上映作品
「老ナルキソス」
「ピンぼけシティライツ」
「23:60」
「ホモソーシャルダンス」
「老ナルキソス」
ゲイでマゾで老人のトラウマを巡る物語。という時点で原作がベストセラーで主人公がジャック・ニコルソンとかモーガン・フリーマンクラスの人でないと誰も見ないような映画だが、もちろん出演者はそんなスターではなく、脚本もオリジナルである。
にもかかわらず、この映画は魅せる。
まさに決して商業ベースでは成立しない企画に、監督が嬉々として取り組んでいる様が眼に浮かぶ。
見るこちらとしても、ほとんど自分と接点のなかった人たちの苦しみ、葛藤、を知る貴重な体験であり、気がつけば痛みに取り憑かれた老人に、厳密に言えばその老人を見る若いホストの男の視点から感情移入させられていく。
感情移入というのはただ奇抜なだけ、あるいは情熱的なだけでは生まれない。
商業映画的なテクニカルな面に支えられている。
オープニングからクライマックスのような男同士のSMプレイをなんの説明もなく始まり、観客はツカミでいきなり未知の世界に連れ込まれる。
オープニングのCGも異常世界への誘いとして効果的。
そこから老人が割と有名な絵本作家であることが明かされ、老人がただのヘンタイではなく、生活があり仕事があり、それなりに社会的評価を得ている人、モンスターでなく私たちと同じ人間であることがわかる。こうして感情移入のハードルを下げていく。
痛みに快感を感じた過去の経緯が回想シーンの挿入で語られるのはテンポよく、測ったわけではないけど10分〜15分くらいで第1のプロットポイント「浮浪者にお金を出してプレイのS役を持ちかける」となって、集中力が切れる前に次の展開への興味を掻き立ててくる。
この浮浪者もその前のシーンに登場しているので唐突感無く、こうした伏線回収も巧みだ。
なお、厳密いうとほんとうのプロットポイントはこの少し後のシーンなのだがネタバレになるので…
そして、事件が起こり死にたくなるほどの惨めな気分、どん底に落ちた主人公が、最後は自分の性癖含めた全てを受け入れる(と、私は解釈)。「主人公が物語の中で成長する」という、脚本の鉄則もきちんと盛り込まれている。
ずっと夜だった舞台がラストで朝になるところも、初期公開版ブレードランナーのような感動を呼ぶのだが、この時間経過も計算してやっているのだろう。
というわけで、この映画は主人公の圧倒的なキャラ立ちに甘えることなく、クレバーといってもいいほどに構成をテクニカルに組み立て、ストーリーテリングを丁寧に行なっている。
ただの変態ジイさんがひたすら痛がりつつイキまくる映画ではなく(それはそれで面白いかもしれないが)、きちんとストーリーで感情を伝えている。
誰もがトラウマや人に言えないアブなさを抱えているから、これは極端にデフォルメされただけで、全ての人間の物語なのだと思わせ、その先に性的マイノリティに対する偏見を捨て違いを認めよう、という社会的メッセージが見え隠れする。
うまい
ひたすらうまい。
数々の映画祭で賞に輝くことも納得の一作であった。
「ピンほけシティライツ」
大府ショートフィルムフェスティバルで鑑賞済みなので、全体雰囲気より細部を楽しんで見ることができた。
とはいえ、ビキニ幽霊の合成に違和感ない。見破れなかった。
今改めて見ると東海林監督作品では異色なくらい、軽くて見た目も後味もソフトタッチ
ビキニ姿の美人幽霊が出っぱなしだから、俗な意味というか、エロい意味で興味を引くのだが、そのくせ見せられるのは脇腹ぷよぷよ男の自慰シーンであるというのは、監督の素晴らしいところだ。
※なお、前にも書きましたが脇腹ぷよぷよ男を演じた星能さんはほんとはしまった筋肉質で、「センターライン」では「ゆとり筋肉」とあだ名をつけられるほどの方で、この作品の時は別作品での体型変化が抜けきれないところを監督にむしろその体型を気に入られて出演したのであります。
写真家と被写体
写真家とモデル
撮るものと撮られるもの
観るものと見られるもの
これは容易に監督と役者の関係に置き換えられるし、深読みすると映画と観客の関係にもなるかもしれない
もしかすると、つまらない商業写真でなんとか食いつないでいる売れないカメラマンは監督なのかもしれない。自伝的要素があり、だから映画の撮影で女優に自分をdisらせたのかもしれない。そう思うとMっ気が東海林監督の作家性かもしれないと思えてきた。
