東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

古関裕而記念館と清水保俊君

2020-11-25 | 仙台・東北
 古関裕而記念館は福島市にある。

 六甲おろし、栄冠は君に輝く、オリンピックマーチなど、みんな古関裕而さんの作曲なのだ。古賀政男や船村徹はよく知っているのにどうして古関裕而の名前が出てこないのだろう。他にも数多くの素晴らしい作品を残した偉大な作曲家なのに。
 
「若鷲の歌」 昭和18年(1943年) 
作曲:古関裕而 作詞:西條八十  歌:霧島昇 
若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く
・・・
・・・
 ボクが子供だったころ、多分、小学生のころに予科練の歌を歌っていた。戦争に負けてしまったのに、どうしてこの歌の歌詞を覚えていて、みんなで大声で歌っていたのだろう。もはや軍国少年でもなく、戦後生まれだというのに。

若鷲の歌  



阪神タイガースの歌(六甲おろし) 若山 彰(古関裕而 作曲)  



 高校生活最後のころまで、ボクは将来は船乗りかパイロットになりたいと思っていた。商船大学か航空大学校が視野にあった。しかし最後は大学の工学部に進学し、クラブは航空部を選びグライダーに乗った。それも長続きはせず、後は紆余曲折の根無し草になった次第。
 
 以前に述べたがこの夢を叶えたのは高校同級生の清水保俊君だ。彼は商船大学に進学し、大型船の船乗りになり、その後JALに転職しジャンボジェット機に乗った。定年退職後には小説を書いて出版した。

ちょうど清水君が船会社からJALに転職したころ、ボクは東海村の日本原子力研究所に出向していた。当時はボクも横浜から東海村へ転居し悶々としていた。そのとき彼から長文の手紙を受け取ったことがある。風の便りにボクのことを知り気遣ってくれていたのだ。高校時代、彼は応援団長だった。三三七拍子の応援風景を思い出す。文句なしにカッコ良かった。ボクはまだ手紙の返事を書いていない。有難う、清水君!


『栄冠は君に輝く』昭和23年(1948年)
作曲:古関裕而 作詞:加賀大介 歌:伊藤久男
・・・
一球に一打に賭けて
 青春の讃歌を綴れ
ああ栄冠は君に輝く !
・・・


栄冠は君に輝く
作曲:古関裕而 作詞:加賀大介 歌:伊藤久男
(歌詞スーパー入り・イメージ)










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はらこめし 鳥の海

2020-11-23 | 仙台・東北
はらこめし
炊き込みご飯の上に
鮭の身とイクラ
宮城亘理の鳥の海名物





思い出した
震災直後に放射線計測に行った
浜通りの帰りに立ち寄った
食堂はやっていなかった
学生とはらこめし弁当を頂いた

今回はバイクで行った
食堂やレストランは満員で行列
はらこめし弁当を波止場で昼食
鳥の海の堰堤や波止場は復興した
山形や福島ナンバーの車も多い
人が増えてうれしいね






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蔵王の不忘山

2020-11-22 | バイク・山歩き
晩秋から初冬にかけての山歩き
落葉樹は全て葉を落とし
草は全て枯れて縮小し
樹林帯の山路の足下まで日差しが届き
限りなく見通しが得られる
この季節の明るい雰囲気の山歩きも楽しい

不忘山は蔵王連峰の南端にあり
西方の山形側には朝日連峰や飯豊連峰を望む








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赤井遺跡 宮城県矢本 飛鳥奈良時代

2020-11-19 | 歴史散歩
 赤井遺跡は宮城県東松島市矢本赤井にある。

 赤井遺跡は7~8世紀にかけて古代陸奥国の牡鹿柵・牡鹿郡家と呼ばれる城柵官衙遺跡である。関東上総地方からの移住者によって営まれた集落跡で、後の道嶋氏につながっていく氏族が一帯を支配した。
 7世紀後半には、宮城県北部全体に関東地方北西部と東北南部から大量の移民が送り込まれたそうだ。これは明治維新後の北海道へ屯田兵派遣や日本各地からの集団移住とよく似ている。
 
 小生は、牡鹿柵は牡鹿半島にあるものと勘違いしていた。牡鹿半島ではなく東松島市矢本周辺だったのだ。

 西暦780年宝亀11年に伊治公呰麻呂の乱(宝亀の乱)が起きた。伊治公呰麻呂が陸奥按察使紀広純、牡鹿郡大領道嶋大楯を伊治城にて殺害した。道嶋大楯はもともと東北蝦夷の出身であるが、朝廷側に協力していて官位を授かっており、他の東北蝦夷の多くから恨まれていたようだ。

