
【映画史への挑戦、映画史の批判】
痛烈な社会批判であり、同時に壮大な歴史再検証であり、映画の歴史の根本をも問う内容である。映画の歴史を変えた当時最高の映画技法で描かれた映画「國民の創生」を差別主義と断罪し、当時と同じクロスカッティング技法をさらに洗練させた演出でもって徹底的に叩くのは映画人なりの誇りの現れだ。クライマックスは「國民の創生」への壮大なパロディにも取れる。
しかし本当の狙いは現在の政府や社会そのものであり、しかもオブラートに包まずドナルド・トランプその人を映画的な技法で名指しで批判する豪快さ。したたかにして、爽快でさえある。

ブラック・クランズマン(邦題は「ブラッKKKランズマン」が良かったと思うのだけど)のオープニングは「風と共に去りぬ」の有名なシーンから始まる。怪我人や死体で溢れかえるアトランタの街の広場の俯瞰シーン。敗色濃厚な南部連合の首都の惨状を伝える素晴らしいショットであるが、アフロアメリカンにとっては歴史上の転機の1つとなった南北戦争であるが、スパイク・リーはいかなる思いでその場面を持ってきたか?
場面からは白人女性の嘆きが聴こえてくる。オリジナルにもあった台詞だったのか、付け足したのか、「神よ南部を救いたまえ」的な発言が強調される。
南部の白人たちがそこまでして守りたかった「古き良きアメリカ南部」とは何だという痛烈な皮肉と私は捉える。
映画内でスパイク・リーが全身全霊をかけるようにして対決するのは、白人至上主義者たちだが、もう一つスパイク・リーはアメリカ映画史あるいはもっと広く映画史との対決を展開している。その対決の真の矛先は映画そのものではなく別にあるのだが、それは後述する。
スパイク・リーは「風と共に去りぬ」よりももっと強く厳しい口調である映画史上に輝く作品を非難する。
アメリカ映画の父と言われ、映画黎明期を代表する歴史的巨匠デビッド・ウォーク・グリフィスの「國民の創生」である。
1960年代のクークラックスクランの集会で、彼らが大盛り上がりしながら観ている映画が「國民の創生」で、他何箇所かで映像が引用されている。
【「國民の創生」について私が思うこと色々】
「國民の創生」は映画黎明期において、モンタージュがいかに映画的興奮をもたらすものであるかを示した、映画の歴史における重要作品である。
モンタージュや、同時進行する二つのエピソードをクロスカッティングで見せたり、移動撮影なども取り入れて、映画にダイナミズムを与え、また編集の重要性を世界に知らしめた。
別に「國民の創生」が初めてそれらをやったという訳ではないが、長編映画で大々的に取り入れしかも効果的に使っていたことで、映画を新しいステージに押し上げた作品である、、、と自分はそう思っている。
けれども一方で描かれる物語は、そういう時代であったとはいえ、やはり人種差別的だと言われても仕方ない内容であった。
少しだけ「國民の創生」という物語の個性的な面を挙げるなら、この映画は南北戦争のその後までを描いているところだろう。
南北戦争やリンカーンを扱った映画は数限りなくあるが、ほとんどは南北戦争の終結か、リンカーンの死で幕を閉じる。
「國民の創生」はリンカーン暗殺は前編のクライマックスに過ぎず、その後の南部アメリカの政治的混乱まで描いている。
反差別、人道的問題としてあげられるのは主に後半のドラマである。
北軍の勝利で南部では多くの黒人奴隷が解放され、彼らは議会でも多数派を占める。「國民の創生」ではこの黒人議員たちを品のないガラの悪い一団として描き、議会がまともに機能しなくなったと伝える。
ブラッククランズマンでも流用された裕福な「白人女性が黒人に襲われて逃げていく中で転落死する」くだりがある。「」内は映画ではそのように描きたかったのだが、字幕を追わずにカットだけ見ていくと別の解釈もできてしまう。
一人で歩いているところを黒人とバッタリ出会い、骨髄反射的に襲われると思ってしまった女性はパニックになって逃げて崖をよじ登る。カットバックの黒人男性の顔は「何もしないから降りてきてくれ、危ないぞ」と訴えているようにも見える。パニックの女性は聞く耳を持たず黒人に捕まってレイプされるくらいならと飛び降り自殺をした。これは無知と偏見が起こした悲劇である。
…という風に描いているようにも受け取れる。
もちろん映画の文脈というか、物語の前後関係からそのような意図がないことくらいはわかる。
意図に反した解釈をされるということは、グリフィスの演出力が弱いということなのだ。
といっても、映画に「演出」という考えがやっと芽生えてきた時代の人に演出力で批判するのはアンフェアかもしれない
