2018年3月11日に野川のバックグランドとなる武蔵国分寺のウォーキングに始まった野川下りは、一年を経て多摩川合流点に達することができました。初回に引用した国分寺市観光協会のページを再度引用し、「青龍」の意味を復習しましょう。
741年、聖武天皇の命により全国に国分寺が建立される際、武蔵国の国府(現在の府中市)の近くに良い土地はないかと選ばれたのが現在の国分寺市です。なぜ選ばれたのか?それは、帰国した遣唐使から伝えられた「四神相応(ししんそうおう)の地」の考えに基づきます。「四神相応」の「四神」とは、東西南北の四方を守護するとされる聖獣のことで
青龍(せいりゅう)
白虎(びゃっこ)
朱雀(すざく)
玄武(げんぶ)
のことを指し、それぞれ特徴のある土地に棲むと言われています。その特徴を説明すると
東:青龍…豊かな川の流れがある
西:白虎…大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀…広大な平野や海があり開けている
北:玄武…山や丘陵がある
四神相応の地というのは、古代中国に始まった風水における四聖獣(四神)が東西南北の各方向の地形とフィットする地のことです。国分寺は、東に清流があり、西には当時の大動脈といえる東山道武蔵路、南には広大な平野が広がり、北には国分寺崖線がそびえるという理想の地相であったのです。鎌倉時代末期、国分寺は新田義貞によって残念ながら燃やされてしまったと伝えられていますが、礎石の跡などは残っており、周辺には真姿の池やお鷹の道など、東京都とは思えないのどかな風景が残っています。都会と閑静な佇まいの融合。是非一度、国分寺の地にお立ち寄りください。
井の頭線のさりげないおしゃれ
井の頭線渋谷駅改札に集合し渋谷→井の頭線→下北沢→小田急線各駅停車→喜多見と移動しウォーキングスタートです。井の頭線車内は桜の模様の装飾がされていました。
セブンイレブンの配達車
滝下橋緑道
次太夫堀(六郷用水)の説明
喜多見駅と世田谷通りを繋ぐ商店街には丸屋という古くからありそうな佇まいの蕎麦屋さんがあり、昔からある道なのでしょう。写真に撮り損ねましたが、この蕎麦屋さんは評判がいいようです。滝下橋緑道で場所をお借りしてストレッチ、ウォーキング開始です。次太夫堀も今回のウォーキングのテーマの一つです。
ユキヤナギ
次太夫堀公園
レンゲ
野川沿いに歩き始めてしばらくすると次太夫堀公園があります。下見の時には気づかなかったのですが、田んぼにはレンゲの種がまかれているようで、4月末には見事な蓮華畑になりそうです。コースを復習することはあまりないのですが、レンゲの時期にまた訪れたいと思います。公園について世田谷区のページから引用します。
施設の概要
世田谷の農村風景の典型的なイメージと昔ながらの小川を復元したのが次大夫掘公園。公園名は小泉次大夫が昔この地域の用水を確保するために作った堀の名にちなんでつけられました。
面積は約36,000平方メートルで650メートルの水路を有し、その水路に沿って、当時の古民家や水田(1,400平方メートル)が配置されています。水路や池には、コイ・メダカ・アメンボもたくさん生息しており、コサギがきてドジョウをついばむ姿も見られます。
水田では、毎年稲作が行われ、近隣の保育園や小学生達による田植えや稲刈りが、東京中央農協の協力のもと行われています。また、多摩堤通りをトンネルで横断できるようになっており、パズルトンネル(卵から鳥が生まれてくるパズルです)と呼ばれています。
民家園
次大夫堀は、江戸の初期、小泉次大夫の指導で開削された農業用水(六郷用水)の別名です。喜多見あたりでは、半ば埋められごみ捨て場のようになってしまいましたが、野川から取水して昔ながらのきれいな流れを復元しました。本物の水田をつくり、そこに江戸時代後期の古民家と土蔵、納屋、消防小屋などを移築復元したのがこの民家園です。昔の世田谷の農家の暮らしをまるごと復元しています。
次太夫堀についてWikipediaの六郷用水の項を引用します。
多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。 延長は23kmで、49の村、約1500haに、主に農業用水として水を供給した。 多摩川の対岸の川崎市を流れる二ヶ領用水(同じく小泉次太夫が建設指揮監督)と合わせて四ヶ領用水(よんかりょうようすい)とも呼ばれる。
1597年からの14年かけて用水が開削された。開通後100年を経過したころ荒廃したが、1725年に代官田中丘隅(休愚)の手により改修された。この改修は、二ヶ領用水と並行して行われた。この改修後、世田谷領でも六郷用水が利用できるようになった。
廃止されたのは1945年である。宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となった。流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ向きもある。一部区間(世田谷区岡本~大田区田園調布)は丸子川として残っている。また、世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園となっている。大田区内では、中原街道から東の東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近に湧水を使って用水路が再現されていて、残りは歩道になっている。
