個人的評価:■■■□□□ (最高:■■■■■■、最低:■□□□□□)
【法廷ものとして「ストーリー」を語るのを拒む意図】
スピルバーグの「アミスタッド」で、アンソニー・ホプキンス演じるアダムズ元大統領が言う。(裁判に勝ちたければ)「面白いストーリーを語るんだ」
法解釈、倫理・道徳・自由・人権に関する議論よりも、感動的な「ストーリー」こそが勝訴をもたらす。感動的なストーリーなんて作れないという弁護士にアダムズは「彼(被告であるアフリカ人奴隷)の人生を語るんだよ」と言う。
(超余談だが、「プライベート・ライアン」でも兄貴の顔を思い出せないというマット・デイモンに、トム・ハンクスが「顔を思い出そうとするな、兄とのエピソードを思い出せ」というように教えるところがあった。まず物語ありきとするスピルバーグの映画姿勢がうかがえる)
さて「アミスタッド」同じく法廷論争をメインにした「明日への遺言」は、スピルバーグとは正反対の法廷戦略をとる。
全員無罪を目的としたアミスタッド裁判と違い、岡田資裁判では被告岡田が自ら有罪・極刑(そして部下を減刑させる)になることを目的としているから、当然戦略も変わる。「ストーリー」を語ろうとせず、戦時下の法解釈と、戦争そのものへの論戦に終始する。
「ストーリー」を語れば、勝てない。殺された米兵のストーリーを検察側が持ち出したら、全員極刑の可能性があるからだ。
【思想という名のやじろべえ】
軍人賛歌で「右」を喜ばせ、反戦思想で「左」を喜ばせる。
全ての部下の責任をとって自ら極刑を望む岡田資の姿を、全軍の長でありながら責任をとらなかったTHE EMPERORへの皮肉ととって左翼心を満足させるもよし。
法廷に掲げられた星条旗とトルーマン、マッカーサーの肖像に向き合いながら、戦中日本を裁こうとする戦勝国主導の裁判に敢然と立ち向かった気高き大日本帝国軍人の姿に右翼心をくすぐられるもよし。
この映画は、右にふらふら、左にふらふらの「思想」という名のやじろべえのバランスを上手に保たせる。
そのやじろべえの中心は、本作のテーマとなる2本の柱、「理想のリーダーシップ像」と、「無差別攻撃へとエスカレートする戦争行為そのものへの疑問」。
【何を感じさせ、何を感じさせないための作劇か】
しかし、注意しなければいけないのは、この映画が巧妙に観客にテーマを信じ込ませるために仕組まれたものであるという点だ。
テーマは素晴らしいが、そのテーマを描く上で不都合なことを全て隠蔽し、好都合なことを強調している。マイケル・ムーアと同じような上手いがずるい映画という気がする。しかもムーアは押し付けがましさをギャグ仕立てにして意図を見え見えにするだけまだ害がない。この映画は害とは言わないが上手すぎて怖いし、それ以上に不都合描写の隠蔽が却って感動を薄めている気がする。
裁判劇という形を取り、映画の観客を裁判の傍聴人の立場に置く本作では、裁判で語られる以上のことを見せないのは当然といえるかもしれない。
しかし、その一方で、岡田中将の監房生活やそこで見せる部下への思いやり、裁判開始前に妻や子供達を弁護士に紹介する姿を見せて、主人公岡田中将への感情移入を導こうとする狙いは明白である。それは映画のテーマ上必要かつ効果的な上手さとして評価もできよう。
ただ何か釈然としないのは、殺された米兵やその遺族たちに全く触れられていないことである。
「無差別殺戮を行った米兵は戦犯だから、略式手続で処罰してもいい」と弁護側が論陣を張り、検察は「では通信兵も戦犯か」と切り返す。原作は読んでいないし実際どんな裁判が行われたかも知らないが、裁判のあの流れなら、検察は処刑された米兵の遺族を証人として引き出し、その人となりを語らせるくらいのことはしたのではないか?
あるいは検察はそうしなかったかもしれない。それでも映画の中で、岡田中将の監房生活など裁判の傍聴人が知り得るはずもない場面を描写するなら、処刑された米兵の遺族も描くのがフェアというものではないだろうか?
【法廷劇の限界】
たとえばこの映画を3時間程度の尺にし、後半は本作どおりの裁判劇でいいとして、前半を戦時の米兵処刑シーンをクライマックスとした劇映画に仕立て、そこで恐怖に震え命乞いする米兵を斬首するシーンなどを見せたとしたらどうなるだろう。
それであっても岡田中将が裁判で見せた気高き精神とリーダーシップの理想像は崩れることはない。
しかし観客の感動のベクトルは少なからず別の方向にぶれるはずだ。単純に岡田中将の美談に酔わせたい意図が狂ってしまう。
しかしそれこそが、戦争の不条理ではないか。
それでもなお、米兵を戦犯として処刑する姿を見せた上で、青年将校の恐怖と後悔、岡田中将の生き方を描いてこそ、厚みのある本物の感動が得られるのではなかろうか。
この映画では裁判で極刑になることを恐れる青年将校は同情すべき対象として写る。もちろん一仕官が軍の決定に背ける筈もなく、だからこそ命令を下した岡田中将が全責任を被ろうとする姿勢は感動できるのだが、現実に人殺しを行ったことを映像で見せ付けられた上での岡田の決断と、戦時下描写を全て排除しダイアローグのみで青年将校の行為が語られた上での岡田の決断とでは感動のボリュームもベクトルも違う。
無差別攻撃の非人道性を糾弾することをテーマの一つとするなら、法廷論争だけでは描ききれないのではないかと思う。
残虐な事実、人間の背負う業としての残忍性を隠蔽し、美しい精神を強調する場面だけを抜き出して観る者の感情を誘導する。
日本人視点に偏って物語を追うのが悪いとは言わないが、法廷劇仕立てで岡田中将のみを追うこの映画は、いいテーマであるにも関わらず薄っぺらなただの美談で終わってしまっている気がする。もともと薄っぺらな美談を作りたかったのなら、その目的は充分に達成されていると言えるが・・・
【スタッフ・キャストについて】
技術的には見事である。
法廷物といえば、延々アップの切り替えしばかりで単調となる作品が多い中、本作では証言台の人間の背後に、傍聴人あるいは弁護人、あるいは検察といった人々を効果的に映しこみ、カットごとの情報量を増やして2時間程度の裁判劇に厚みを持たせる。傍聴人のアップをことさら映したりせず、藤田まことらの背景に写る富司純子らの表情をもって証言者の台詞に深みを持たせる。もちろん寄るべきところは寄ってエモーショナルな効果を高める。
窓から差し込む夕陽のような、指向性のつよい赤みがかった照明で陰影を強調しておいて、「それでは本日はもう遅いので・・・」と語らせ、時間経過と裁判の長い論戦の疲労感を表現したりと、さすがに黒澤組だった方々は映像も照明もカット割りも見事だ。
藤田まこと、富司純子らの芸達者ぶりも充分に堪能できる。
【つまるところ】
上手くて面白くてためになる映画であることは間違いないが、それだけで終わっているのが残念だ。
********
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
【法廷ものとして「ストーリー」を語るのを拒む意図】
スピルバーグの「アミスタッド」で、アンソニー・ホプキンス演じるアダムズ元大統領が言う。(裁判に勝ちたければ)「面白いストーリーを語るんだ」
法解釈、倫理・道徳・自由・人権に関する議論よりも、感動的な「ストーリー」こそが勝訴をもたらす。感動的なストーリーなんて作れないという弁護士にアダムズは「彼(被告であるアフリカ人奴隷)の人生を語るんだよ」と言う。
(超余談だが、「プライベート・ライアン」でも兄貴の顔を思い出せないというマット・デイモンに、トム・ハンクスが「顔を思い出そうとするな、兄とのエピソードを思い出せ」というように教えるところがあった。まず物語ありきとするスピルバーグの映画姿勢がうかがえる)
さて「アミスタッド」同じく法廷論争をメインにした「明日への遺言」は、スピルバーグとは正反対の法廷戦略をとる。
全員無罪を目的としたアミスタッド裁判と違い、岡田資裁判では被告岡田が自ら有罪・極刑(そして部下を減刑させる)になることを目的としているから、当然戦略も変わる。「ストーリー」を語ろうとせず、戦時下の法解釈と、戦争そのものへの論戦に終始する。
「ストーリー」を語れば、勝てない。殺された米兵のストーリーを検察側が持ち出したら、全員極刑の可能性があるからだ。
【思想という名のやじろべえ】
軍人賛歌で「右」を喜ばせ、反戦思想で「左」を喜ばせる。
全ての部下の責任をとって自ら極刑を望む岡田資の姿を、全軍の長でありながら責任をとらなかったTHE EMPERORへの皮肉ととって左翼心を満足させるもよし。
法廷に掲げられた星条旗とトルーマン、マッカーサーの肖像に向き合いながら、戦中日本を裁こうとする戦勝国主導の裁判に敢然と立ち向かった気高き大日本帝国軍人の姿に右翼心をくすぐられるもよし。
この映画は、右にふらふら、左にふらふらの「思想」という名のやじろべえのバランスを上手に保たせる。
そのやじろべえの中心は、本作のテーマとなる2本の柱、「理想のリーダーシップ像」と、「無差別攻撃へとエスカレートする戦争行為そのものへの疑問」。
【何を感じさせ、何を感じさせないための作劇か】
しかし、注意しなければいけないのは、この映画が巧妙に観客にテーマを信じ込ませるために仕組まれたものであるという点だ。
テーマは素晴らしいが、そのテーマを描く上で不都合なことを全て隠蔽し、好都合なことを強調している。マイケル・ムーアと同じような上手いがずるい映画という気がする。しかもムーアは押し付けがましさをギャグ仕立てにして意図を見え見えにするだけまだ害がない。この映画は害とは言わないが上手すぎて怖いし、それ以上に不都合描写の隠蔽が却って感動を薄めている気がする。
裁判劇という形を取り、映画の観客を裁判の傍聴人の立場に置く本作では、裁判で語られる以上のことを見せないのは当然といえるかもしれない。
しかし、その一方で、岡田中将の監房生活やそこで見せる部下への思いやり、裁判開始前に妻や子供達を弁護士に紹介する姿を見せて、主人公岡田中将への感情移入を導こうとする狙いは明白である。それは映画のテーマ上必要かつ効果的な上手さとして評価もできよう。
ただ何か釈然としないのは、殺された米兵やその遺族たちに全く触れられていないことである。
「無差別殺戮を行った米兵は戦犯だから、略式手続で処罰してもいい」と弁護側が論陣を張り、検察は「では通信兵も戦犯か」と切り返す。原作は読んでいないし実際どんな裁判が行われたかも知らないが、裁判のあの流れなら、検察は処刑された米兵の遺族を証人として引き出し、その人となりを語らせるくらいのことはしたのではないか?
あるいは検察はそうしなかったかもしれない。それでも映画の中で、岡田中将の監房生活など裁判の傍聴人が知り得るはずもない場面を描写するなら、処刑された米兵の遺族も描くのがフェアというものではないだろうか?
【法廷劇の限界】
たとえばこの映画を3時間程度の尺にし、後半は本作どおりの裁判劇でいいとして、前半を戦時の米兵処刑シーンをクライマックスとした劇映画に仕立て、そこで恐怖に震え命乞いする米兵を斬首するシーンなどを見せたとしたらどうなるだろう。
それであっても岡田中将が裁判で見せた気高き精神とリーダーシップの理想像は崩れることはない。
しかし観客の感動のベクトルは少なからず別の方向にぶれるはずだ。単純に岡田中将の美談に酔わせたい意図が狂ってしまう。
しかしそれこそが、戦争の不条理ではないか。
それでもなお、米兵を戦犯として処刑する姿を見せた上で、青年将校の恐怖と後悔、岡田中将の生き方を描いてこそ、厚みのある本物の感動が得られるのではなかろうか。
この映画では裁判で極刑になることを恐れる青年将校は同情すべき対象として写る。もちろん一仕官が軍の決定に背ける筈もなく、だからこそ命令を下した岡田中将が全責任を被ろうとする姿勢は感動できるのだが、現実に人殺しを行ったことを映像で見せ付けられた上での岡田の決断と、戦時下描写を全て排除しダイアローグのみで青年将校の行為が語られた上での岡田の決断とでは感動のボリュームもベクトルも違う。
無差別攻撃の非人道性を糾弾することをテーマの一つとするなら、法廷論争だけでは描ききれないのではないかと思う。
残虐な事実、人間の背負う業としての残忍性を隠蔽し、美しい精神を強調する場面だけを抜き出して観る者の感情を誘導する。
日本人視点に偏って物語を追うのが悪いとは言わないが、法廷劇仕立てで岡田中将のみを追うこの映画は、いいテーマであるにも関わらず薄っぺらなただの美談で終わってしまっている気がする。もともと薄っぺらな美談を作りたかったのなら、その目的は充分に達成されていると言えるが・・・
【スタッフ・キャストについて】
技術的には見事である。