でもそんな個人的思惑がもしあったとしても、スクリーンから客席に向けて投げかけられるビキニ幽霊の罵りの言葉はまっすぐ客席の観客たちに突き刺さる
お前たち、今の自分を見ろ、仕事や家庭で自分に何かを賭けてくれた人が望むような生き方しているか?!と、問われている。
「23:60」
二本わかりやすい映画が続いたところでこの、難解かつヘビーな作品。東海林監督、意地悪だなー
制作年度を見て個人的な感慨にひたる
2007年でしたっけ
実は同時期に私もインターネットでのコミュニケーションをテーマに、ネットの闇に踏み込んだ作品を撮った。「その悩み何バイト?」という作品で、チャットの字幕でストーリーを展開させていくところも似ている。
デジタル字幕によるストーリーテリングは、それより前の「リリィシュシュのすべて」とか「(ハル)」でもやっており、ぶっちゃけ私はそれらのマネの側面もあったのだけど。
ただ誓って言うが「電車男」のパクリではなかった。撮影は「電車男」映画版公開の少し前だし、私はその映画は大嫌いだ。ドラマ版は多少はマシだがやっぱり嫌いだ。原作?は好きですが。
ともかくインターネット上の人付き合いはかくも不確かで実はみんなが自分自身の妄想とコミュニケーションを取っているに過ぎない。そんな仮想世界にふと現実との接点が見えたら、という映画をコメディ風に撮った
東海林監督の作品も狙いは近いものがあるように感じた。
しかし私なんかはもちろん、森田芳光先生や岩井俊二先生なんかと比べても、はるかにダークで、ヘビーなネットの闇を描いていた。
映像の動きは恐ろしく少なく、テンポはきわめて悪く、というより話の動きすらほとんどない。
そこにはネット世界に泥かヘドロのように淀み、停滞したわずかばかりの感情の這いずりがあるのみ。
タイトルの23:60が示すのは、ありえない時間、1日の終わりでも始まりでもない時間、そこでは時の流れすら止まり、人々は成長することなく、ただただ沈殿していき、誰かが好奇心でかき分けた泥のそこから見つかるのをただ待つ。
この作品には「老ナルキソス」で見せた作劇のテクニカルな面などむしろすべて投げ捨て、ネット内の仮想世界の不毛さをとことんまで描き切ることに恍惚を感じている作者の顔が思い浮かぶ
「ホモソーシャルダンス」
4作品の最後を飾るのは奇怪としか言いようのない作品。
上映会終わった直後の感想では一番面白いと思ったのは、つまりお見合いパーティーの第一印象カードに書くなら「老ナルキソス」だったのだが、あのような出来の良い映画は、いつかもっと出来の良い作品によって記憶の隅に追いやられていく宿命を持っている。
だが、「ホモソーシャルダンス」は何十年たっても忘れることはなさそうな強烈すぎる印象を残す。例えば事故で頭を打ってこれまでに見た映画のほとんどが記憶から消えても、「男たちの挽歌2」と「ホモソーシャルダンス」だけは覚えていそうな強さを感じる。
鑑賞後2週間近くたって選ぶとしたら「ホモソーシャルダンス」だ
とにかくこの映画、台詞がなくて、ずっとミュージカル
ミュージカルといってもひたすらスキャットで歌詞はない
高校の学園風景と、物語を表現するダンスシーンとが同時並行で進む
正直、物語はよくわからない。
クラス内の明らかにイケてないグループに属している男子が、学園のアイドルで高嶺の花に恋をして、ラブレターを渡すんだったかデートに誘うんだったか、まあそんな身分違いなことをする。
学園アイドルにはあからさまに侮蔑され、取り巻きの男子たちからも笑われボコられ
で、ここからなんだかわからなくなるのだが、急にアイドルの子がイケてるグループ内でハブられ、イケてない男子が彼女のために奮闘する的な展開で、ストーリーがわかんないからネタバレもないと思うので結末書くと最後に男子とアイドルは結ばれてるっぽいのである。
そして並行して描かれるダンスパートは、男性は全員真っ白な全身タイツで、その服のデザインは明らかに男性器で、1人だけの女性はピンク色のドレスだがそのデザインもまた明らかに女性器なのだ。
そんなチンポコとオマンコが黙々とダンスする様が、やはり黙劇の学園ドラマと並行して描かれる。学園パートの男女もどう見ても学生服着たおっさんだったり、プロレスラーみたいな白人が混ざっていたりで、誰か!俺に何が起こってるのか説明してくれ!と叫びたい気分になる。