現在、用水の跡地は、道路、緑道(遊歩道)、次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もある。 なお、六郷用水は既存の多くの河川と分合流あるいは交差していた。
次太夫堀公園民家園
消防小屋と火の見櫓
民家園はとても面白い場所でした。建物を保存してあるだけではなく、活用しているので生活感が感じられます。むかしの消防はこんな粗末な装備なので、延焼を食い止めるだけでも命がけだったでしょう。
旧城田家住宅主屋
スイセン
作業場
フクジュソウ
フキノトウ
オオイヌノフグリ
開園記念碑
枯葉を集めたところにフクジュソウやフキノトウが出ていて、里山といった風情です。大きなのこぎりで丸太を切っていましたが、今ならチェーンソーの出番ですね。
庚申塔
庚申塔
御嶽山
大口真神
からす団扇
庚申塔はこのブログでもたびたび取り上げているのでお馴染みですね。御嶽山や大口真神はあまりなじみがなかったので調べてみました。小学生の頃何度かハイキングに行った青梅の先の御嶽山でした。大口真神(おおぐちまかみ)について、御岳山神社のホームページから引用できないので、リンクを貼っておきます。Wikipediaから真神の項目を引用します。
真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来、聖獣として崇拝されてきた。また、猪や鹿から作物を守護するものとされた。人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。
大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化された。『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)と記され、少なくとも(大和国風土記の逸文と合わせ)8世紀からみられる。この「大口の真神原」には後に飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅があったとされ、用明天皇の代に蘇我馬子が寺の建立を発願、崇峻天皇の代に館を廃し法興寺(後の飛鳥寺)の造営が始まったとされる。
現在も埼玉県秩父地方の神社を中心に、狼が描かれた神札(お札)が頒布され、信仰を集めている。このすぐ南の武蔵御岳山上の武蔵御嶽神社には『日本書紀』の記述に基づく「おいぬ様」(または「お犬さま」)の伝説があり、日本武尊の東征の折、邪神が大鹿の姿で現れたのを野蒜で退治したが、その時に大山鳴動して霧に巻かれて道に迷ったのを、そこに忽然と白い狼が表れて道案内をして、無事に日本武尊軍を無事に導いたので、尊は「大口真神としてそこに留まるように。」といったという。大口真神は江戸時代の天保年間ころより盗難除け・魔物除けとしての信仰が盛んになり、本殿のおいぬ様の狛犬はブロンズ製(1807年の作)で、本殿前の像は北村西望の作(1985年奉納)である。
からす団扇については、大國魂神社のページからすもも祭りを引用します。
すもも祭(7月20日)
夏の風物詩として、近郷近在の人々より親しまれている『すもも祭』は毎年7月20日に斎行されます。その起源は源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こりました。その際神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りの名前の由来です。
安倍氏征伐
前九年の役(1051~1062)奥州平定(安倍頼時と貞任・宗任親子)のため源頼義・義家父子が朝廷より派遣された。朝廷の東国平定の足がかりとなる。
当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しています。この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねます。
からす扇・からす団扇」の起源
「からす扇・からす団扇」の起源は、五穀豊穣・悪疫防除の意味からで、その扇や団扇で扇ぐと害虫は駆除され病気は平癒する、という深い信仰があるからである。そのいわれは今から約1200年前、大同2年(807年)に「古語拾遺」の神話から出ており、内容は次のとおりである。
神代の昔、大地主神が田植えをなさる時に、早乙女や田夫らを労うために牛肉をご馳走した。 ところが御歳神の御子がそれをご覧になって家に帰ってそのことを御父にお告げになった。 御歳神は、これをお聞きになり非常にご立腹なされて、田にイナゴを放ち、苗の葉をことごとく 喰い枯らせてしまった。大地主神は大変に驚かれて、何か神の崇りであろうといって卜者を呼んで 占わせてみたところが「これは御歳神の崇りであるから宜しく白猪、白馬、白鶏を献じて お詫びするのがよろしい、されば怒りも解けるであろう」とお告げがあったので、その通りに したところお怒りが解けたばかりではなく、蝗の害を駆除する方法も、いろいろと教えて下された。その方法の中に「烏扇をもって扇げ」とお教えなさったのである。
旧加藤家住宅主屋
糸車
菱餅かな?