その場面の前か後かわすれたが、ブラッククランズマンの中でKKKの連中が大喜びするシーン。黒人の子供をシーツを被った白人の子供が脅かしているのを見て主人公が白装束で「悪い黒人」を私的に制裁する組織「クー・クラックス・クラン」結成のアイデアを得る場面。
映画のクライマックスは、暴徒化した黒人たちに主人公の家族が襲われて村はずれの納屋みたいなとこに立て篭もる(お手伝いの黒人も一緒に立て籠もって白人家族を守って暴徒と闘ったりもしている)が、完全に包囲された納屋の陥落は時間の問題。
その納屋襲撃と並行して、KKKの騎馬隊が救助に向かう様子がスピーディな移動撮影で描かれ、襲撃場面と救助に向かう場面が交互に、今で言うクロスカッティングで描かれる。
で、納屋に立て籠もる家族がもうダメだと思ったその時に到着したKKKによって暴徒は鎮圧されるのである。
KKKと黒人暴徒でなければ素晴らしい名シーンなのだが。
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などと長々と「國民の創生」で問題となる後半部分を紹介してみた。
前半部分、リンカーン暗殺の場面までは多少は問題あれど、普通に歴史スペクタクルとして面白く観れるのだが。
しかし、リンカーンの暗殺によって南部の歴史が悪い方に動いたということを描いているところだけは、評価してよいのではないか。
奴隷解放論者でありながら政治家として急進的な解放主義者たちを抑え南部の政治的安定を優先しようとしていたリンカーンが亡くなり、歯止めをかけるものが無くなったことで、急進改革派は強引に南部の改革を行い、その反動でKKKのような組織が生まれてしまったのだ。
さておき、現代に生きる私たちは差別なんかダメと当たり前に思っているが、当時は当たり前のように差別が横行していた。
だから「國民の創生」のような映画が作られてしまう。映画史にとって非常に重要な大長編映画であり、大々的にモンタージュを取り入れて映画とは細かいカットの集合で物語や感情や思想を伝えるものだということを決定づけた作品だ。しかしそれが人種差別に根差した作品であったことから、映画はその歴史の最初期から呪われてしまったのだ。
「ブラッククランズマン」で語られるジェシー・ワシントン事件。
殺人で有罪となった黒人青年が傍聴していた白人たちによって裁判所から連れ出され、リンチされ、指や性器を切られたのち鎖で吊るされ火あぶりにされて、苦痛が長く続くように焼いては引き上げ焼いては引き上げ、燃えかすのようになった遺体は切り刻まれ骨の欠片や歯が土産物として売られたのだという。
消し炭のようになったジェシー・ワシントンの死体と並んで笑顔で記念写真を撮る白人。
そんな狂気としか言いようのない事件について映画「ブラッククランズマン」は間接的責任が「國民の創生」のヒットにあると糾弾している。
余談だが凄惨なリンチにあって殺された青年がアメリカ初代大統領と同じワシントンであることは皮肉なことだ。ワシントン青年を殺し燃やした人たちはアメリカが建国で歌い上げた平等や基本的人権の精神まで焼き殺したのだ。
ブラッククランズマンはこうした昔の酷い差別的な事件を語るのだが、その語り口はただ演説するだけではない。
ジェシー・ワシントン事件の語りは、KKKの儀式や馬鹿騒ぎと同時並行で語られる。
クロスカッティングだ。これこそ「國民の創生」でグリフィスが活用した技法である。
いまだKKKたちが熱狂する演出を使って、ただ語るだけなら退屈になるジェシー・ワシントン事件の説明を、リズミカルに、しかもKKKの連中の狂気をより強調するために使う。
映画史の根本に原罪のように横たわる作品をそれと同じ技術でもって、より洗練された編集でもってこきおろす。それは汚れた思想で始まった映画を浄化する試みのようにも取れる。
しかも主演俳優がジョン・デヴィッド・ワシントン。このキャスティング含めてこの映画は壮大なアメリカ・リセットの試みなのかもしれない

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【社会派映画とは】
ところでこの映画は1960年代にKKKに潜入捜査した黒人刑事とユダヤ系刑事の実話をベースにしているという。実話から相当逸脱して脚色しているとは思うが、ともかく今よりはるかに人種差別が横行していた自由の国アメリカの南部で人種差別と闘った人たちの物語である。
こういうことを書くといつも思うことがある。
過去の社会問題を扱う映画は果たして社会派映画と呼んでいいのか?