しかしずっとワーワーとコーラスが響きまくるのを聞いてるうちにストーリーも意味するところもどうでも良いくらいに脳がやられ、意味不明なダンスも観てるうちに笑いが抑えられなくなってくる。
そこには「老ナルキソス」や「ピンぼけシティライツ」に見られた、「人にこの映画をきちんと伝えよう」という意図は感じられない。
自分が描きたい世界に没入してもしかしたらエクスタシィ感じてる監督のヤバさがカット一つ一つから染み出してきている
恐ろしいもの見てしまった
立ち直れるだろうか
と、不安になるが、まあ一応これまでに数々の「訳わかんな凄い映画」を見てきた私ですから、切り替えにそんな時間はかからなかったけど、
優れた自主映画には二つの潮流があると思う
一つは「センターライン」のようにハリウッドリメイクしてほしい真っ当に優れた映画であり、もう一つは世界の誰にも撮り得ない、だからもちろんハリウッドリメイクなどやるだけ無駄な気がするぶっ壊れまくった「ホモソーシャルダンス」のような映画だ。それらは映画そのものだけでなく見る人間の心もぶっ壊す。そんな、世界を一回壊して再構築するような作品は商業、特に我が国の商業映画では滅多に出会えない。(海外だってヴァーホーベンとかアルモドバルとかキム・ギドクとか、ごくわずかではないか)
そんな危険な作品に出会える場を提供する日本の自主映画界はどんどん地下化していくかもしれないが、地下なりのムーブメントを起こし得ると変な希望を抱いたのであった。
そんな地下最深部からせり上がってきたマグマのような映画が「ホモソーシャルダンス」である!
上映後のスタッフキャストの舞台挨拶
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偏愛ビジュアリスト 東海林毅監督作品集
2019年4月 池袋シネマロサにて鑑賞
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アリクイフィルム最新作
「巻貝たちの歓喜」
全力編集中
巻貝たちの歓喜 予告編はこちらをクリック
「老ナルキソス」
「ピンぼけシティライツ」
「23:60」
「ホモソーシャルダンス」
「老ナルキソス」
ゲイでマゾで老人のトラウマを巡る物語。という時点で原作がベストセラーで主人公がジャック・ニコルソンとかモーガン・フリーマンクラスの人でないと誰も見ないような映画だが、もちろん出演者はそんなスターではなく、脚本もオリジナルである。
にもかかわらず、この映画は魅せる。
まさに決して商業ベースでは成立しない企画に、監督が嬉々として取り組んでいる様が眼に浮かぶ。
見るこちらとしても、ほとんど自分と接点のなかった人たちの苦しみ、葛藤、を知る貴重な体験であり、気がつけば痛みに取り憑かれた老人に、厳密に言えばその老人を見る若いホストの男の視点から感情移入させられていく。
感情移入というのはただ奇抜なだけ、あるいは情熱的なだけでは生まれない。
商業映画的なテクニカルな面に支えられている。
オープニングからクライマックスのような男同士のSMプレイをなんの説明もなく始まり、観客はツカミでいきなり未知の世界に連れ込まれる。
オープニングのCGも異常世界への誘いとして効果的。
そこから老人が割と有名な絵本作家であることが明かされ、老人がただのヘンタイではなく、生活があり仕事があり、それなりに社会的評価を得ている人、モンスターでなく私たちと同じ人間であることがわかる。こうして感情移入のハードルを下げていく。
痛みに快感を感じた過去の経緯が回想シーンの挿入で語られるのはテンポよく、測ったわけではないけど10分〜15分くらいで第1のプロットポイント「浮浪者にお金を出してプレイのS役を持ちかける」となって、集中力が切れる前に次の展開への興味を掻き立ててくる。
この浮浪者もその前のシーンに登場しているので唐突感無く、こうした伏線回収も巧みだ。
なお、厳密いうとほんとうのプロットポイントはこの少し後のシーンなのだがネタバレになるので…
そして、事件が起こり死にたくなるほどの惨めな気分、どん底に落ちた主人公が、最後は自分の性癖含めた全てを受け入れる(と、私は解釈)。「主人公が物語の中で成長する」という、脚本の鉄則もきちんと盛り込まれている。