旧秋山家住宅土蔵
民家園は面白かったです。外国人を連れてきても喜ばれるかも。
多摩堤通りの下をくぐる
ツクシ
次太夫堀公園は多摩堤通りの下を抜けて、再び野川へ戻ります。公園に引き入れられた水も野川へ戻ります。
外環道工事現場
きしべの路「大正橋」
きしべの路「新井橋」
外環と東名のジャンクション工事現場
テニスコート入口
カワヅザクラ
東名高速まで大規模な工事が行われています。これが開通すると我々にとっても関越道が近くなり、東北道への選択肢が増えることになります。砧にある目黒区のテニスコートは何度か通いましたが、車で訪れていたので印象が違います。歩いてきたこの場所に見慣れた看板があり写真に撮ってみました。今日地図で確認をして、車で通っていた場所と、野川沿いを歩いてきたときに感じたギャップを確認しました。この看板30年前から変わってないかもしれません。
カワセミ
野川にカワセミはいるだろうと思って目を凝らしてみていたらようやく見つけました。この場所には結構長い時間とまっていて、うるさい集団が来ても逃げませんでした。この後飛び去るのですが飛んでいるときの色がきれいです。そんな写真を撮ろうと思うとお高いレンズをそろえなくてはならないので、ちょっと無理ですね。遠景はコンデジのズームを最大にしたもの。拡大写真はその一部を切り取ったものになります。スマホでも撮ったのですが、コンデジの写真の方がきれいでした。
仙川合流点
オオバン
マメザクラかな?
野川水道橋
水道関連遺産
水道橋の下に一時水道の本管が通っており、水道管が地下に埋設された今でも水道橋という名前が残されています。竣工時は澁谷町水道の施設でした。多摩川の水を砧下浄水場で飲料水へと浄化し、ポンプで駒沢給水塔へ送水し高度差を生かして渋谷方面に上水道を提供しており、目黒村も給水地域に含まれていました。駒沢給水所は2016年10月の蛇崩川馬事公苑コース 約7Kmで訪れているので、覚えている会員がいることでしょう。
武蔵工大グランドわきのミモザ
種類不明のサクラ
現在東京都市大学と名称が変わっていますが、武蔵工大の方がなじみがあります。東京都市大学と首都大学東京(旧都立大学)が区別しにくいですね。
多摩川河川敷
ナズナとヒメオドリコソウ
多摩川サミットの碑
カワヅザクラ
ホトケノザ
オオイヌノフグリ
野川にかかる最後の橋、兵庫橋
野川多摩川合流点
下見の時にはコヤマドライビングスクール方面へ行ってしまったので、多摩川河川敷に出ることはありませんでした。河川改修が行われて、私が持っている地図とはずいぶん変わっているのです。多摩川河川敷はテニスコートなどもありますが、草野球のメッカという感じです。
暖かい一日だったのですが、夕方になり雲って寒くなるとオオイヌノフグリも花を閉じています。兵庫島でストレッチをして解散しました。
この日は大相撲春場所の初日だったので、急いでONCEへ移動して大画面で相撲を楽しみました。みんなでワイワイ言いながら見るスポーツは面白いですね。そんなことをいいながら、大いに酔っぱらいました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
741年、聖武天皇の命により全国に国分寺が建立される際、武蔵国の国府(現在の府中市)の近くに良い土地はないかと選ばれたのが現在の国分寺市です。なぜ選ばれたのか?それは、帰国した遣唐使から伝えられた「四神相応(ししんそうおう)の地」の考えに基づきます。「四神相応」の「四神」とは、東西南北の四方を守護するとされる聖獣のことで
青龍(せいりゅう)
白虎(びゃっこ)
朱雀(すざく)
玄武(げんぶ)
のことを指し、それぞれ特徴のある土地に棲むと言われています。その特徴を説明すると
東:青龍…豊かな川の流れがある
西:白虎…大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀…広大な平野や海があり開けている
北:玄武…山や丘陵がある
四神相応の地というのは、古代中国に始まった風水における四聖獣(四神)が東西南北の各方向の地形とフィットする地のことです。国分寺は、東に清流があり、西には当時の大動脈といえる東山道武蔵路、南には広大な平野が広がり、北には国分寺崖線がそびえるという理想の地相であったのです。鎌倉時代末期、国分寺は新田義貞によって残念ながら燃やされてしまったと伝えられていますが、礎石の跡などは残っており、周辺には真姿の池やお鷹の道など、東京都とは思えないのどかな風景が残っています。都会と閑静な佇まいの融合。是非一度、国分寺の地にお立ち寄りください。