結論から言うと「ブラック・クランズマン」は徹底的に「社会派映画」だった。
いつだったかのアカデミー賞授賞式で、アメリカ映画がこれまで作ってきた「社会派映画」を紹介するというコーナーがあり、たくさんの社会派映画の断片が紹介されていったのだが
その中に「シンドラーのリスト」があって、え?と首を傾げた
別にYes!のバカ須だがナチ須だか的な意味で首を傾げたわけではない。
言うまでもなくシンドラーのリストは30年代から40年代におけるドイツでのユダヤ人差別そして虐殺を描いた映画である。それは過去の非道な行為を現代から告発した映画で歴史劇であり人間ドラマではあるが、果たして「社会派映画」なのか?と。
スピルバーグは未来という絶対安全圏から数十年前の悪事を非難している。しかも人種で人を差別してはいけないという考えが一般論としてほぼ定着(ネトウヨ諸氏はそのように考えてはいないようだが)している93年にその当時の主流の思想に沿って告発しているだけで、見た人はああそうだねとうなづくだけの映画である。念のためいうと私はホロコーストを恐ろしい人類の暗黒の歴史だと考えているし、「シンドラーのリスト」の考え方には全面的に賛同するし、そういうの除いても映画として大好きだ。
ただ私は社会派映画とは現代の問題に異議申し立て、抗議、批判、する映画であると思っている。反対意見を持つ多くの人間の批判を恐れずに、社会変革のために主張するのが「社会派映画」というものだと思う。
だからナチがヨーロッパで暴威をふるいつつあった1930年代に、ヒトラーのことを徹底的に茶化した「チャップリンの独裁者」は完ぺきな「社会派映画」だ。
社会を変えた偉業や苦労を描くのではなく、まだ変わっていない社会を変えようとするものが「社会派映画」なのだと私はそう思う。
「シンドラーのリスト」で描かれたユダヤ人差別だってまだ終わってはいないという反論もあるかもしれない。しかし「シンドラーのリスト」という映画の中で収容所から解放されたユダヤ人たちが、俳優から実在の人物に代わってユダヤ人国家イスラエルの大地を歩くラストシーンで、映画の中でホロコーストは終わっているのだ。そこから想像力を膨らませて現代の差別問題につなげるのは自由だが、映画の中では一応の終結を迎えているのだ。ゲットーに独裁者の軍隊が押し寄せて終わる「独裁者」と違って!