ずっと夜だった舞台がラストで朝になるところも、初期公開版ブレードランナーのような感動を呼ぶのだが、この時間経過も計算してやっているのだろう。
というわけで、この映画は主人公の圧倒的なキャラ立ちに甘えることなく、クレバーといってもいいほどに構成をテクニカルに組み立て、ストーリーテリングを丁寧に行なっている。
ただの変態ジイさんがひたすら痛がりつつイキまくる映画ではなく(それはそれで面白いかもしれないが)、きちんとストーリーで感情を伝えている。
誰もがトラウマや人に言えないアブなさを抱えているから、これは極端にデフォルメされただけで、全ての人間の物語なのだと思わせ、その先に性的マイノリティに対する偏見を捨て違いを認めよう、という社会的メッセージが見え隠れする。
うまい
ひたすらうまい。
数々の映画祭で賞に輝くことも納得の一作であった。
「ピンほけシティライツ」
大府ショートフィルムフェスティバルで鑑賞済みなので、全体雰囲気より細部を楽しんで見ることができた。
とはいえ、ビキニ幽霊の合成に違和感ない。見破れなかった。
今改めて見ると東海林監督作品では異色なくらい、軽くて見た目も後味もソフトタッチ
ビキニ姿の美人幽霊が出っぱなしだから、俗な意味というか、エロい意味で興味を引くのだが、そのくせ見せられるのは脇腹ぷよぷよ男の自慰シーンであるというのは、監督の素晴らしいところだ。
※なお、前にも書きましたが脇腹ぷよぷよ男を演じた星能さんはほんとはしまった筋肉質で、「センターライン」では「ゆとり筋肉」とあだ名をつけられるほどの方で、この作品の時は別作品での体型変化が抜けきれないところを監督にむしろその体型を気に入られて出演したのであります。
写真家と被写体
写真家とモデル
撮るものと撮られるもの
観るものと見られるもの
これは容易に監督と役者の関係に置き換えられるし、深読みすると映画と観客の関係にもなるかもしれない
もしかすると、つまらない商業写真でなんとか食いつないでいる売れないカメラマンは監督なのかもしれない。自伝的要素があり、だから映画の撮影で女優に自分をdisらせたのかもしれない。そう思うとMっ気が東海林監督の作家性かもしれないと思えてきた。
でもそんな個人的思惑がもしあったとしても、スクリーンから客席に向けて投げかけられるビキニ幽霊の罵りの言葉はまっすぐ客席の観客たちに突き刺さる
お前たち、今の自分を見ろ、仕事や家庭で自分に何かを賭けてくれた人が望むような生き方しているか?!と、問われている。
「23:60」
二本わかりやすい映画が続いたところでこの、難解かつヘビーな作品。東海林監督、意地悪だなー
制作年度を見て個人的な感慨にひたる
2007年でしたっけ
実は同時期に私もインターネットでのコミュニケーションをテーマに、ネットの闇に踏み込んだ作品を撮った。「その悩み何バイト?」という作品で、チャットの字幕でストーリーを展開させていくところも似ている。
デジタル字幕によるストーリーテリングは、それより前の「リリィシュシュのすべて」とか「(ハル)」でもやっており、ぶっちゃけ私はそれらのマネの側面もあったのだけど。
ただ誓って言うが「電車男」のパクリではなかった。撮影は「電車男」映画版公開の少し前だし、私はその映画は大嫌いだ。ドラマ版は多少はマシだがやっぱり嫌いだ。原作?は好きですが。
ともかくインターネット上の人付き合いはかくも不確かで実はみんなが自分自身の妄想とコミュニケーションを取っているに過ぎない。そんな仮想世界にふと現実との接点が見えたら、という映画をコメディ風に撮った
東海林監督の作品も狙いは近いものがあるように感じた。
しかし私なんかはもちろん、森田芳光先生や岩井俊二先生なんかと比べても、はるかにダークで、ヘビーなネットの闇を描いていた。
映像の動きは恐ろしく少なく、テンポはきわめて悪く、というより話の動きすらほとんどない。
そこにはネット世界に泥かヘドロのように淀み、停滞したわずかばかりの感情の這いずりがあるのみ。
タイトルの23:60が示すのは、ありえない時間、1日の終わりでも始まりでもない時間、そこでは時の流れすら止まり、人々は成長することなく、ただただ沈殿していき、誰かが好奇心でかき分けた泥のそこから見つかるのをただ待つ。
この作品には「老ナルキソス」で見せた作劇のテクニカルな面などむしろすべて投げ捨て、ネット内の仮想世界の不毛さをとことんまで描き切ることに恍惚を感じている作者の顔が思い浮かぶ