井の頭線のさりげないおしゃれ
井の頭線渋谷駅改札に集合し渋谷→井の頭線→下北沢→小田急線各駅停車→喜多見と移動しウォーキングスタートです。井の頭線車内は桜の模様の装飾がされていました。
セブンイレブンの配達車
滝下橋緑道
次太夫堀(六郷用水)の説明
喜多見駅と世田谷通りを繋ぐ商店街には丸屋という古くからありそうな佇まいの蕎麦屋さんがあり、昔からある道なのでしょう。写真に撮り損ねましたが、この蕎麦屋さんは評判がいいようです。滝下橋緑道で場所をお借りしてストレッチ、ウォーキング開始です。次太夫堀も今回のウォーキングのテーマの一つです。
ユキヤナギ
次太夫堀公園
レンゲ
野川沿いに歩き始めてしばらくすると次太夫堀公園があります。下見の時には気づかなかったのですが、田んぼにはレンゲの種がまかれているようで、4月末には見事な蓮華畑になりそうです。コースを復習することはあまりないのですが、レンゲの時期にまた訪れたいと思います。公園について世田谷区のページから引用します。
施設の概要
世田谷の農村風景の典型的なイメージと昔ながらの小川を復元したのが次大夫掘公園。公園名は小泉次大夫が昔この地域の用水を確保するために作った堀の名にちなんでつけられました。
面積は約36,000平方メートルで650メートルの水路を有し、その水路に沿って、当時の古民家や水田(1,400平方メートル)が配置されています。水路や池には、コイ・メダカ・アメンボもたくさん生息しており、コサギがきてドジョウをついばむ姿も見られます。
水田では、毎年稲作が行われ、近隣の保育園や小学生達による田植えや稲刈りが、東京中央農協の協力のもと行われています。また、多摩堤通りをトンネルで横断できるようになっており、パズルトンネル(卵から鳥が生まれてくるパズルです)と呼ばれています。
民家園
次大夫堀は、江戸の初期、小泉次大夫の指導で開削された農業用水(六郷用水)の別名です。喜多見あたりでは、半ば埋められごみ捨て場のようになってしまいましたが、野川から取水して昔ながらのきれいな流れを復元しました。本物の水田をつくり、そこに江戸時代後期の古民家と土蔵、納屋、消防小屋などを移築復元したのがこの民家園です。昔の世田谷の農家の暮らしをまるごと復元しています。
次太夫堀についてWikipediaの六郷用水の項を引用します。
多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。 延長は23kmで、49の村、約1500haに、主に農業用水として水を供給した。 多摩川の対岸の川崎市を流れる二ヶ領用水(同じく小泉次太夫が建設指揮監督)と合わせて四ヶ領用水(よんかりょうようすい)とも呼ばれる。
1597年からの14年かけて用水が開削された。開通後100年を経過したころ荒廃したが、1725年に代官田中丘隅(休愚)の手により改修された。この改修は、二ヶ領用水と並行して行われた。この改修後、世田谷領でも六郷用水が利用できるようになった。
廃止されたのは1945年である。宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となった。流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ向きもある。一部区間(世田谷区岡本~大田区田園調布)は丸子川として残っている。また、世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園となっている。大田区内では、中原街道から東の東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近に湧水を使って用水路が再現されていて、残りは歩道になっている。
現在、用水の跡地は、道路、緑道(遊歩道)、次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もある。 なお、六郷用水は既存の多くの河川と分合流あるいは交差していた。
次太夫堀公園民家園
消防小屋と火の見櫓
民家園はとても面白い場所でした。建物を保存してあるだけではなく、活用しているので生活感が感じられます。むかしの消防はこんな粗末な装備なので、延焼を食い止めるだけでも命がけだったでしょう。
旧城田家住宅主屋
スイセン
作業場
フクジュソウ
フキノトウ
オオイヌノフグリ
開園記念碑