では「ブラック・クランズマン」はどうか。
この映画も60年代という過去の出来事を描いており、上述の定義から言えば「社会派映画」にはならない。
しかしスパイク・リーは明確にこの物語を現代に通じるどころか、まさに現代の問題として描いている。
KKKの代表のデュークという男は一見物腰柔らかで紳士のように見える。スパイク・リーは彼にKKKの儀式の席でこれ見よがしに「アメリカ・ファースト」という台詞を喋らせる。言うまでもなくドナルド・トランプのスローガンだ。
これくらいなら「現代に通じる」表現にすぎないが、ラストで吠える。
実際のニュース映像でつい数年前の白人至上主義者による自動車を暴走させてデモ隊に突っ込む無差別テロの様を見せ、まだ存命の本物のデュークがコメントを述べるニュース映像を見せ(俳優がラストで本物にという流れは「シンドラーのリスト」的だ)、さらにはドナルド・トランプが白人至上主義者を事実上擁護した発言をしている映像をつなげている。
これは過去の物語ではなく、現在進行形の社会問題であり、あろうことかアメリカの最高権力者が人種差別をする側の人間であることを見せつける。
そして逆さまになった星条旗をあしらったエンドクレジットのタイトルバック映像。
逆さまの国旗は国家の危機を表すのだという(ポール・ハギスの「告発のとき」で学んだ)
しかもモノクロにして白と黒だけで描かれた逆さまの国旗は人種対立する病める国家のメタファーだ。
我が国もあべしんぞーなる男がいつまでも政権につき、すでに9条は骨抜きにされ、性差別も人種差別もまかり通る異常な国になっている。日の丸という旗はそのデザインは好きだが、逆さまに掲げても変わらないのが欠点だ。
上下左右対称ではない旗を選んだアメリカは常に国難と立ち向かう覚悟を持っていたのかもしれない
映画の歴史は差別思想から産まれた業を背負い、その歴史的映画はワシントン青年とアメリカの自由と平等の理念を焼き払った。
60年代差別されていた人たちは立ち上がったが彼らは勝利していない。むしろ今アメリカは60年代より逆行している。
武器を持って立ち上がれとブラックパンサー党の党首は言う。主人公はそれを比喩表現であって暴力テロの扇動ではないと言った。スパイク・リーは映画という武器で、カメラとフィルム(DCPかも知らんが)という銃で、前線に立つのはワシントンという名の俳優だ。スパイク・リーは現代の差別主義者を、その巨魁であるドナルド・トランプに戦争を仕掛けた。
そんな熱い熱い本物の社会派映画がブラック・クランズマンなのである。
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【刑事アクションサスペンスとしてはどうかな】
映画の熱さに呼応してこちらも熱くなってしまったが、最後にちょっとだけこの映画の弱点についても書いておきたい。
社会性は置いといて純粋に刑事アクションサスペンスとして観た場合、構成に無理がある。
そもそもなんでアダム・ドライバーは電話担当もやらなかったのか?最初の1回目の電話はともかくあとは潜入者本人と電話の声を一致させた方がリスク少ないに決まってるだろうと思う。JDワシントンが指示してアダム・ドライバーが喋るとするべきではないか。実話だから?っていう言い訳は嫌い。
それにロンは、フェリックスの妻(おデブのおばちゃん)が集会を抜け出した時に、どうして彼女がパトリスを狙っているとわかったのか?
職場放棄はまあ、あんなKKKのクズ野郎どものガードなんてやりたくなかっただろうからわかるのだけど
フェリックスの妻がテロを起こそうとしていることをただ直感だけで見抜くというのはどうもしっくりこない。
とはいえその後の爆弾をめぐる展開、編集のうまさは興奮するし、KKKが助けに駆けつけるという展開は「國民の創生」のクライマックスへの痛烈なパロディとも化しており、アクションサスペンス的な欠点など軽く補って映画として強い
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【最後の最後にグリフィスについて】
「國民の創生」は残念ながら人種差別主義の映画ではあるが、しかしこの映画が映画史で果たした強い影響、モンタージュの確立という功績は別に考えるべきだ。
また、グリフィスは差別主義者だったかもしれないが、言い方難しいが時代性を勘案する必要はある。全てを個人の責任にするのは、時代や社会の悪を許すことにもつながる。
少なくともグリフィスの「イントレランス」など他の作品まで否定するのは間違いだ。
作品に罪はない…と言いたいところだが、スパイク・リーは「國民の創生」という作品には罪があると本作で訴えた。それも否定はできない。
とは言えスパイク・リーは本作でグリフィスという名前はほぼ使わず、主に作品名を使って批判した。もしかすると映画人スパイク・リーのせめてもの配慮あるいは慈悲だったのかもしれない。

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ブラック・クランズマン BlacKKKlansman
監督 スパイク・リー
脚本 スパイク・リー、チャーリー・ワックテル、デヴィッド・ラビノウィッツ、ケヴィン・ウィルモット
撮影 チェイス・アーヴィン
編集 バリー・アレクサンダー・ブラウン
音楽 テレンス・ブランチャード
出演 ジョン・デヴィッド・ワシントン、アダム・ドライバー、ローラ・ハリアー、トファー・グレイス、ドナルド・トランプ
2019年4月 シネクイント渋谷にて鑑賞
痛烈な社会批判であり、同時に壮大な歴史再検証であり、映画の歴史の根本をも問う内容である。映画の歴史を変えた当時最高の映画技法で描かれた映画「國民の創生」を差別主義と断罪し、当時と同じクロスカッティング技法をさらに洗練させた演出でもって徹底的に叩くのは映画人なりの誇りの現れだ。クライマックスは「國民の創生」への壮大なパロディにも取れる。
しかし本当の狙いは現在の政府や社会そのものであり、しかもオブラートに包まずドナルド・トランプその人を映画的な技法で名指しで批判する豪快さ。したたかにして、爽快でさえある。

ブラック・クランズマン(邦題は「ブラッKKKランズマン」が良かったと思うのだけど)のオープニングは「風と共に去りぬ」の有名なシーンから始まる。怪我人や死体で溢れかえるアトランタの街の広場の俯瞰シーン。敗色濃厚な南部連合の首都の惨状を伝える素晴らしいショットであるが、アフロアメリカンにとっては歴史上の転機の1つとなった南北戦争であるが、スパイク・リーはいかなる思いでその場面を持ってきたか?
