東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

上野駅から九段まで

2024-12-08 | 横浜・東京・東海村


今日12月8日は日米開戦の日
1941年昭和16年


上野駅に来ると
「九段の母」この歌を思い出す
上野駅から靖国神社まで歩いてみた


九段の母
作詞:石松秋二 作曲:能代八郎 歌:二葉百合子

 上野駅から 九段まで
勝手知らない 焦れったさ
杖を頼りに 一日がゝかり
伜来たぞや 逢いに来た 
・・・
・・・




上野駅から九段までは約4km
年老いた母は杖をつきながら歩きます
2時間以上、半日かかったでしょう



明治維新の後
西南戦争以降は日清戦争、日露戦争と続き
日中戦争で41万人、大東亜戦争で310万人
数多くの人命を失った


チベット、ウイグル、香港のようになることを防ぐために
我々は未来を考えなければならない

現在、今の国防をもっと真剣に考えなければならない















































































九段の母

作詞:石松秋二 作曲:能代八郎 歌:二葉百合子










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名残の秋 歩け、歩け!

2024-11-27 | 横浜・東京・東海村

代々木公園


もうすぐ冬が来ます
都心も秋の終わりです

足が不調です

それでも
紅葉を探して
歩け 歩け!



代々木














新宿御苑







東京体育館

大学のバレーボール大会







国立競技場

東京オリンピック
阿部詩さんの金メダルがあった








神宮外苑のイチョウ並木





大手町





読売新聞社










飛鳥山公園







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Where The Boys Were?

2024-03-02 | 横浜・東京・東海村
Where The People Were?

サンシャインシティは池袋の東側にある


池袋



サンシャイン60ビル


懐かしのビル エレベーター

NEDO(新エネルギー産業技術開発機構)はサンシャインビルの30階前後の3~4フロアを借りていた
1990年代半ばの2年間ここで国際協力事業に従事した
グリーンエイドプランという経産省のプロジェクトを実施していた
省エネルギー、石油資源消費削減プロジェクト
今で言う温室効果ガス削減をアジアで実施するモデル事業だった

隣りのビル街にOAZ?というスイミングクラブがあった
国内にいるときは昼休み1時間のあいだに20分間1,000m泳ぎ、そのあと社員食堂で蕎麦をかき込むというパターン
某企業からの先輩出向者やプロパー職員の方から昼休み水泳ルーティーンをすすめられて充実した勤務を続けていた
あのころは体力があったのだ

近くに巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)の跡があるとは聞いていた
よく見るとサンシャインビルを含む池袋サンシャインシティそのものが巣鴨プリズンの跡に出来た街だった

米軍国連軍により数多くの戦犯(戦争犯罪人)がこの拘置所に拘束され、A級戦犯7人が絞首刑で死罪となったのがこの場所だった

1948年12月23日 - 極東国際軍事裁判の死刑囚7名に対する絞首刑執行





1949年巣鴨拘置所
Wikipedia 



巣鴨拘置所跡地の再開発
三井住友トラスト不動産






サンシャイン60ビルとサンシャインシティ



東池袋中央公園
サンシャイン60ビルに隣接





この場所で死刑執行があった
この碑ではよくわからない
合掌









Where The Boys Are?


Where The Boys Are / 邦題ボーイハント 
1961年発売  コニー・フランシス


コニー・フランシスのこの歌は1960年代
邦題はボーイハント、異訳すぎるのではないか
せいぜい「恋する乙女」にしては?


オールディーズは友達の饅頭屋の2階のレコードで聞いた
「わてほんまによいわんわ・・」買物ブギやりんご追分など歌謡曲はボクの生家の隣にあった映画館の客寄せスピーカーを聞いて覚えた
英語の発音も当時の洋楽、オールディーズレコードと進駐軍勤務経験があった英語私塾の武田先生
脳に刷り込まれている








2024年 昨今、我が国は人口減少の局面にある
繁華街以外で若い人達を見掛けることが少ない

青少年たちよ、どこへ行ったの?

サンシャインビルに棟続きにサンシャインシティがある
水族館まである
西武プリンスが開発した娯楽施設だ
西武プリンス系といえばかつては飛ぶ鳥を落とす勢いがあった

巣鴨プリズンを見た後で、何気なく行ってみるとアニメとゲームの展示会をやっていた
千人単位の青少年が同時にゲームに熱中していた

Here The Boys Are!