枯葉を集めたところにフクジュソウやフキノトウが出ていて、里山といった風情です。大きなのこぎりで丸太を切っていましたが、今ならチェーンソーの出番ですね。
庚申塔
庚申塔
御嶽山
大口真神
からす団扇
庚申塔はこのブログでもたびたび取り上げているのでお馴染みですね。御嶽山や大口真神はあまりなじみがなかったので調べてみました。小学生の頃何度かハイキングに行った青梅の先の御嶽山でした。大口真神(おおぐちまかみ)について、御岳山神社のホームページから引用できないので、リンクを貼っておきます。Wikipediaから真神の項目を引用します。
真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来、聖獣として崇拝されてきた。また、猪や鹿から作物を守護するものとされた。人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。
大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化された。『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)と記され、少なくとも(大和国風土記の逸文と合わせ)8世紀からみられる。この「大口の真神原」には後に飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅があったとされ、用明天皇の代に蘇我馬子が寺の建立を発願、崇峻天皇の代に館を廃し法興寺(後の飛鳥寺)の造営が始まったとされる。
現在も埼玉県秩父地方の神社を中心に、狼が描かれた神札(お札)が頒布され、信仰を集めている。このすぐ南の武蔵御岳山上の武蔵御嶽神社には『日本書紀』の記述に基づく「おいぬ様」(または「お犬さま」)の伝説があり、日本武尊の東征の折、邪神が大鹿の姿で現れたのを野蒜で退治したが、その時に大山鳴動して霧に巻かれて道に迷ったのを、そこに忽然と白い狼が表れて道案内をして、無事に日本武尊軍を無事に導いたので、尊は「大口真神としてそこに留まるように。」といったという。大口真神は江戸時代の天保年間ころより盗難除け・魔物除けとしての信仰が盛んになり、本殿のおいぬ様の狛犬はブロンズ製(1807年の作)で、本殿前の像は北村西望の作(1985年奉納)である。
からす団扇については、大國魂神社のページからすもも祭りを引用します。
すもも祭(7月20日)
夏の風物詩として、近郷近在の人々より親しまれている『すもも祭』は毎年7月20日に斎行されます。その起源は源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こりました。その際神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りの名前の由来です。
安倍氏征伐
前九年の役(1051~1062)奥州平定(安倍頼時と貞任・宗任親子)のため源頼義・義家父子が朝廷より派遣された。朝廷の東国平定の足がかりとなる。
当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しています。この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねます。
からす扇・からす団扇」の起源
「からす扇・からす団扇」の起源は、五穀豊穣・悪疫防除の意味からで、その扇や団扇で扇ぐと害虫は駆除され病気は平癒する、という深い信仰があるからである。そのいわれは今から約1200年前、大同2年(807年)に「古語拾遺」の神話から出ており、内容は次のとおりである。
神代の昔、大地主神が田植えをなさる時に、早乙女や田夫らを労うために牛肉をご馳走した。 ところが御歳神の御子がそれをご覧になって家に帰ってそのことを御父にお告げになった。 御歳神は、これをお聞きになり非常にご立腹なされて、田にイナゴを放ち、苗の葉をことごとく 喰い枯らせてしまった。大地主神は大変に驚かれて、何か神の崇りであろうといって卜者を呼んで 占わせてみたところが「これは御歳神の崇りであるから宜しく白猪、白馬、白鶏を献じて お詫びするのがよろしい、されば怒りも解けるであろう」とお告げがあったので、その通りに したところお怒りが解けたばかりではなく、蝗の害を駆除する方法も、いろいろと教えて下された。その方法の中に「烏扇をもって扇げ」とお教えなさったのである。
旧加藤家住宅主屋
糸車
菱餅かな?