 その約100年後、平安時代西暦869年(貞観11年)に貞観三陸地震による大津波が三陸や仙台周辺を襲い大被害が発生している。2011年3月11日の東日本大震災は千年前の大津波の再来といわれている。グーグルマップによれば赤井遺跡がある公園には、今回の東日本大震災の津波被災者のための仮設住宅が設置されていたようだが、現在は撤去されている。




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名生館官衙(みょうだてかんが)遺跡 飛鳥奈良時代

2020-11-18 | 歴史散歩



 名生館(みょうだて)官衙(かんが)遺跡は宮城県大崎市古川近くの城生地区にある。場所はJR東大崎駅に近い。設置は7世紀末~9世紀といわれる。アテルイが活動していた時期の玉造の城柵はこの付近と思われる。

 以前に地元のラジオ局の放送で聞いた記憶があるが、飛鳥時代から奈良時代にかけて、現在の兵庫県姫路市飾磨(しかま)地区から現在の宮城県大崎市近郊の加美郡色麻(しかま)町付近に多くの移民が送り込まれ、「しかま」の地名が残ったといわれれる。

 北海道は明治維新以前には松前藩やごく一部を除いては人口は多くなかったが、明治維新以降に東北を含む全国各地から人々が大量に移住し現在の人口は500万人以上になっている。東北地方については古く飛鳥奈良時代のころから全国各地より移住してきたようだ。

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蔵王冬の始まり3万歩

2020-11-12 | 旅・趣味・自転車ほか
 蔵王に冬が来た。エコーラインは中腹のスキー場まで。11月5日から来年4月23日まで冬期間は通行止め。

 夏期は車、バイク、自転車で登るが、11月以降は通行止め。

 9月末に痛めた左脚がやっと回復してきた。今回は脚の試運転。天気のいい日に歩け歩け!奥穂高岳の穂高岳山荘から上高地まで下りが3万歩。穂高の稜線は標高3000m、上高地は1500m、標高差は1500m。刈田岳まで中腹から往復で3万歩、単純に計算すると標高差は700m程度かな。







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桃生城 西暦760年完成 14年後焼失

2020-11-10 | 歴史散歩
 桃生城(ものうじょう)は宮城県旧桃生郡にあり、現在は石巻市と合併されている。北上川の下流、涌谷の東にある。

 西暦758年(天平宝字2年)造営開始、2年後760年(天平宝字4年)完成、774年(宝亀5年)に海道の蝦夷(えみし)の攻撃を受け焼失したとある。
 その後に伊治公呰麻呂の乱(宝亀の乱)780年(宝亀11年)があり、東北蝦夷の大規模な反乱につながる。多賀城の設置以後、涌谷の金の産出があり、その後に多賀城の出城である桃生城を築いた時期は、朝廷側の動きが大きな圧力となったと推測できる。

 現地の桃生城跡は、教育委員会の発掘調査の跡は公開されていないのか、城跡の小高い丘の取り付きが不明だった。バイクで行って民家の裏庭に迷い込んだりして、迷惑がかかりそうだったので、結局は発掘跡にたどり着けなかったという次第です。





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会津逍遥

2020-11-08 | 仙台・東北
立冬です。冬の始まり。
裏磐梯と猪苗代湖を周遊しました。
会津磐梯山は宝の山よ!






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伊治城(宮城県栗原市)西暦767年設置

2020-11-03 | 歴史散歩
 伊治城跡は宮城県栗原市築館の近くにあり、西暦767年(奈良時代:神護景雲元年)に設置された。伊治城は「いじ」城と呼ばれるが、「これはる」が旧来の呼称で、「くりはら」の語源のようだ。
 
 多賀城設置が奈良時代西暦724年、涌谷での我が国初の砂金の産出が749年、桃生城が760年設置なので、伊治城は桃生城の7年後に設置された。桃生城、伊治城ともにいずれも多賀城の出城としての機能を果たし、勢力を拡大している。これは私見だが、地理的に見て、涌谷丘陵の金の産出をきっかけにして涌谷の東に桃生城、北に伊治城を設置したと読めなくもない。

 西暦780年(奈良時代:宝亀11年)の伊治公・呰麻呂の乱(宝亀の乱)が起こり、東北蝦夷(えみし)と中央政権の抗争が大規模化するきっかけとなった。伊治公呰麻呂が陸奥按察使紀広純、牡鹿郡大領道嶋大楯を伊治城にて殺害した。呰麻呂に呼応した反乱軍が陸奥国府多賀城を襲撃し焼失した。やはり中央政権から、それまで分散していた東北蝦夷に相当の圧力がかかったことによる反発があったのだろう。

 中央政権と胆沢(現在の岩手県奥州市)の阿弖流為(アテルイ)軍との直接の攻防が始まるのは、西暦780年伊治公・呰麻呂の乱(宝亀の乱)に呼応して蜂起したことが大きい。

 伊治城は一迫川と二迫川に囲まれた自然要害の小高い丘の上にあり、遠く栗駒山も望める。






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