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ROMA アカデミー賞直前滑り込み鑑賞の感想

2019-02-25 10:38:57 | 映評 2013~
「ROMA」監督:アルフォンソ・キュアロン

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アカデミー賞を前にNetflixでROMAを見る

この最初の1行に映画史のターニングポイントになるかもしれないこの映画を取り巻く状況が込められている

キュアロンは「ゼロ・グラビティ」で映画における宇宙空間の表現方法のデフォルトをアップデートさせた。かなり明確なエポックメイキング作となったのだけど、ROMAもある意味で映画賞という歴史では重要な意味を持つ作品になるかもしれない。とは言えこれはキュアロンの功績ばかりではないのだけど

「ROMA」はネット配信専用映画だが、ロサンゼルスで一応劇場公開する事でアカデミー賞のノミネート 資格を得ている
ネットフリックスはカンヌにも出品してパルムドールを狙うなどしている
Netflixの作品配信は映画界の興行制度を根本からくつがえすようなやり方であるが、その割には映画界の既存の権威に乗っかろうとしている。映画界から見れば自分らを利用しながら潰しにかかっているようで、そうしたやり方が完全部外者である私の目から見ても何となく嫌な印象がある。
「劇場公開を目指さない作品は映画じゃない」的な批判は、前々回のカンヌで審査員長のペドロ・アルモドバルが発言して物議を醸した。(審査員の1人として同席していたウィル・スミスは自身が配信作品で主演していることもあって、Netflixを擁護、ただしアルモドバルの考えもあっても良いよ色んな考え方を認めなきゃねと大人対応)
同様な発言はスピルバーグもしており、映画人として目指すべきは劇場公開であるべきだという趣旨のことを言っている。私の印象だけどスピルバーグはネット配信目的の制作を批判しているというよりは、既存の映画界にこのままじゃマズイぞと警鐘を鳴らすのが目的じゃないかと思う。
一方でキュアロンやポン・ジュノなど現代の巨匠はNetflixなど配信映画を手がける。
キュアロンは、メキシコが舞台で非英語作品で家政婦が主人公の地味な話の制作にGOを出すところなんて映画界にはないよと、そんな事を言っている。キュアロンがNetflixを利用して自分の作家性を存分に発揮した作品を作ったように見える。
そんな次第でこの映画は劇場公開はされたとは言え、評価する人の大半は配信で観たのだろう。(もっともこれまでのアカデミー賞でも会員に候補作のビデオやDVDが送られているらしいので、みんなが劇場で観たわけではないという状況は変わらないのかもしれない)
「ROMA」がアカデミー賞の作品賞や監督賞を取れば、史上もっともチケットの売れなかったアカデミー受賞作となるかもしれない。多くの映画賞や映画祭が「劇場公開された作品であること」「劇場公開を前提とした作品であること」という規定を設けている。日本でもキネマ旬報ベストテンは東京で1週間以上劇場公開された事が評価資格とされている。
こうした映画賞や映画祭にとってのターニングポイントになるかもしれない。

私のような映画館にかけたいのは山々だが、そうもいかない自主映画人にとっては、作品の公開、評価、あるいはビジネス的な意味での、プラットホームが増えることは喜ばしいのだ。でも配信専用映画って一昔前の「Vシネ」みたいなもんとも言えて、Vシネが映画より面白くなるのが当たり前の世界になっていくのは何となく寂しい気もする。劇場公開しない=低予算作品、というこれまでの常識もNetflixは破ろうとしているから、古い考えはどんどん捨てて変えていかなくてはならないのだろうけど。(ちなみにVシネだって石井隆監督の「黒の天使」シリーズとかものすごく面白いものもあったりするから、否定するつもりもない)