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国分寺から府中へ名(迷)所案内

2024-01-27 | 横浜・東京・東海村
国分寺
チョコレートハウス


国分寺
丘の上のAPT(トタンの家)


タンポポ・ハウス

これら一連の建築作品は藤森照信氏の作品
かつて東京大学生産技術研究所の教授だった。先生の作品には赤瀬川原平宅のニラハウス、近江八幡のラコリーナなどがある。

ラコリーナ 近江八幡 - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp) 

屋根に草花が生えるのはペンペン草が生えるというのが旧来の話だ。翻ってペンペン草も生えないという常套句の例えがある。最初に見たときには一瞬虚を突かれた思いだ。何なのだろうと思った。屋根に草花を生やすのは縄文時代のDNAの記憶を呼び起こすのだろうか。

藤森照信氏が東京大学の生産技術研究所、略して生研の教授だったころ、生研の一般公開があったので行ってみた。生研はもともと六本木にあったが、駒場に移転した直後でピカピカの新品の研究所になっていた。その時の生研の所長は西尾茂文先生だった。所長室にご挨拶した後、すぐ近くにあった研究室の藤森先生は不在票が掛かっていた記憶がある。

西尾先生は伝熱分野の沸騰熱伝達などを専門として研究に従事されていました。ボクの京都時代の先輩のM先生は出力上昇の過渡沸騰のバーンアウト現象にライフタイム(寿命)という概念を最初に導入したが、西尾先生のバーンアウトの評価法と議論になっていたが、結局は同じ結論になったそうだ。その後、生研所長の西尾先生は東大の小宮山総長時代の副学長になり活躍されていましたが、体調を崩され、後に逝去されました。惜しい人を亡くしました。合掌

何を言おうか、ボクが修士課程の時代に日本原子力研究所(原研)の高速炉設計班に1年間住み込んでパルス炉の設計に従事した。その時、原研の薄暗い図書館で京都大学のグループの出力上昇時のバーンアウトの報告を読み、実験結果やライフタイムに興味を引かれ、これからは原子炉暴走事故時の冷却をやる必要があると考えた。

当時、原子力関係では東大の橘・秋山・河村先生、東工大の青木・井上先生、阪大の住田先生などの研究分野に興味が尽きなかったが、結局は関西に帰ってみようと思い古都京都もいいかなと考え、過渡沸騰で京都の櫻井彰先生の門を叩き、博士課程に進学した。もちろん京都には岐美先生という有名な方がおられ、口頭試問の際にはパルス炉の話をしたことを鮮明に覚えている。岐美先生には在学中から何かとお話しを伺い、つい最近まで長年にわたり学会等でお会いする度にお声掛け頂いたことは大変有り難いことでした。

バーンアウト現象は熱流束が上昇すると伝熱面の薄い液膜の供給が追いつかなくなり焼損に至るのだが、現象が液体と気体が複雑に入れ込んでいて、評価法が統計的になったり蒸発時間項を入れたりする。しかしボクはどうも真面目な学生ではなかったようで、これも今は昔。





府中の東京農工大学
かつて柏木孝夫教授がおられた
先生はエネルギー関連で政府の委員会で代表を務められた
先生の講演を何度か聴いたことがある

かつての同僚もこの大学の出身だった


府中刑務所の壁
三億円強奪事件の現場
白バイに乗った犯人は逃走し時効になった




府中の東京競馬場
広大な敷地
北海道日高などの競走馬生産はこの競馬産業に支えられている

かつては古来より日露戦争で秋山好古の騎馬隊が奉天会戦で遊撃戦を仕掛け、ロシアコサック騎馬隊を破ったころや、第2次世界大戦まで軍馬生産は大きな産業だった。現在では戦車が主体になった。




府中の森芸術劇場
立派なパイプオルガンが設置されている




コンサートがあった

メインイベントはモーツァルトのレクイエム
カンタータ「悔悟するダビデ」K.469
ソプラノ2人テノール1人、合唱団、管弦楽団の構成だった
手作りの良い音楽を聴いた