場面からは白人女性の嘆きが聴こえてくる。オリジナルにもあった台詞だったのか、付け足したのか、「神よ南部を救いたまえ」的な発言が強調される。
南部の白人たちがそこまでして守りたかった「古き良きアメリカ南部」とは何だという痛烈な皮肉と私は捉える。
映画内でスパイク・リーが全身全霊をかけるようにして対決するのは、白人至上主義者たちだが、もう一つスパイク・リーはアメリカ映画史あるいはもっと広く映画史との対決を展開している。その対決の真の矛先は映画そのものではなく別にあるのだが、それは後述する。
スパイク・リーは「風と共に去りぬ」よりももっと強く厳しい口調である映画史上に輝く作品を非難する。
アメリカ映画の父と言われ、映画黎明期を代表する歴史的巨匠デビッド・ウォーク・グリフィスの「國民の創生」である。
1960年代のクークラックスクランの集会で、彼らが大盛り上がりしながら観ている映画が「國民の創生」で、他何箇所かで映像が引用されている。
【「國民の創生」について私が思うこと色々】
「國民の創生」は映画黎明期において、モンタージュがいかに映画的興奮をもたらすものであるかを示した、映画の歴史における重要作品である。
モンタージュや、同時進行する二つのエピソードをクロスカッティングで見せたり、移動撮影なども取り入れて、映画にダイナミズムを与え、また編集の重要性を世界に知らしめた。
別に「國民の創生」が初めてそれらをやったという訳ではないが、長編映画で大々的に取り入れしかも効果的に使っていたことで、映画を新しいステージに押し上げた作品である、、、と自分はそう思っている。
けれども一方で描かれる物語は、そういう時代であったとはいえ、やはり人種差別的だと言われても仕方ない内容であった。
少しだけ「國民の創生」という物語の個性的な面を挙げるなら、この映画は南北戦争のその後までを描いているところだろう。
南北戦争やリンカーンを扱った映画は数限りなくあるが、ほとんどは南北戦争の終結か、リンカーンの死で幕を閉じる。
「國民の創生」はリンカーン暗殺は前編のクライマックスに過ぎず、その後の南部アメリカの政治的混乱まで描いている。
反差別、人道的問題としてあげられるのは主に後半のドラマである。
北軍の勝利で南部では多くの黒人奴隷が解放され、彼らは議会でも多数派を占める。「國民の創生」ではこの黒人議員たちを品のないガラの悪い一団として描き、議会がまともに機能しなくなったと伝える。
ブラッククランズマンでも流用された裕福な「白人女性が黒人に襲われて逃げていく中で転落死する」くだりがある。「」内は映画ではそのように描きたかったのだが、字幕を追わずにカットだけ見ていくと別の解釈もできてしまう。
一人で歩いているところを黒人とバッタリ出会い、骨髄反射的に襲われると思ってしまった女性はパニックになって逃げて崖をよじ登る。カットバックの黒人男性の顔は「何もしないから降りてきてくれ、危ないぞ」と訴えているようにも見える。パニックの女性は聞く耳を持たず黒人に捕まってレイプされるくらいならと飛び降り自殺をした。これは無知と偏見が起こした悲劇である。
…という風に描いているようにも受け取れる。
もちろん映画の文脈というか、物語の前後関係からそのような意図がないことくらいはわかる。
意図に反した解釈をされるということは、グリフィスの演出力が弱いということなのだ。
といっても、映画に「演出」という考えがやっと芽生えてきた時代の人に演出力で批判するのはアンフェアかもしれない
その場面の前か後かわすれたが、ブラッククランズマンの中でKKKの連中が大喜びするシーン。黒人の子供をシーツを被った白人の子供が脅かしているのを見て主人公が白装束で「悪い黒人」を私的に制裁する組織「クー・クラックス・クラン」結成のアイデアを得る場面。
映画のクライマックスは、暴徒化した黒人たちに主人公の家族が襲われて村はずれの納屋みたいなとこに立て篭もる(お手伝いの黒人も一緒に立て籠もって白人家族を守って暴徒と闘ったりもしている)が、完全に包囲された納屋の陥落は時間の問題。
