東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

ふたたびの栗駒山

2024-06-14 | バイク・山歩き






栗駒山に登った
昨年11月以来だ
一応は山頂まで行った
確実に体力が低下している
年齢相応に甘んじて受け入れるか
もう一度鍛え直すか

弱音を吐くな!

















山頂からの下りは余裕が出る
花を愛でる

思いもかけず出てくる歌は

「野に咲く花の名前は知らない
だけど私に父はいない
いくさ知らずにはたちになって
あしたお嫁にいくの・・・」



ザ・フォーク・クルセダーズ 『戦争は知らない』 (LIVE音源) 1968年

 



あの素晴しい愛をもう一度 ✦ 加藤和彦&北山修

 




学生時代を思い出す
ザ・フォーク・クルセダーズのソノシートを買った
ギターも買った
ボロロンと鳴らした
ソノシートなど今の人には解らないだろうな
薄い紙のようなプラスチックのレコードだ

加藤和彦氏もはしだのりひこ氏も既に他界した

北山修氏は健在で精神科医になり九州大学で定年を迎え名誉教授になった













コメント (3)
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徳川家康ルート2

2024-06-11 | 旅・趣味・自転車ほか

徳川家康ルート2
前回からの続き
浜松城から関ヶ原まで




三方原古戦場跡

1573年(元亀4年)現在の静岡県浜松市中央区三方原町

織田信長徳川家康の連合軍が武田信玄と戦い、徳川家康が敗北して浜松城に逃げ帰った
この敗走を生涯の戒めとして、その後の合戦に臨んだという






三方原古戦場碑



三方原から長篠設楽原に向かう途中に井伊家発祥地の菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ  臨済宗妙心寺派)があった

静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷


龍潭寺



龍潭寺

井伊直政は徳川四天王の1人で井伊家24代
徳川家康の家来として奮戦し、井伊直政は武田の赤備えを配下にした


子孫に井伊家36代彦根藩の井伊直弼がいる
幕末の安政の大獄の中心となった



長篠設楽原の戦い

1575年(天正3年)織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000が戦った。
織田軍の鉄砲三段撃ちが有名

 





長篠設楽原の戦い
織田は3万人 徳川は8000人







岡崎城
徳川家康はここで誕生した





岡崎城から徳川家発祥の地、豊田市松平郷までは約20km、車で30分ほど



松平東照宮

愛知県豊田市松平町赤原





松平家系図



徳川家康の祖先は時宗の僧 徳阿弥で関東から流れてきて入り婿となった
徳阿弥が上州の新田氏の系統にある

これで群馬県太田市の世良田東照宮の新田氏と愛知県豊田市松平町の松平東照宮がやっと繋がった









大高城趾

大高城趾

1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの直前、今川義元の配下にあった若き日の徳川家康が「兵糧入れ」を行った

同年直後、弱小の織田信長が大軍の今川義元を桶狭間で急襲して討ち取り、天下の趨勢が大きく変わった

27歳織田信長4000人、今川義元2万5千人

大高城と桶狭間の距離は5.5km、車で約15分



大高城趾





桶狭間の織田信長



1560年 桶狭間の戦い




小牧山城趾

現在の小牧市役所の前にある


1584年(天正12年) 小牧長久手の戦い
織田信長の次男織田信雄と組んだ徳川家康が豊臣秀吉と戦い、家康が遊撃戦を仕掛け勝利した
その後、織田信雄が秀吉と和睦したため、結局、徳川家康は秀吉の配下となった

その後1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い、1614年(慶長19年)大坂冬の陣、1615年(元和元年) 大阪夏の陣へとつながる










徳川家康 関ヶ原最終陣地

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い

徳川家康と石田三成の陣


関ヶ原 笹尾山 石田三成の陣






コメント (2)
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徳川家康ルート1

2024-06-09 | 旅・趣味・自転車ほか


今は昔、ディスカバージャパンという旅行キャンペーンがありました。

それにあやかった訳でもありませんが、コロナ禍のあとは海外に行く気にはなれず、国内巡りも面白いと感じるようになりました。題して「日本発見」の旅とでもしましょうか。

前回は神武天皇の東征ルートをバイクでたどりました。
日本発見 神武天皇の東征ルート - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp)

今回の「日本発見2」Discover Japan 2 は「徳川家康ルート」です。日光東照宮と江戸城跡(皇居)は何度か行っているので今回の旅では割愛しています。

実はウチのカミさんが大河ドラマを好んでおりまして(このセリフはどこかで聞きましたね)、徳川家康ルートはそのリクエストの一つです。北海道をソロでバイクで旅行していると、熟年夫婦というかリタイアした相当なお年のご夫婦が大型バイクをタンデム(二人乗り)で旅行しているのをよく見かけます。お二人タンデムでのバイク旅行とは楽しげでうらやましく、絵になって麗しいものですが、いつも後ろに乗ってダンナさまの腰に手を回して餅のようにくっついている奥様の勇気と根性に畏敬の念を禁じ得ません。

自分のこととなりますと本人は免許を取って3年ほどの若輩者で、さすがにカミさんとのバイク二人乗りで900km近くを走るのはご遠慮申し上げたく、アチラさんも決して望んではいないでしょう。ということで今回は通常の屋根付き四輪車(自家用車ともいう)でいそいそと出かけました。もちろん走るだけなら全行程ノンストップで13時間ですが、この歳で走り屋や暴走族ではありませんので、見学する史跡が多く、途中の要所要所で宿泊しました。



群馬県太田市
世良田東照宮



群馬県太田市は鎌倉時代は新田氏の所領だった
新田氏では鎌倉時代末期の新田義貞が有名

徳川家康の先祖は新田氏の系統にあたえる









群馬県から圏央道を経由して厚木へ、東名高速で静岡へ

まずは静岡の久能山東照宮へ

歩かずに行けると思うと大間違い
1,000段の階段を上る
ロープウエーは久能山頂上まで車で行って、そこから久能山中腹の東照宮へ往復するという込み入った方法が必要

下から登ったので1,000段の階段を息を切らせ30分の登高。山ならば何と言うことはないが、階段の予定は無かったので疲れは倍増。往復の下降はヒザにこたえる。


久能山東照宮

















久能山東照宮

久能山東照宮
徳川家康公御廟


久能山から静岡市内の駿府城跡へは近い


家康は幼少期に人質となって今川義元の居城である駿府城に暮らしたことがある。天下統一後、江戸城は2代将軍徳川秀忠の居城となった。晩年の家康は駿府城に居住した。


静岡 駿府城跡

駿府城公園内の徳川家康像



駿府城趾から浜松城趾へ
織田信長方についた徳川家康は働き盛りの壮年期は浜松城に居住した

浜松城趾



浜松城の石垣


徳川家康を支えた三河武士団


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