母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代の頃の生活がいかに苦しいものだったのかを話してくれた。
村には5つの農業用水池があった。
日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも母だった。
日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことができるようになったのだった。
私の村では、独立運動系の人々を除けばほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。
村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョンウカバッダ」(日本人は事理に明るい[すべて正しい])という言葉がよく交わされた。
それでも村の人々が外国人である日本人に対して屈折した感情を抱いていたことも事実だった。
何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。
日本人の元で働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。
これには多分に嫉妬心理も手伝っていただろう。
戦後、韓国が独立を回復してから、民族主義教育が行われるようになった。
韓国では日本人を指して「チョッパリ」(日本人の蔑称)とか、「オランケ」(侵略者)という言葉が使われるようになったが、日本統治時代には、私の村の
人々だけではなく、韓国人の間で広く日常会話のなかで日本人を話題にする時には、ただ「日本人」(イルボンサラム)と呼んだ。
日本語がよくできる韓国人ほど、日本人の良さを理解していたと思う。
*つまり、知性ある者の順番に理解していた、という、理解の黄金法則通りだったのだろう。
http://dengon.holy.jp/ntj01.htmlから。