旧秋山家住宅土蔵
民家園は面白かったです。外国人を連れてきても喜ばれるかも。
多摩堤通りの下をくぐる
ツクシ
次太夫堀公園は多摩堤通りの下を抜けて、再び野川へ戻ります。公園に引き入れられた水も野川へ戻ります。
外環道工事現場
きしべの路「大正橋」
きしべの路「新井橋」
外環と東名のジャンクション工事現場
テニスコート入口
カワヅザクラ
東名高速まで大規模な工事が行われています。これが開通すると我々にとっても関越道が近くなり、東北道への選択肢が増えることになります。砧にある目黒区のテニスコートは何度か通いましたが、車で訪れていたので印象が違います。歩いてきたこの場所に見慣れた看板があり写真に撮ってみました。今日地図で確認をして、車で通っていた場所と、野川沿いを歩いてきたときに感じたギャップを確認しました。この看板30年前から変わってないかもしれません。
カワセミ
野川にカワセミはいるだろうと思って目を凝らしてみていたらようやく見つけました。この場所には結構長い時間とまっていて、うるさい集団が来ても逃げませんでした。この後飛び去るのですが飛んでいるときの色がきれいです。そんな写真を撮ろうと思うとお高いレンズをそろえなくてはならないので、ちょっと無理ですね。遠景はコンデジのズームを最大にしたもの。拡大写真はその一部を切り取ったものになります。スマホでも撮ったのですが、コンデジの写真の方がきれいでした。
仙川合流点
オオバン
マメザクラかな?
野川水道橋
水道関連遺産
水道橋の下に一時水道の本管が通っており、水道管が地下に埋設された今でも水道橋という名前が残されています。竣工時は澁谷町水道の施設でした。多摩川の水を砧下浄水場で飲料水へと浄化し、ポンプで駒沢給水塔へ送水し高度差を生かして渋谷方面に上水道を提供しており、目黒村も給水地域に含まれていました。駒沢給水所は2016年10月の蛇崩川馬事公苑コース 約7Kmで訪れているので、覚えている会員がいることでしょう。
武蔵工大グランドわきのミモザ
種類不明のサクラ
現在東京都市大学と名称が変わっていますが、武蔵工大の方がなじみがあります。東京都市大学と首都大学東京(旧都立大学)が区別しにくいですね。
多摩川河川敷
ナズナとヒメオドリコソウ
多摩川サミットの碑
カワヅザクラ
ホトケノザ
オオイヌノフグリ
野川にかかる最後の橋、兵庫橋
野川多摩川合流点
下見の時にはコヤマドライビングスクール方面へ行ってしまったので、多摩川河川敷に出ることはありませんでした。河川改修が行われて、私が持っている地図とはずいぶん変わっているのです。多摩川河川敷はテニスコートなどもありますが、草野球のメッカという感じです。
暖かい一日だったのですが、夕方になり雲って寒くなるとオオイヌノフグリも花を閉じています。兵庫島でストレッチをして解散しました。
この日は大相撲春場所の初日だったので、急いでONCEへ移動して大画面で相撲を楽しみました。みんなでワイワイ言いながら見るスポーツは面白いですね。そんなことをいいながら、大いに酔っぱらいました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
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