東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

田原坂

2024-11-30 | 沖縄九州










明治6年(1873年) 西郷隆盛 政府に辞表提出
明治10年(1877年) 西南の役
 2.17 鹿児島を発す 兵12,000
 2.19 熊本城炎上
 3.3~3.20 田原坂の戦
 9.24 西郷隆盛自決 西南の役終わる


西南戦争は小さな反乱ではなく大規模な戦闘だった
凄惨を極める肉弾戦だった

初戦は薩摩軍に勢いがあった
最終的には海軍を持ち、兵站が堅牢な政府軍が勝利する

田原坂の攻防は雌雄を決する一大戦場だった



明治維新は鳥羽伏見の会戦で錦の御旗を立てたのが一大転機だった
朝廷と士族の間には大きな軋轢があった










































































田原坂といえば
「雨は降る降る人馬は濡れる
 越すに越されぬ田原坂」

田原坂はこれしか知らなかった
熊本民謡だそうだ
戦いを美化した印象を持っていたが
詩には鎮魂の意があるのでしょう
原詩はもっと生々しかったそうだ


田原坂は小さな丘陵地帯に過ぎないが
大砲を運搬する幅3~4mの道があるのはここしか無かったそうだ
加えて丘の上は眺望があり戦いは有利になる

両軍は田原坂以外にも付近一帯に展開し、戦いは凄惨を極めた




田原坂 (たばるざか) 「熊本県民謡」

  




詩吟の田原坂は慚愧の念が強く出ている


「田原坂(西南の役陣中作)」 佐佐友房
雨は戦袍を撲ち 風沙を捲く
江山十里 両三家 
壮図一蹶 無窮の恨み
馬を断橋に立てて 落花を看る



西南の役陣中の作 



詩吟 「田原坂(西南の役陣中作)」 佐佐友房





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名残の秋 歩け、歩け!

2024-11-27 | 横浜・東京・東海村

代々木公園


もうすぐ冬が来ます
都心も秋の終わりです

足が不調です

それでも
紅葉を探して
歩け 歩け!



代々木














新宿御苑







東京体育館

大学のバレーボール大会







国立競技場

東京オリンピック
阿部詩さんの金メダルがあった








神宮外苑のイチョウ並木





大手町





読売新聞社










飛鳥山公園







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仙台と蔵王 秋から冬へ

2024-11-22 | 仙台・東北

干し柿や陸奥の陽を凝縮し  歳々



仙台と蔵王

秋が深まりました。

もうすぐ冬です。








仙台城 琵琶首丁 川内









蔵王 遠刈田温泉















宮城蔵王 不動滝












蔵王不動尊








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山崎君と300MeVすき焼き

2024-11-16 | バイク・山歩き













ツーリングで九州電力玄海原子力発電所に行った。


発電所を見て山崎君のことを思い出した。

山崎尚宏君が逝去した。最近は身内だけで家族葬を行い、その後に訃報を送られることが多くなった。山崎君は、はにかみ屋で内気だが、敵を作らず、親しみがあり芯の強さがあるいい奴だった。謹んでお悔やみ申し上げます。


山崎尚宏君とは修士課程では同じ原子炉工学研究室に所属した。指導は江草龍男教授だった。小生は4年から同研究室に所属していた。

ボクたちが在学中に、東北大学では大騒動となった原子核紛争があって、結果は原子核工学科の歴代教員の総入れ替えとなった。かつて原子炉工学研究室は小林清志教授と飯田嘉宏先生が担当していた。小林教授は静岡大学に移動し後に豊田工大の学長になられ、飯田先生は横浜国大に移り後に横浜国大の学長になられた。その後任に、ボクが4年のとき原子力船事業団から江草龍男先生が教授として赴任してこられた。

山崎尚宏君は学部では原子炉計測研究室に所属していたが、修士課程ではボクと同じ原子炉工学研究室に移動してきた。

修士課程で山崎君とボクはライナックブースターの研究に取り組んだ。学生は前途多難でも無地の心境で薦められたテーマに取組むものだ。ライナックブースターとは加速器と原子炉を組合せた中性子源炉のことで、高い繰り返し周期で原子炉を臨界状態にし、それに同期させて高エネルギー加速器のビームを炉心の中性子源に衝突させ、高密度の中性子パルスを発生させ、物性研究などに役立てる研究用原子炉です。当時はガス炉、軽水炉、重水炉、高速炉と原子力開発は花盛りの興隆期にあり、中性子源パルス炉も研究炉の新しいアイデアのひとつだった。

ライナックブースターの研究会には、仙台市三神峯にある東北大学原子核理学研究施設(核理研)所長の木村一治教授と渡辺昇先生(後に筑波大学教授)、日本原子力研究所の平田実穂先生(後に原研大洗研究所長)と、山崎君とボクの指導教員である江草龍男教授が参加していた。

修士課程1年の山崎君とボクは渡辺昇先生のご指導で三神峯の核理研にある300MeV 電子直線加速器(リニアック、ライナックとも言う)の高速電子ビームを模擬ターゲットに衝突させ、その放射化強度で中性子源の強度分布を予測するという実験を重ねていた。

修士1年次の夏休みには、山崎君とボクは茨城県東海村にある日本原子力研究所(原研)の真砂寮に住み、高速炉設計班の平田実穂室長のもとで猪川さんのご指導でブースターの臨界計算を実施した。

修士2年次では、山崎君は東北大の核理研で300MeV加速器による中性子ターゲットに関する実験を継続して担当し、ボクは原研に移住しブースター炉心の核熱設計を実施した。

修士課程を終了した後、山崎君は三菱原子力(現在は三菱重工)に就職し、その後は軽水炉関連の仕事に従事していると伺っていた。今回ボクがツーリングで行った九電玄海原子力発電所や関電高浜発電所の仕事もあっただろうと思う。彼は忙しくボクらの学科同期会には時たま参加してきたが、そこはお互いに現役だったので、やあ元気かという程度の会話で、自分の会社の仕事や話題を避けるのが企業人たる武士の道と暗黙の合意が成立していた。山崎君は企業を退職後も、つい最近まで国の原子力監査機関で仕事をしていると風の便りで聞いていました。彼は仕事も忙しいのか長いあいだ会うことがなかった。ボクが退職して気ままに過ごしていても、彼は遊ぶ暇もなかったようで、技術者として長きに渡り原子力の一途な道に筋を通して全うしたことには多いに敬意を表します。

山崎君との思い出は、東北大の300MeV加速器実験で遮蔽体の鉛ブロックを一緒になって黙々と積み上げていたこと。鉛は比重11.36で非常に大きく、レンガの比重1.7とは重さが全く違う。鉛がこんなに重いのかと実感したことがある。
次に、たぶんご褒美だと思うが、先生方と山崎君と一緒に、仙台市向山の木村一治先生のご自宅に招待頂き、遠慮もせずに即答で、はしたなくも、すき焼きをご馳走になったことがあった。金欠が常の学生にとって、先生宅のスキヤキは竜宮城の宴か、あるいは天にも昇る思いで舌づつみを打ち、洒落ていて高貴な会話とともに、心豊かになって帰宅した思い出があります。

山崎君、今となれば学生時代は刺激的で思い起こせば楽しいことも多かったですね。そちらでも絶品スキヤキを堪能していてください。合掌



もみじ狩り一期一会の別離かな  歳歳




雲仙 仁田峠




雲仙普賢岳の紅葉










福島浜通り沖

僚船との出会いと別れ





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする