薄れゆく存在の確かさを、そこにある肉体の感覚でなんとか繋ぎとめようとする男の悲しい哀しい物語。全ての登場人物と、全ての観客を不幸に突き落とす傑作「バーニング劇場版」をぜひ劇場で。
本当にふさわしいタイトルはチョン・ジョンソ劇場版だけど

イ・チャンドンという人の作家性について語れるほど沢山は観ていない。他には「ペパーミントキャンディ」と「オアシス」くらい。けれど「オアシス」は私が2000年代外国映画ベストテンの3位に挙げたくらい好きで、最強究極の恋愛映画だった。
で今回「バーニング劇場版」観てどハマりしてしまい、やっぱりこの監督の作品とはウマが合いそうだと思った。
村上春樹の原作は未読。春樹もそんなに沢山読んでないのだけど、勝手なイメージで「喪失感」の作品と思っている。そんな"喪失"村上の映画化作品も喪失系映画ばかりで、「トニー滝谷」大好き、「ノルウェーの森」爆笑、あれ?こんなもんかで、「バーニング劇場版」だけど、喪失感以前に手に入れてもいない、ある意味勘違い男の悶々日記でとても面白かった。
主人公ジョンス(ユ・アイン)とヒロイン、ヘミ(チョン・ジョンソ)の関係は一回セックスをしただけ(村上文学にそういえばよく出てくる、すぐやらせてくれる女)。他に2人には共有する思い出がない。でも主人公は自分をヒロインの彼氏であると認識する。
明け方、3人で大麻やって気分良くなってた時にヘミは上半身裸になって2人の男の前で踊り始める。それはとても美しい場面だった。またヘミのアフリカ旅行での思い出話ともリンクし、このまま世界から消えていくことをも示唆する物語のターニングポイントとしてこれ以上ないほど最高の場面だった。ちょい話逸れたが主人公はそんな裸で踊るヘミに対し、もう1人の男ベン(スティーブン・ユァン→松本映画祭プロジェクトのO野さんに似てると思うという内輪ウケネタ)の存在を意識して、「人前で裸になるのはいけないよ、そんなの娼婦だよ」などと言う。前半は常識論だが後半は主観の押し付けだ。なんにせよなんで一回セックスしただけのあんたにそんなこと言われなあかんねんとヘミが腹を立てただろうことは容易に予想がつく。
そう思うと最近ツイッターで読んだこんなやりとりを思い出し、やってることはバーニング劇場版ってよりこのツイートの劇場版くらいかもしれない。


ともかくヘミの美しき裸踊り場面から、物語は不在となるヒロインをめぐる男の悶々と妄想と嫉妬と狂気へと舵を切る。
イミを演じたチョン・ジョンソちゃんが猛烈可愛くて永遠に見ていたいくらいで、だから彼女が現れなくなり、ほぼ男2人だけとなる後半は絵面的には興味をひかないのだが、ヒロインがそれだけ可愛かったからこそ、後半の男の悶々に説得力が増し、感情移入が容易になる。

ジョンスはヘミを追い求めるが彼女は元から世界に存在しなかったかのように痕跡はない。ジョンスがヘミがいたはずの部屋で、あるはずのない彼女の残り香を感じながらマスをかくの、見ていて痛いのだが、わかると思ってしまう。これをわかるというと、また友達を沢山失いそうな気がするが、ヘミとの思い出が希薄だからこそ、ヘミとの存在しない恋愛の記憶にすがり、肉体的な感覚で自分を癒そうとするのだ。男って。と言い切るとこれも性差別かもしれないけど。だから村上流都合のいい女はむしろ男の哀れの象徴なのだ。
そういえば、前半でヘミはジョンスも忘れていた数々の子供時代の2人の思い出を語る。思い出を捏造して私たちは一度セックスしただけの関係ではないと信じ込ませるように。後半で彼女の語った思い出が次々と嘘か間違いか思い違いか、信憑性が揺らいで行くにつれ、ジョンスの心は支えを失っていく。
思えば鑑賞時にはやや意味不明だった母との再会シーン。突如現れた母だけはヘミの話を肯定してくれる。男と女の物語ではなく、男にとっての女の物語なのだ。消えかけるヘミの存在をかろうじて、母や、前半では不在だったネコがつなぎとめる。しかしそれはジョンスにとって本当に良かったのか。ヘミという女は最初からいなかったと信じ込んだ方が、あの悲しく苦しいラストには、ならなかったに違いない。
そんなこんなで薄れゆく存在の確かさを、そこにある肉体の感覚でなんとか繋ぎとめようとする男の悲しい哀しい物語。全ての登場人物と、全ての観客を不幸に突き落とす傑作「バーニング劇場版」をぜひ劇場で。やっば劇場版いらねーよ、

あ、肝心のバーニング行為についてなんも語ってないが、まあいいや。本当にふさわしいタイトルは「チョン・ジョンソ劇場版」だよ
「バーニング劇場版」
監督:イ・チャンドン
脚本:オ・ジョンミ、イ・チャンドン
原作:村上春樹 「納屋を焼く」
撮影:ホン・ギョンピョ
出演:ユ・アイン、スティーブン・ユァン、チョン・ジョンソ
2019年2月 シャンテシネ日比谷にて鑑賞