東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

阿蘇山 良いお年を

2024-12-31 | 沖縄九州


今年も阿蘇に行きました。

前回は草千里で通行止めでした。

初めて噴火口に立ち寄りが出来ました。

皆様良いお年を!
























































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諫早湾干拓地

2024-12-23 | 沖縄九州


長崎県 諫早干拓堤防道路(雲仙多良シーライン)中間点

同展望所から南方の雲仙普賢岳を望む

この堤防道路は何年か前に行ったオランダの堤防道路とよく似ている







諫早干拓堤防道路
展望所から北方を望む



諫早干拓堤防道路
展望所から内海を望む

瀬戸内や有明海は干拓地が多い

日本農業は食糧確保の歴史の積み重ねだった
工業製品を輸出して外貨を稼ぎ、食糧を輸入できるようになったのはつい最近のことだ

米余りなどと言っていても、凶作や戦争などでいつ供給が追いつかなくなるかわからない

食糧安全保障は大事なことだ
それもエネルギーと国防の安全保障があってこそ成立する
アングロサクソンは上手く乗り越えてきた
日本の大衆はパニックにならないと動かない

小異を捨てて食糧、エネルギー、国防の安全保障を戦略的にもっと真剣に考えよう


バイクで旅行していると日本一周をしている若い人と出会うことが多い
日本一周165日目だそうだ
バイクはブルーのヤマハ(訂正済み)
オニイサンの了解を得てパチリと一枚

悪名高くも楽しい?北海道礼文島の名物ユースホステル、桃岩荘にも行ってこられたそうだ
ボクも今年の7月は礼文島に行っていた
すれ違ったかも知れぬ

若いって素晴らしい
何を感じて何をつかんだのかな

まずは完結して、頑張れ!










雲仙普賢岳




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九十九島と佐世保港

2024-12-16 | 沖縄九州


長崎県 佐世保 九十九島




バイクで唐津から南下した

展海峰から九十九島を望む

展海峰に立ったとき、ああ!松島と同じ風景だ、と思った








展海峰から佐世保港が見える


港として好条件に恵まれている

旧海軍の鎮守府は横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4か所にあった

日露戦争のとき連合艦隊は佐世保港から出港し、旅順戦の後、朝鮮南部の軍港鎮海湾に移動待機し、対馬海峡でロシアのバルチック艦隊を待ち受けた






佐世保港





佐世保港



筆者が企業に入社したころは造船業が外貨の稼ぎ頭の花形で、大手の重工業が中心だった。その後、韓国、中国の安値受注による台頭が著しい。現在の日本の造船シェアは中韓に押されて第3位となり、今治造船、ジャパンマリンユナイテッド、大島造船所、名村造船所などが残っている。現在も合併や提携など造船業界の浮沈も激しい。


佐世保港といえば佐世保重工だった。かつての海軍工廠を継承し、昭和21年創業した。造船不況などがあり、来島グループ坪内寿夫氏が1978年(昭和53年)に佐世保重工の社長に就任、経営再建を果たし、もてはやされた時期があった。その後、経営環境が変わり佐世保重工は名村造船傘下に入り、現在は商船や艦艇などの修理船事業に特化した。


先月、佐世保港に行ったときには大型クルーズ船の点検修理を実施中だった。

佐世保の地域経済の変遷も激しい。




造船業界変遷








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唐津の名護屋城

2024-12-12 | 沖縄九州


























天正19年(1591年)豊臣秀吉は明を征服する目的で朝鮮へ出兵するため、現在の佐賀県唐津市にある名護屋城を改築した。

名護屋城は巨大な前線の基地となった。各武将に陣地割を施し、徳川家康や伊達政宗の陣地もあった。



小田原の役
1590年(天正18年) 豊臣秀吉 天下統一

朝鮮出兵
文禄の役
1592年5月24日(天正20年4月13日) ~ 1593年8月5日(文禄2年7月9日)
慶長の役
1597年3月1日(慶長2年1月14日)~1598年12月22日(慶長3年11月25日)
豊臣秀吉61歳没 1598年9月18日(慶長3年8月18日) 

関ヶ原合戦
1600年10月21日(慶長5年9月15日) 徳川家康 東軍勝利




たった10年の間に時代は激変した


































文禄の役
名護屋滞在が10万、朝鮮出征が16万〜20万

慶長の役
日本軍陣立 再出征軍・総計141,500人


日本全国の総石高は約2000万石
一万石あたり250人の兵の動員、日本の総兵力は約50万人
文禄の役25万〜30万の兵数、日本の総兵力の約半分

豊臣秀吉の四国征伐時 約10万
九州征伐時、小田原征伐時は約20万 (Wikipedia)


























名護屋城趾から九州電力玄海原子力発電所が見えた







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田原坂

2024-11-30 | 沖縄九州










明治6年(1873年) 西郷隆盛 政府に辞表提出
明治10年(1877年) 西南の役
 2.17 鹿児島を発す 兵12,000
 2.19 熊本城炎上
 3.3~3.20 田原坂の戦
 9.24 西郷隆盛自決 西南の役終わる


西南戦争は小さな反乱ではなく大規模な戦闘だった
凄惨を極める肉弾戦だった

初戦は薩摩軍に勢いがあった
最終的には海軍を持ち、兵站が堅牢な政府軍が勝利する

田原坂の攻防は雌雄を決する一大戦場だった



明治維新は鳥羽伏見の会戦で錦の御旗を立てたのが一大転機だった
朝廷と士族の間には大きな軋轢があった










































































田原坂といえば
「雨は降る降る人馬は濡れる
 越すに越されぬ田原坂」

田原坂はこれしか知らなかった
熊本民謡だそうだ
戦いを美化した印象を持っていたが
詩には鎮魂の意があるのでしょう
原詩はもっと生々しかったそうだ


田原坂は小さな丘陵地帯に過ぎないが
大砲を運搬する幅3~4mの道があるのはここしか無かったそうだ
加えて丘の上は眺望があり戦いは有利になる

両軍は田原坂以外にも付近一帯に展開し、戦いは凄惨を極めた




田原坂 (たばるざか) 「熊本県民謡」

  




詩吟の田原坂は慚愧の念が強く出ている


「田原坂(西南の役陣中作)」 佐佐友房
雨は戦袍を撲ち 風沙を捲く
江山十里 両三家 
壮図一蹶 無窮の恨み
馬を断橋に立てて 落花を看る



西南の役陣中の作 



詩吟 「田原坂(西南の役陣中作)」 佐佐友房





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