その納屋襲撃と並行して、KKKの騎馬隊が救助に向かう様子がスピーディな移動撮影で描かれ、襲撃場面と救助に向かう場面が交互に、今で言うクロスカッティングで描かれる。
で、納屋に立て籠もる家族がもうダメだと思ったその時に到着したKKKによって暴徒は鎮圧されるのである。
KKKと黒人暴徒でなければ素晴らしい名シーンなのだが。
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などと長々と「國民の創生」で問題となる後半部分を紹介してみた。
前半部分、リンカーン暗殺の場面までは多少は問題あれど、普通に歴史スペクタクルとして面白く観れるのだが。
しかし、リンカーンの暗殺によって南部の歴史が悪い方に動いたということを描いているところだけは、評価してよいのではないか。
奴隷解放論者でありながら政治家として急進的な解放主義者たちを抑え南部の政治的安定を優先しようとしていたリンカーンが亡くなり、歯止めをかけるものが無くなったことで、急進改革派は強引に南部の改革を行い、その反動でKKKのような組織が生まれてしまったのだ。
さておき、現代に生きる私たちは差別なんかダメと当たり前に思っているが、当時は当たり前のように差別が横行していた。
だから「國民の創生」のような映画が作られてしまう。映画史にとって非常に重要な大長編映画であり、大々的にモンタージュを取り入れて映画とは細かいカットの集合で物語や感情や思想を伝えるものだということを決定づけた作品だ。しかしそれが人種差別に根差した作品であったことから、映画はその歴史の最初期から呪われてしまったのだ。
「ブラッククランズマン」で語られるジェシー・ワシントン事件。
殺人で有罪となった黒人青年が傍聴していた白人たちによって裁判所から連れ出され、リンチされ、指や性器を切られたのち鎖で吊るされ火あぶりにされて、苦痛が長く続くように焼いては引き上げ焼いては引き上げ、燃えかすのようになった遺体は切り刻まれ骨の欠片や歯が土産物として売られたのだという。
消し炭のようになったジェシー・ワシントンの死体と並んで笑顔で記念写真を撮る白人。
そんな狂気としか言いようのない事件について映画「ブラッククランズマン」は間接的責任が「國民の創生」のヒットにあると糾弾している。
余談だが凄惨なリンチにあって殺された青年がアメリカ初代大統領と同じワシントンであることは皮肉なことだ。ワシントン青年を殺し燃やした人たちはアメリカが建国で歌い上げた平等や基本的人権の精神まで焼き殺したのだ。
ブラッククランズマンはこうした昔の酷い差別的な事件を語るのだが、その語り口はただ演説するだけではない。
ジェシー・ワシントン事件の語りは、KKKの儀式や馬鹿騒ぎと同時並行で語られる。
クロスカッティングだ。これこそ「國民の創生」でグリフィスが活用した技法である。
いまだKKKたちが熱狂する演出を使って、ただ語るだけなら退屈になるジェシー・ワシントン事件の説明を、リズミカルに、しかもKKKの連中の狂気をより強調するために使う。
映画史の根本に原罪のように横たわる作品をそれと同じ技術でもって、より洗練された編集でもってこきおろす。それは汚れた思想で始まった映画を浄化する試みのようにも取れる。
しかも主演俳優がジョン・デヴィッド・ワシントン。このキャスティング含めてこの映画は壮大なアメリカ・リセットの試みなのかもしれない

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【社会派映画とは】
ところでこの映画は1960年代にKKKに潜入捜査した黒人刑事とユダヤ系刑事の実話をベースにしているという。実話から相当逸脱して脚色しているとは思うが、ともかく今よりはるかに人種差別が横行していた自由の国アメリカの南部で人種差別と闘った人たちの物語である。
こういうことを書くといつも思うことがある。
過去の社会問題を扱う映画は果たして社会派映画と呼んでいいのか?
