土方歳三(新撰組)以下800名
・朝廷方 西軍:板垣退助(土佐)、 伊地知正治(薩摩)、谷干城(土佐)、川村純義(薩摩) 以下3,000名



・王政復古 明治維新 1868年1月3日(慶応3年12月9日)

・戊辰戦争〈1868年1月27日〉 鳥羽・伏見ー 阿波沖ー 甲州勝沼ー 梁田ー 江戸開城ー 宇都宮城ー 市川・船橋ー 五井ー 今市ー 三国峠ー 鯨波ー 上野ー 飯能ー北越戦争(ー 寺泊沖ー 八丁沖)ー 会津戦争(ー 白河口ー 磐城ー 二本松ー 母成峠 〈1868年10月6日〉 ー 会津城攻略)ー 旗巻峠ー 秋田戦争(ー 長岡山)ー 弘道館ー 松山ー 宮古湾ー 箱館戦争(ー 二股口ー 箱館湾) 〈1869年6月27日〉    ウィキペディアより


母成峠古戦場碑は地元の方々ほか多数の寄付により昭和57年(1982年)に建立された。会津、二本松ほか両軍ともに、亡くなった兵士の親族には深い思いが残っていたのだろう。





母成峠から見える吾妻連峰は近い


























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大谷翔平さんと水沢緯度観測所

2024-10-23 | バイク・山歩き

国立天文台水沢VLBI観測所(旧:水沢緯度観測所)

VLBI: Very Long Baseline Interferometry(超長基線電波干渉法) 
電波天文学における天文干渉法の一種である。宇宙のかなたにある天体から届く電波を利用して、離れたアンテナで観測したデータを、原子時計などで計測したタイミング情報とセットにして磁気テープなどに保存し、郵送などにより1か所に集約して相関させることで像を得る手法である。 解像度は、アレイを構成するアンテナのうち、最も離れた二つの間の距離に比例する。(ウィキペディア)

今をときめくロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平さんは岩手県水沢(現、奥州市水沢)の出身だ。奥州市立姉体小学校、水沢南中学校を経て菊地雄星投手(ヒューストン・アストロズ所属 )に憧れて花巻東高校に進学した 。大谷翔平の名前は平泉ゆかりの源義経の八艘翔びから由来しているらしい。日本から太平洋を越え(表現が少し古いが)、トントン拍子に米国メジャーリーグのトップ選手になったのは、心意気は如何にも義経の八艘飛びに似ているではないか。ご本人は意識しておられたかどうかは判らないが、高校時代からメジャーリーグ志向で投打の二刀流を表明していたのは、水沢緯度観測所の設置が織りなす宇宙スケールの気質が心底にあったのではないか、というのは私的で勝手な想像です。

そういえば菊地雄星は盛岡出身、名前も星とヒューストン・アストロズと言えば宇宙そのものではないか。



さて今回は八幡平の紅葉狩りにでもと、いそいそとバイクソロで旅立ったが、少し時間があったので、野次馬気分で、途中にあり以前から気になっていた水沢緯度観測所に立ち寄った。緯度観測とは地味なイメージだったがこれは過ちで、訪問の結果は紅葉以上の思わぬ収穫がありました。写真撮影はOKとのことでした。





国立天文台水沢VLBI観測所内にある奥州宇宙遊学館



子午儀




水沢に緯度観測所が設置されたのは、1895年(明治28年)万国測地学協会において、地球の極が周期的に変動する極運動を調べるため北緯39度8分線上にある米国、イタリア、ロシアなどとともに水沢が候補地となったことに由来する。




宮澤賢治も水沢に設置された緯度観測所に触発されて宇宙に興味を持ち「銀河鉄道の夜」などの作品を書いたと言う。








国立天文台水沢VLBI観測所の電波望遠鏡



原理的には水沢(岩手県)、入来(鹿児島県)、小笠原、石垣島(沖縄県)の4か所の電波望遠鏡を合わせて直径2,300km ! の電波望遠鏡となる。


そういえば昨年2023年2月に石垣島へ行った。その時は原付バイクを借りて石垣島全島を巡ってみた。狭い急坂を上り石垣島の天文台にも行った。なんで離島の山の上に天文台があるのだろうと思ったことがある。
ちなみにその時に石垣島でプロ野球ロッテの春期キャンプがあり、陸前高田出身の佐々木朗希本人の身近に行って見ていた。彼も米国メジャーへの移籍を希望していて、今年のストーブリーグでも話題を提供することでしょう。