あと何回聴けるかな
そろそろボク達にもお迎えが来る年代になったということか、と



モーツァルト カンタータ 「悔い改めるダビデ」 K 469 ネヴィル・マリナー


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彼岸の鎌倉

2023-03-26 | 横浜・東京・東海村
鎌倉霊園の桜

鎌倉霊園

案内図

昨日は雨の中、お彼岸から何日か後に鎌倉霊園に行き墓参しお祈りした。故人をよく知る方々と一緒だった。大変お世話になり敬愛している大先輩だった。「和」という墓刻とお墓の佇まいからそのご人格や決心、人生観などが伝わってくる。

30年近く前、子供が小さいころ横浜の洋光台に住んでいた。洋光台の南方に円海山がある。円海山は標高153mながら横浜市内で一番高い山だ。洋光台駅方面から円海山とその稜線を経由して天園に至り、鎌倉アルプスまでのハイキングコースがある。下山口は鎌倉の建長寺と瑞泉寺に別れる。途中に横浜霊園と鎌倉霊園がある。随分と久しぶりに鎌倉の山に来た。

このハイキングコースは子供が小さい頃は背負子(ショイコ)に乗せたり歩かせたりして、小学生になってからは長尺の天体望遠鏡を円海山まで担ぎ上げ、シリウスだベテルギウス だと星空を見たものだ。

時は流れ両親を含め先立つ人も多くなり、いよいよ覚悟が必要な時間帯が否応なく追いかけてくる。この現在の時間を如何に充実させるか穏やかに迎えるか人それぞれに違うのだろう。それでも何かに対抗するように生き抜く苦悩と後悔、噛みしめる喜びと湧き出る楽しみがある。


雨の鎌倉駅

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国会図書館

2021-12-04 | 横浜・東京・東海村





国会図書館は国会議事堂の横にある
カミさんの従兄弟が長年勤務していた
彼は東大の文学部を卒業して国会図書館に勤めた
中国文学が専攻だった
当時日中関係はそんなに悪くなかった
定年まで勤務した
途中で大学に行ったようだ
年賀状の交換を長年続けた

今回の訪問は20年ぶりぐらいかな




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カスバの女と石油リグ

2021-02-21 | 横浜・東京・東海村

藤圭子の「カスバの女」は凄みがあってなかなか感動ものだ。
歌詞の最後で・・・外人部隊の白い服・・・
とくるのはゾッとする。

昔のこと、管理職になる前に泊まり込みの全社社内研修を受けた。
グループの指導者は化学プラント系事業部の部長クラスだった。
その方は男ながら惚れ惚れする人格者だった。
ボクはその方から誘われた。
キミは現在の部署から離れてアラブの石油掘削リグで仕事をしないか?
休暇は45日?あるからパリでゆっくり骨休みができるよ!

ただそのときは些細な理由で断ってしまった。
あのときアラブへ行っていたならボクの人生は変わっていただろう。

・・・セーヌのたそがれ まぶたの都
・・・赤い風車の踊り子の
・・・明日はチェニスかモロッコか

この歌を聴くたびに、実現しなかったアラブでの仕事とパリの休暇に思いを馳せる。






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水戸 セーラー服と機関銃

2019-03-20 | 横浜・東京・東海村


水戸と言えばセーラー服と機関銃
これは極めて個人的な理由によります。今年の原子力学会は水戸です。

 1980年代に私は企業から日本原子力研究所に出向となり、茨城県東海村に4年間住んだ。当時、たまには水戸駅前の本屋さんに行った。立ち読みをしていると、聞き慣れないが凄くテンポのいい曲が流れてきた。それが薬師丸ひろ子のセーラー服と機関銃だった。印象的なフレーズを下記に示す。
 あの時代にボクたちは何を探していたのだろう。前の時代の重苦しさをスカッと振り払い、次の来たるべき時代に踏み出したかったのかも知れない。その本屋は既に無くなっていた。

セーラー服と機関銃
(来生えつこ作詞)
さよならは別れの言葉じゃなくて
ふたたび逢うまでの遠い約束
・・・
愛した 男たちを かがやきにかえて
いつの日にか 僕のことを想い出すがいい
ただ心の 片隅にでも ちいさくメモして

https://www.youtube.com/watch?v=R2gf3OX8pn0

(私見 これぐらいの詩を書いてみたいね)

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