結論から言うと「ブラック・クランズマン」は徹底的に「社会派映画」だった。
いつだったかのアカデミー賞授賞式で、アメリカ映画がこれまで作ってきた「社会派映画」を紹介するというコーナーがあり、たくさんの社会派映画の断片が紹介されていったのだが
その中に「シンドラーのリスト」があって、え?と首を傾げた
別にYes!のバカ須だがナチ須だか的な意味で首を傾げたわけではない。
言うまでもなくシンドラーのリストは30年代から40年代におけるドイツでのユダヤ人差別そして虐殺を描いた映画である。それは過去の非道な行為を現代から告発した映画で歴史劇であり人間ドラマではあるが、果たして「社会派映画」なのか?と。
スピルバーグは未来という絶対安全圏から数十年前の悪事を非難している。しかも人種で人を差別してはいけないという考えが一般論としてほぼ定着(ネトウヨ諸氏はそのように考えてはいないようだが)している93年にその当時の主流の思想に沿って告発しているだけで、見た人はああそうだねとうなづくだけの映画である。念のためいうと私はホロコーストを恐ろしい人類の暗黒の歴史だと考えているし、「シンドラーのリスト」の考え方には全面的に賛同するし、そういうの除いても映画として大好きだ。
ただ私は社会派映画とは現代の問題に異議申し立て、抗議、批判、する映画であると思っている。反対意見を持つ多くの人間の批判を恐れずに、社会変革のために主張するのが「社会派映画」というものだと思う。
だからナチがヨーロッパで暴威をふるいつつあった1930年代に、ヒトラーのことを徹底的に茶化した「チャップリンの独裁者」は完ぺきな「社会派映画」だ。
社会を変えた偉業や苦労を描くのではなく、まだ変わっていない社会を変えようとするものが「社会派映画」なのだと私はそう思う。
「シンドラーのリスト」で描かれたユダヤ人差別だってまだ終わってはいないという反論もあるかもしれない。しかし「シンドラーのリスト」という映画の中で収容所から解放されたユダヤ人たちが、俳優から実在の人物に代わってユダヤ人国家イスラエルの大地を歩くラストシーンで、映画の中でホロコーストは終わっているのだ。そこから想像力を膨らませて現代の差別問題につなげるのは自由だが、映画の中では一応の終結を迎えているのだ。ゲットーに独裁者の軍隊が押し寄せて終わる「独裁者」と違って!