故人曰く「転石苔を生ぜず」A rolling stone gathers no moss. の如く、近年ボクの精神には苔が生えそうなので、流体が身体を直撃して洗浄する苔飛ばしのバイク旅を好む。国内も面白いところが多いです。






天文学専用のスーパーコンピュータも設置されている。これに「アテルイ」と命名されている。坂上田村麻呂と同時代人で、朝廷軍との戦いに遊撃戦を仕掛けて連戦連勝した戦の天才、奥州蝦夷の英雄アテルイの名前が付けられている。これも水沢らしい名前だ。

















木村栄先生は明治時代の水沢緯度観測所の所長、地球の内部が液体でマントル対流が影響しているとZ項を発見し学問的成果を上げたことで有名だそうだ。凄いなあ!


木村栄先生は金沢の生まれ、四校、東京帝大卒で水沢の所長を務めながら、子供の教育のために家族を一時は仙台に住まわせたこともあるようだ。



話題も盛りだくさんあるようですが、今日はこのくらいで!











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エネルギー安全保障

2024-10-10 | 安全保障


先週は久しぶりに代々木公園近くの参宮橋にある国立オリンピック記念青少年総合センターに行った。ここは前回の1964年東京オリンピックのときの選手村跡地を整備して造られた施設だ。主に青少年を対象にした宿泊施設も併設されている。海外から来た若い人達が宿泊していた。











今回はこの総合センターにて日本原子力学会の分科会が主催するシンポジウムに参加した。

お目当ては東京大学の有馬純教授の基調講演「地球温暖化・エネルギー安全保障をめぐる国際情勢と日本の課題」。有馬先生はCOP3京都議定書の時代から日本政府代表団の一員として交渉に参加しており、筋金入りの温暖化対策とエネルギーの専門家で日本の第一人者だと思う。

有馬先生の温暖化対策国際交渉の現状とエネルギー安全保障に関する鋭い切り口と明快な分析に、いつもながら感銘を受け、聴講していて知的好奇心を刺激され有益な方向性が示されることに心地良さを感じる。

エネルギー・温暖化をめぐる国際情勢と原子力の役割 – NPO法人 国際環境経済研究所|International Environment and Economy Institute (ieei.or.jp)
https://ieei.or.jp/2024/08/arima_20240802/



それを受け手が行動に移し一般化し波及させる必要があるが、マイナスイメージを持つ大衆の質量が大きく、初動を促し次の段階まで動かすことに苦労する。


国際交渉の現状を見れば、太陽光や風力などの限られた再生可能エネルギーのみの一辺倒だけでは到底実現出来ず、つい最近の国際交渉では原子力の活用を3倍にする必要があるとの合意も実現されつつある。原子力抜きに温暖化対策とエネルギー安全保障は成立しない。

現実の世界はマスコミや環境原理主義者が麗賛する太陽光などの再生可能エネルギーのみで問題は解決しないということだ。我が国のマスコミが環境とエネルギーに関して大きく欠損している部分が多いことを知る必要がある。

コロナ禍で会議や活動が制限されてきた中で、環境とエネルギーに関して多くの方々が継続して取組んでこられたことに敬意を表します。


季節は巡るが時間は確実に積み重ねて経過し発散する。
先週は北海道大雪山の紅葉を見た。代々木参宮橋付近のイチョウが鮮やかな黄色に色付くのは11月半ば以降でしょうか。










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大雪山紅葉

2024-10-07 | バイク・山歩き

北海道大雪山系 旭岳の紅葉




巡りめく季節の先駆け
9月末は大雪山の旭岳へ行った
紅葉を出迎えに行った

紅葉は中腹あたりが最盛期
標高のある位置の草もみじは既に終わっている

旭岳に登るのは一昨年6月に続いて2回目
左右の足の不調に体力の低下
自分の体をなだめながら登高する

天気に恵まれて頂上へ
季節は秋
もうすぐ冬が巡ってくる

また一年を生き延びたことに感謝する

















































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黄金の半年

2024-09-13 | 野球



中学1年秋 野球団解散

子供のころの遊びで野球は楽しかった

もちろん山に行ったり、
海に潜ってモリで魚を突いたり
チャンバラごっこ、鞍馬天狗、カン蹴り
パッテン(メンコのことをこう呼んでいた)
バイ、コマまわし、ビー玉
それはそれは楽しい子供時代でした

