http://www.japitkyoto.jp/zhouenlai.htmlから。 文中黒字化は芥川。
以下は、昭和61年(1986年)4月22日の讀賣新聞18面に掲載された「京都駅~建都千二百年へ」シリーズ特集の中で、「小平と周恩来と~京都駅で別れた周恩来と呉翰濤が再開したのは17年後の中国、周は共産党、呉は国民党の代表だった」と題して紹介された記事である。
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中国の小平副首相(当時)が京都駅十三番ホームに降り立ったのは、五十三年(1978年)十月二十六日午後六時三分だった。
この年の夏、北京で日中平和友好条約が調印され、その批准手続きのための来日。
東京での公式日程を終えた後の、リラックスした、そして、念願の京都入りだった。
「ひかり81号」のクリーム色の車体に乗り込んだ小柄な副首相は、柔和な笑みを浮かべながら「日本の技術はすばらしい。とくに新幹線はすごい。中国でも早く作らなければ」と感想をもらした。
足を止め天を仰ぐ
晩秋の京はすでにたそがれから薄やみに移ろいかけ、ホームに降り立った副首相は、出迎えた林田悠紀夫知事(当時)、船橋求巳市長(当時)夫妻らと固く握手を交わした。
二階コンコースには日中友好関係団体のメンバーが「ようこそ、おじさん」と小旗を振り、拍手を送った。
副首相はゆっくりとした足取りで小さく手を上げてこたえていたが、コンコース中央で突然、足を止め、天を仰いで大きく息を吸いこんだ。
恩人、故周恩来首相の若き日の姿が脳裏をよぎったからだ。副首相が師と仰いでいた故周恩来が、日本に留学中、無一文で京都駅に降りたのは二十歳の秋。出迎えたのは中学時代の親友、呉翰濤夫婦だけだった。
周恩来、貧窮し入洛
周恩来は一九一七年(大正六年)天津の南開中学を卒業。中国は当時、軍閥が抗争を繰り返し、日本をはじめ欧米の軍靴の音が全土に響き渡っていた。
周恩来は国を憂い、明治維新後、近代化に励む日本に学ぼうと東シナ海を渡航、東京高等師範学校を受験するため、東京で下宿生活を始めた。
しかし、しばらくして、生活費を援助してくれた先輩たちが次々と帰国してしまい、貧窮。この時、面倒を見たのが、三高生の呉だった。
周恩来は毎朝、一家のふとんを片付け、食事の支度をすることもあった。
昼は円山公園、嵐山を散歩しては詩をよみ、夜は呉が定期購読していた川上肇の雑誌「社会問題研究」を読破した。
現代中国史の権威、竹内実・京都大学人文科学研究所長はいう。
「周恩来がはじめてマルクスに触れたのは、この時なんだ。中国革命の一つの流れは、京都から始まったんだよ」
世界の偉人でもある周恩来と、今日、購読を決めてくれた貴方に贈る。
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2012/8/6、嵐山にて。(C)芥川賢治。
66年に一度の好著である拙著を、いまだに購読されていない方は、今すぐ最寄りの書店か、サイドバーのネット書店か、電子書籍で購読した方が良い(笑)。何故なら…
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