では「ブラック・クランズマン」はどうか。
この映画も60年代という過去の出来事を描いており、上述の定義から言えば「社会派映画」にはならない。
しかしスパイク・リーは明確にこの物語を現代に通じるどころか、まさに現代の問題として描いている。
KKKの代表のデュークという男は一見物腰柔らかで紳士のように見える。スパイク・リーは彼にKKKの儀式の席でこれ見よがしに「アメリカ・ファースト」という台詞を喋らせる。言うまでもなくドナルド・トランプのスローガンだ。
これくらいなら「現代に通じる」表現にすぎないが、ラストで吠える。
実際のニュース映像でつい数年前の白人至上主義者による自動車を暴走させてデモ隊に突っ込む無差別テロの様を見せ、まだ存命の本物のデュークがコメントを述べるニュース映像を見せ(俳優がラストで本物にという流れは「シンドラーのリスト」的だ)、さらにはドナルド・トランプが白人至上主義者を事実上擁護した発言をしている映像をつなげている。
これは過去の物語ではなく、現在進行形の社会問題であり、あろうことかアメリカの最高権力者が人種差別をする側の人間であることを見せつける。
そして逆さまになった星条旗をあしらったエンドクレジットのタイトルバック映像。
逆さまの国旗は国家の危機を表すのだという(ポール・ハギスの「告発のとき」で学んだ)
しかもモノクロにして白と黒だけで描かれた逆さまの国旗は人種対立する病める国家のメタファーだ。
我が国もあべしんぞーなる男がいつまでも政権につき、すでに9条は骨抜きにされ、性差別も人種差別もまかり通る異常な国になっている。日の丸という旗はそのデザインは好きだが、逆さまに掲げても変わらないのが欠点だ。
上下左右対称ではない旗を選んだアメリカは常に国難と立ち向かう覚悟を持っていたのかもしれない
映画の歴史は差別思想から産まれた業を背負い、その歴史的映画はワシントン青年とアメリカの自由と平等の理念を焼き払った。
60年代差別されていた人たちは立ち上がったが彼らは勝利していない。むしろ今アメリカは60年代より逆行している。
武器を持って立ち上がれとブラックパンサー党の党首は言う。主人公はそれを比喩表現であって暴力テロの扇動ではないと言った。スパイク・リーは映画という武器で、カメラとフィルム(DCPかも知らんが)という銃で、前線に立つのはワシントンという名の俳優だ。スパイク・リーは現代の差別主義者を、その巨魁であるドナルド・トランプに戦争を仕掛けた。
そんな熱い熱い本物の社会派映画がブラック・クランズマンなのである。
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【刑事アクションサスペンスとしてはどうかな】
映画の熱さに呼応してこちらも熱くなってしまったが、最後にちょっとだけこの映画の弱点についても書いておきたい。
社会性は置いといて純粋に刑事アクションサスペンスとして観た場合、構成に無理がある。
そもそもなんでアダム・ドライバーは電話担当もやらなかったのか?最初の1回目の電話はともかくあとは潜入者本人と電話の声を一致させた方がリスク少ないに決まってるだろうと思う。JDワシントンが指示してアダム・ドライバーが喋るとするべきではないか。実話だから?っていう言い訳は嫌い。
それにロンは、フェリックスの妻(おデブのおばちゃん)が集会を抜け出した時に、どうして彼女がパトリスを狙っているとわかったのか?
職場放棄はまあ、あんなKKKのクズ野郎どものガードなんてやりたくなかっただろうからわかるのだけど
フェリックスの妻がテロを起こそうとしていることをただ直感だけで見抜くというのはどうもしっくりこない。
とはいえその後の爆弾をめぐる展開、編集のうまさは興奮するし、KKKが助けに駆けつけるという展開は「國民の創生」のクライマックスへの痛烈なパロディとも化しており、アクションサスペンス的な欠点など軽く補って映画として強い
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【最後の最後にグリフィスについて】
「國民の創生」は残念ながら人種差別主義の映画ではあるが、しかしこの映画が映画史で果たした強い影響、モンタージュの確立という功績は別に考えるべきだ。
また、グリフィスは差別主義者だったかもしれないが、言い方難しいが時代性を勘案する必要はある。全てを個人の責任にするのは、時代や社会の悪を許すことにもつながる。
少なくともグリフィスの「イントレランス」など他の作品まで否定するのは間違いだ。
作品に罪はない…と言いたいところだが、スパイク・リーは「國民の創生」という作品には罪があると本作で訴えた。それも否定はできない。
とは言えスパイク・リーは本作でグリフィスという名前はほぼ使わず、主に作品名を使って批判した。もしかすると映画人スパイク・リーのせめてもの配慮あるいは慈悲だったのかもしれない。

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ブラック・クランズマン BlacKKKlansman
監督 スパイク・リー
脚本 スパイク・リー、チャーリー・ワックテル、デヴィッド・ラビノウィッツ、ケヴィン・ウィルモット
撮影 チェイス・アーヴィン
編集 バリー・アレクサンダー・ブラウン
音楽 テレンス・ブランチャード
出演 ジョン・デヴィッド・ワシントン、アダム・ドライバー、ローラ・ハリアー、トファー・グレイス、ドナルド・トランプ
2019年4月 シネクイント渋谷にて鑑賞