ゲームとしては野球が面白かった
グローブのない幼少時代から始まった
何人か子供が集まれば野球が始まった

三角ベースもどきをした
ゴムボールがなければ布巻きボール
バットは板切れや木の丸太
ちょっとした広場や切り株の残る乾燥した田んぼ
富島港の埋め立て波止場

幼少の弟を自転車に乗せて
どういう訳か親父がのぞきにきていたことがある
長期の船乗りで忙しく滅多に帰って来ないのだが
ほんのたまには家に帰ってくることがあった
野球をしているところを見られるのが少し気恥ずかしかった

小学校6年で小学校のチームに入った
ファーストを守った
別格のエースがいたので
2番手くらいのピッチャーもやった
いつもは6番くらいを打った

さて遠征試合に行った
郡の大会だったかな
試合前の数日間、練習では急に当たりが出てきた
顧問の先生から4番を打てと言われていた
遠征は隣町、淡路の岩屋町
富島小学校 対 岩屋小学校
相手のピッチャーは左利き
球は速いしカーブはよく曲がる
ボクは左投げ左打ちの左ギッチョ
何しろまともな左ピッチャーの球を打った経験が無かった
タイミングが合わずバットに当たらない
4番を任されたが結果は散々だった
ピッチャーフライと三振を覚えている
試合は完敗
あんなに練習したのに


小学校を卒業して富島中学に入った
バレー部は強かった
何たることか野球部がない
グランドが狭く指導者がいないのが理由だったそうだ

1年上の2年の中学生たちが私設で野球チームを作っていた
その先輩から声が掛かった
チームに入れよ、一緒にやろう
小学校でショートを守っていたタカタ君と
ファーストだったボクが加わった
2人の中学1年生が加わった

絶対的な2年のキャプテンから言われた
オマエはピッチャーをやれ
練習場所は隣町の野島の河口のグランド
2kmぐらい離れたグランドに行く
チームの皆んなは自転車の相乗りで練習に行く
オマエはピッチャーをやるから足腰を鍛えろ!
ボクは自転車を追ってランニングで野島のグランドへ行った

大人のチームと試合をした
シュート、カーブ、ストレート
勿論、子供の思い込みだが
スピードは出たと思う
そこそこ投げたつもりだ
シュートの切れは良いがストレートのコントロールが散々だった
いま思えばストレートの握り方が違っていた
誰も教えてくれなかった

現在も夢の中でキャッチャーめがけて投げている
コントロールが定まらない
ストライクが入らない
うなされて目が覚める

中学1年の秋、チームは解散に追い込まれた
学校以外で中学生がチームを作っている
隣町のグランドで野球をやっている
いつもたむろしていると、
どうも噂が立っていたようだ

絶対的なキャプテンが中学の指導教員に呼ばれた
中学の校舎のグランドで教員がキャプテンを説教している
理不尽にもチームを解散させられた
どんなふうに説得されたのか
言うことを聞かないと退学とでも言われたか
キャプテンは黙して語らず

半年間だけピッチャーをやった
チームは中学1年の秋に解散した

解散の時みんなが集まり記念写真を撮った
あれはボクが唯一輝いた時代
半年間の黄金時代

その後は暇を持て余した
仕方なくバスケットを始めた
中学は合併して北淡東中学と名称が変わった



後日、中学を卒業して明石高校へ入学した
高校1年の同じクラスに小学校のあの時のピッチャーがいた
岩屋中学から来た多田くんと言った
岩屋町は渡哲也と渡瀬恒彦兄弟の出身地で有名になった

ボクは野球名門の明石高校に入った
しかし多田君もボクも野球部に入らなかった


少年時代の野球の思い出は
阿久悠「瀬戸内少年野球団」そのままだ
阿久悠さんは淡路島五色町の出身
彼の出身高校は洲本高校
大学は明治大学

阿久悠記念館 明治大学 - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp) 