法廷物といえば、延々アップの切り替えしばかりで単調となる作品が多い中、本作では証言台の人間の背後に、傍聴人あるいは弁護人、あるいは検察といった人々を効果的に映しこみ、カットごとの情報量を増やして2時間程度の裁判劇に厚みを持たせる。傍聴人のアップをことさら映したりせず、藤田まことらの背景に写る富司純子らの表情をもって証言者の台詞に深みを持たせる。もちろん寄るべきところは寄ってエモーショナルな効果を高める。
窓から差し込む夕陽のような、指向性のつよい赤みがかった照明で陰影を強調しておいて、「それでは本日はもう遅いので・・・」と語らせ、時間経過と裁判の長い論戦の疲労感を表現したりと、さすがに黒澤組だった方々は映像も照明もカット割りも見事だ。
藤田まこと、富司純子らの芸達者ぶりも充分に堪能できる。
【つまるところ】
上手くて面白くてためになる映画であることは間違いないが、それだけで終わっているのが残念だ。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
この映画が論理的に破綻していることを指摘されている方もいらっしゃいました。
処刑された米兵も上の命令に従って投下したのだから、
岡田資中将の論旨でいけば、
その一兵卒を斬首するのはおかしいというわけです。
yunfatさんのレビューはさらにそれに加えて
「映画」というものの本質を考えさせてくれました。
>戦時の米兵処刑シーンをクライマックスとした劇映画に仕立て、そこで恐怖に震え命乞いする米兵を斬首するシーンなどを見せたとしたら----
イタリアのネオリアリズムが
作家の主張を恣意的に入れるモンタージュを極力排し、
あえて引きの画面で客観的に撮っていたという
映画史的な記憶を呼び起こされました。
うわーーー
イタリアン・ネオレアリズモーーー
ごめんなさい、私イギリス映画とベルイマンを除いては、ヨーロッバクラシックに弱いんですうう
ロッセリーニとかは微妙に観てますけど(バーグマンの出てた映画だからネオレアリズモ全盛からだいぶ後の映画だと思います??)
ネオレアリズモ以降のフェリーニとかはそりゃ、観てますけど
これ絶対観とけーってのありましたら教えてくださいませ・・・
正式にはイタリアン・ネオレアリズモ。
昔々読んだ映画本の記憶からいけば、
必ず出てくるのが次の4本。
ヴィットリオ・デ・シーカ『靴みがき』『自転車泥棒』
ロッセリーニ『戦火のかなた』『無防備都市』
このあたりがよく特徴として引き合いに出されるようです。
ただ、今回書いた文脈にあわせての鑑賞となると、
叙情性のあるデ・シーカよりも
ロッセリーニの方がいいかもしれないです。
でも、ぼくはこの時代よりも
もっと後の時代、60年代以降のイタリア映画。
フェリーニ、ヴィスコンティなどの方が
デカダンの香りが漂っていて好きです。
あっ、マウロ・ボロニー二『わが青春のフロレンス 』も好きだな。
ではバーグマンをメロメロにしたとかいうロッセリーニを観てみようかと思います。
ご教授ありがとうございます・・・
観たら感想書きますね
岡田中将は、まことの姿を語れば、どうなるかということをすべて把握していたのでしょうね。
こういうすごい軍人もいたんだということに一筋の光明を見ました。
その死に様を撮る、というのがゆるぎないテーマだったのでしょうから、
>上手くて面白くてためになる映画であることは間違いないが、それだけで終わっているのが残念だ。
なんでしょうね。
・・・イタリア何とか・・難しい。。。
死に様を描くなら、もっとしっかり生き様を描いてほしかったざます。
法廷劇としては見応えありましたし、部下をかばって死ぬ姿にも、部下に責任押し付けるリーダーの元で働いた経験から、羨ましいなと思いました。
でも、要約すると「忙しかったのでさっさと殺しました」という部分をきちっと描いて欲しかったなあと思います。
こうした映画作品は、必ずどこかで、偏向します。
完全なバランスのとれた客観性は、もちろんありえません。
問題なのは、制作する側が、その偏向を意識しているかどうか、その偏向は、ミスリードではなく、ひとつの解釈として(つまり監督の視点として)、成り立っているかどうかだと、思います。
偏向を映画の力にできれば何も問題はないのですが、本作の場合むしろ偏向が退屈さを生んだとみています。
難しい題材に挑んだ姿勢は評価したいですけどね