そうした面からの「ROMA」についてさらに深く掘り下げる話はもっと詳しい方々に譲ることにして、ようやく作品の批評・感想へと

キュアロンと言うと、気がつけばブレードランナー並みにマニアックなファン層を作っている「トゥモローワールド」や、宇宙が舞台の映画の表現方法をアップデートした「ゼログラビティ」で評価されたSFの人という印象。両作ともエマニュエル・ルベツキのカメラによる手持ち風ワンカット風映像に度肝抜かされた、スペクタクルな演出が印象的で、「娯楽作家!!」と思っていたのに、急にこんなフェリーニみたいな、あるいは侯孝賢みたいな映画撮るなんてびっくりだよ。
今回は監督 兼 撮影(!)としてクレジットされており、「ルベツキのすごいカメラワーク」みたいなのは出てこない。
とは言えドヤ顔せずにすごい技術をシレッと使っているようなところもまたすごい。
クライマックスの海辺のシーン。あんな大波にリアルに子供ブッ込むなんてこと絶対にしないだろうから、多分スタジオでクロマキーで撮っているのだと思うけど、そうに違いないけど、それにしても特撮感が全然無くってすごすぎる。
ルベツキがいないからトリッキーなカメラワークは無いとは言ったが、様々なシーンをカメラのパンかドリー移動(ドリーといっても左右移動だけの横スクロールゲーム風のカメラワーク)だけで、しかもパンのスピードもドリーのスピードも機械でやったかのように(実際機械でやったんだろうけど)一定していて、それでいて俳優の演技に段取り感が全くない。これは実はかなりトリッキーな撮り方なのではないか?
日常生活でこんな等速運動あり得ないのに、極めて自然にそれを見せてしまう。いったいどうやって撮ったのか、地味だけど恐ろしいくらいのメカもソフトも、演出力も演技力もあれこれ全部ひっくるめた技術がすごい映画だった。

冒頭、固定ショットの長回し。床のタイルに流される洗剤混じりの水。実は犬のウンコまみれの玄関口を洗っているのだが、映画の物語全体を象徴するような素晴らしいオープニングだ。
見栄を張ったような馬鹿でかい高級そうなフォードの車。車幅ギリギリの玄関口。犬のウンコがやたらと散らばっている。
この家族の、無理して、良い身分を装っていることを象徴する玄関で、ウンコの掃除をする家政婦はボロが出ないように取り繕っている。

映画は明確なストーリーラインをあえて語らないように淡々と進む。タイトルの「ROMA」はメキシコにあるそう言う名の街らしいのだが、「パリ・テキサス」ならまだそういう説明があったのに、本作では街の名も言わない。
1971年のある日の午後5時ごろ大変な暴動があったらしいことが描かれるがそれについても何も説明的なことは言わない。
モノクロの美しい映像。異様に抜けのいいロケーション映像も印象深く、山火事での化け物コスプレとセレブっぽい人たちと階層の低そうな人たちが同時に写っている何とも言えずシュールな絵とかも素晴らしい。デモのモブシーンとか、街中の絵とか、ものすごく金かかっているけど、これ見よがしに映さないところもよい。ドヤ顔しない感は同じメキシコ系でもイニャリトゥと随分違うと思ってしまう。ゼログラはどうだすごいだろ映画だったけど。そんなゼログラっぽい劇中映画はユーモアの薄いこの映画の数少ない爆笑ポイント。あんな映画71年になかったよなー。「2001年」が68年で、「スターウォーズ」が77年でしょ。(と思ったらあれは69年の「宇宙からの脱出」という作品らしい。監督はジョン・スタージェスだって)
ちなみにその頃の日本ではキラアク星人が怪獣島の怪獣たちとキングギドラを操ってミニチュアのニューヨークに仕掛けた火薬が火を噴いてた頃である。

暴動シーンが数少ないドラマチックな場面。そんなことってあるのか?あるんだな、悲しいな、というまさかの展開を、見せながらその件に関しては、それ以上掘り下げないキュアロン。
そして暴動のために起こるもっと悲しい別れのシーンへとつなげる。この辺は脚本構成の妙を感じる。その後の海辺のシーンで引きの絵でありながら気持ちが張り詰めているのも、ここでの感情のタメが伏線として効いているからで、けっして絵の美しさだけとか、雰囲気映像だけの作品ではなく、そこには演出と一体化した脚本の巧さがあるからだ。すごいね、キュアロン、やっぱり巨匠だね。

さてアカデミー賞はどうなりますか?!
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