同時代の淡路島の洲本高校は
1953年(昭和28年)第25回選抜高等学校野球大会(甲子園)で
全国優勝を果たした
夢を叶えた










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前穂北尾根

2024-09-07 | バイク・山歩き
前穂北尾根とは前穂高岳(標高3090m) の北側の尾根、連峰のことです。

穂高に行くと随所から前穂北尾根の絶景が見える。



北穂(北穂高岳)ー涸沢岳ー奥穂(奥穂高岳)の稜線から前穂北尾根を望む

1峰(前穂高岳頂上)~3峰、4峰、5峰、6峰、7峰

涸沢からは5峰と6峰の間の鞍部(56のコル)まで登り、そこから5峰、4峰、3峰、2峰と順に1峰(前穂)まで登る。 



涸沢ー北穂(北穂高岳)への登高路から前穂北尾根を望む

1峰(前穂高岳頂上)~3峰、4峰、5峰、6峰と連続して見える





(参照) 前穂北尾根 4峰の登り

前穂高岳 北尾根8〜1峰縦走 / ƒ ̵̲ さんの槍ヶ岳・穂高岳・上高地の活動日記 | YAMAP / ヤマップ 







(参照) 前穂北尾根 3峰の登り

前穂高岳北尾根フリーソロ / 近道さんの槍ヶ岳・穂高岳・上高地の活動日記 | YAMAP / ヤマップ




さて、小生が前穂北尾根を登ったのは30代前後のことだ。
今風にいえばフリーソロ、単独で確保無しの登山だ。
今思えば人には余り勧められない。


ルートは横尾山荘のテント場を単独で早朝夜中に出発し、涸沢ヒュッテ、56のコル、あとは稜線伝いに5峰、4峰、3峰、2峰と順に1峰(前穂)まで。
その後は前穂吊尾根経由で奥穂高岳山頂、穂高岳山荘、涸沢と経由して横尾テント場に戻った。
今から思えば小生も体力があったのだ。

当時の写真記録は一切ない。
カメラは無かったので持って行かなかった。
装備は 11mm40メートルのザイルを1本、ハーケンとカラビナを何枚か、ハンマー、スリング、シットハーネス、食料と水、雨具ほか。
アイゼンは56のコルまでの登りに持参したと思う。
余り記憶にない。


核心部は4峰と3峰の登り。
凹部のルンゼ、チムニーの登攀などは今でも触感や体感の記憶がある。
結局登りにザイルとハーケンは使わず、3点確保で登り切ってしまった。
参考に引用している最近の登攀記録の画像を見ると、4峰と3峰の登りのルートを読むことが出来る。
あそこはこちらに行ったとルートが見える。
ルートを間違えるとフリークライムでは詰んでしまう。
ルートファインディングが全てだと思う。
天候が悪いと断念した方が良い。

2峰の下りでは懸垂下降が必要とのことでザイルを準備して行ったが、
10~15m程度の下りで、足場も充分確保出来そうだったので、
クライムダウンで降りた。

そこから次は前穂の頂上だ。
喉がカラカラになっていた。
あとは奥穂、涸沢、横尾までは下りなので楽だった。
当時は足腰が丈夫だったのだ。



30代前半で山から足を洗った。
子供が出来たのと仕事が忙しくなったのだ。
あとはファミリーハイクと犬の散歩登山。

退職後、両親が他界し2017年から山歩きを再開した。
毎年穂高に行った。
ジャンダルムにも行った。
結構充実していた。

昨年から穂高に行っていない。
体調不良で足が止まっている。
年貢の納め時か?
良くなれば少しは歩こうかい。






奥穂ザイテングラートから前穂北尾根





奥穂の穂高岳山荘付近から前穂北尾根を望む

1峰(前穂高岳頂上)2峰、3峰、4峰





横尾山荘から前穂北尾根



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大塚国際美術館

2024-09-05 | 旅・趣味・自転車ほか


徳島県鳴門市にある大塚国際美術館
淡路島は対岸にある
一度は見に行くことを薦められた
見終わるまで丸1日かかった
結局は徳島2泊




















すべて原寸大で陶板に焼き付け
大きな絵画や壁画は畳1枚ぐらいに分割して焼き付け
それを1枚ずつ組み合わせて作る
陶芸技術が基本
原画より長持ちする
何千年かは鮮明に保存できるとのこと
日本のセラミック技術、万歳!

油絵の絵の具を塗り重ねた立体感は少ないが
見た目は原画と同じ
原画に極めて近い状態と大きさで見える
原画を英仏独蘭、スペイン、ポルトガルなどで見たものがある
現在までの西洋美術を一か所で堪能できる
こんな幸せなことは無いだろう


スポンサーは大塚製薬グループ
ボンカレー、オロナミンC、ポカリスエットなど
学芸員に伺ったところ大塚グループの売上の7割は医薬品とのこと


大塚国際美術館
建設主は大塚グループ
美術館の設計は坂倉翔吾建築事務所
施工は竹中工務店
監修は東京芸大のほか一流の専門家多数
特許ほか複製に当たっては原画保有者の許諾を得ている
フラッシュ撮影は禁止
写真OKとのこと