「ホモソーシャルダンス」
4作品の最後を飾るのは奇怪としか言いようのない作品。
上映会終わった直後の感想では一番面白いと思ったのは、つまりお見合いパーティーの第一印象カードに書くなら「老ナルキソス」だったのだが、あのような出来の良い映画は、いつかもっと出来の良い作品によって記憶の隅に追いやられていく宿命を持っている。
だが、「ホモソーシャルダンス」は何十年たっても忘れることはなさそうな強烈すぎる印象を残す。例えば事故で頭を打ってこれまでに見た映画のほとんどが記憶から消えても、「男たちの挽歌2」と「ホモソーシャルダンス」だけは覚えていそうな強さを感じる。
鑑賞後2週間近くたって選ぶとしたら「ホモソーシャルダンス」だ
とにかくこの映画、台詞がなくて、ずっとミュージカル
ミュージカルといってもひたすらスキャットで歌詞はない
高校の学園風景と、物語を表現するダンスシーンとが同時並行で進む
正直、物語はよくわからない。
クラス内の明らかにイケてないグループに属している男子が、学園のアイドルで高嶺の花に恋をして、ラブレターを渡すんだったかデートに誘うんだったか、まあそんな身分違いなことをする。
学園アイドルにはあからさまに侮蔑され、取り巻きの男子たちからも笑われボコられ
で、ここからなんだかわからなくなるのだが、急にアイドルの子がイケてるグループ内でハブられ、イケてない男子が彼女のために奮闘する的な展開で、ストーリーがわかんないからネタバレもないと思うので結末書くと最後に男子とアイドルは結ばれてるっぽいのである。
そして並行して描かれるダンスパートは、男性は全員真っ白な全身タイツで、その服のデザインは明らかに男性器で、1人だけの女性はピンク色のドレスだがそのデザインもまた明らかに女性器なのだ。
そんなチンポコとオマンコが黙々とダンスする様が、やはり黙劇の学園ドラマと並行して描かれる。学園パートの男女もどう見ても学生服着たおっさんだったり、プロレスラーみたいな白人が混ざっていたりで、誰か!俺に何が起こってるのか説明してくれ!と叫びたい気分になる。
しかしずっとワーワーとコーラスが響きまくるのを聞いてるうちにストーリーも意味するところもどうでも良いくらいに脳がやられ、意味不明なダンスも観てるうちに笑いが抑えられなくなってくる。
そこには「老ナルキソス」や「ピンぼけシティライツ」に見られた、「人にこの映画をきちんと伝えよう」という意図は感じられない。
自分が描きたい世界に没入してもしかしたらエクスタシィ感じてる監督のヤバさがカット一つ一つから染み出してきている
恐ろしいもの見てしまった
立ち直れるだろうか
と、不安になるが、まあ一応これまでに数々の「訳わかんな凄い映画」を見てきた私ですから、切り替えにそんな時間はかからなかったけど、
優れた自主映画には二つの潮流があると思う
一つは「センターライン」のようにハリウッドリメイクしてほしい真っ当に優れた映画であり、もう一つは世界の誰にも撮り得ない、だからもちろんハリウッドリメイクなどやるだけ無駄な気がするぶっ壊れまくった「ホモソーシャルダンス」のような映画だ。それらは映画そのものだけでなく見る人間の心もぶっ壊す。そんな、世界を一回壊して再構築するような作品は商業、特に我が国の商業映画では滅多に出会えない。(海外だってヴァーホーベンとかアルモドバルとかキム・ギドクとか、ごくわずかではないか)
そんな危険な作品に出会える場を提供する日本の自主映画界はどんどん地下化していくかもしれないが、地下なりのムーブメントを起こし得ると変な希望を抱いたのであった。
そんな地下最深部からせり上がってきたマグマのような映画が「ホモソーシャルダンス」である!
上映後のスタッフキャストの舞台挨拶
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偏愛ビジュアリスト 東海林毅監督作品集
2019年4月 池袋シネマロサにて鑑賞
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アリクイフィルム最新作
「巻貝たちの歓喜」
全力編集中
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