スマホで備忘録





























































































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北海道分割の野望

2024-08-16 | 安全保障





昭和20年(1945年)8月16日:「日本分割統治」回避 - 世界史カレンダー (fc2.com) 


1945年8月15日 玉音放送がありポツダム宣言を受諾して全てが終わったのではない。
8月16日 スターリンの野望、スターリンがトルーマンにソ連の北海道北部の占領を要求した。それが留萌・釧路線の北海道北部の分割要求だ。
8月18日 ソ連軍が千島列島北部の占守島(しゅむしゅ島)に上陸開始した。ソ連軍の動きを察知していた第5方面軍の樋口季一郎中将が反撃を指示した。

この反撃と樋口季一郎中将の打電を受けた大本営はマニラのマッカーサーにソ連を停戦するよう指導を要請したことにより、トルーマンがソ連の北海道北部占領を拒否した。

北海道北半分は紙一重、危機一髪でソ連領になるところだった。その際は満州、中国、朝鮮での日本人が受けた被害と同様、悲惨な被害を受けただろう。
たとえ敗戦でも相手の動きを察知し、撤退戦によって北海道分割を阻止できた功績は大きい。

樋口季一郞中将と北海道 - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp) 

占守島(しゅむしゅとう)の戦い - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp) 

樋口季一郞中将の銅像除幕式 - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp) 

樋口中将のもう一つの功績は、満州着任時代にシベリア鉄道経由でナチスドイツに迫害され満州に逃れてきた多数のユダヤ人を満州で受け入れるように東條英機と交渉し、アメリカほかに亡命を可能にしたことがある。

ナチスドイツはユダヤ人600万人を殺害している。シベリア鉄道経由のユダヤ人を満州に受け入れたのは人道上の観点からだったそうだ。

敗戦後、ソ連は千島列島北部で強い抵抗に会い、北海道侵攻を遅らせたことに恨みがあり、樋口中将を東京裁判で裁くことを強く要求した。しかし満州で助けられてアメリカに亡命したユダヤ人社会の強い要請で、樋口中将の命が救われたそうだ。


樋口季一郎中将の反撃
「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp) 



終戦前後の日ソ衝突の経緯
1945年(昭和20年)
8月6日 広島に原爆投下
 8日 ソ連が対日宣戦布告
 9日 ソ連対日参戦
    長崎に原爆投下
 11日 ソ連軍が南樺太で侵攻開始
 15日 終戦の詔書
   大本営が各方面軍に戦闘行動の即時停止を命令
   自衛目的の戦闘行動も「18日午後4時まで」
 16日 第5方面軍、北海道防衛のため南樺太死守を命令
    スターリンがトルーマンにソ連の北海道北部の占領を要求
 17日 千歳空港に米軍のB29が飛来
 18日 ソ連軍が占守島に上陸開始
    樋口季一郎中将「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし
    と命じ、日本軍が優勢に立つ
    樋口の打電を受けた大本営はマニラのマッカーサーにソ連を
    停戦するよう指導を要請
    ソ連軍最高司令部はマッカーサーの要求を拒否
    トルーマンがソ連の北海道北部占領を拒否
 19日 大本営が第5方面軍に停戦のための武器引き渡しを許可
    占守島で停戦交渉始まる
 20日 幌筵海峡の海戦
    占守島の戦闘再開
 21日 第5方面軍がソ連軍の南樺太進駐を容認
    堤不夾貴中将がソ連艦上で降伏文書に調印し
    占守島の戦闘終結
 22日 ソ連軍、北海道占領作戦を中止
 23日 占守島の日本軍が武装解除し降伏
    兵士はシベリアに抑留される
 24日 GHQの命令で日本の対潜哨戒機による日本海沿岸の
    哨戒活動始まる
 25日 樺太の日本軍が降伏しソ連軍が南樺太を占領
 28日 米占領軍(第8軍先遣隊)が日本本土への進駐を開始
    ソ連軍が択捉島を占領
9月1日 ソ連軍が色丹島を占領
 2日 ミズーリ号艦上で重光外相が降伏文書に署名
    ソ連軍が国後島を占領
 3日 ソ連軍が歯舞群島に上陸開始
    スターリンが「プラウダ」ソ連国民に対する布告
 5日 ソ連軍は満州、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、北方4島を
    完全に支配下に置いた後、戦闘を停止



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