文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

だから、彼等は、国際司法裁判所になぞ、そもそも、出てこれる訳がないのである。

2012年08月23日 18時09分17秒 | 日記
お分かりの様に、竹島問題であれ、反日教育の問題であれ、日本の大衆文化を「公序良俗」に反するとして規制した、…これら今に至るも続いている韓国の有様は、李承晩という、言わば、とんでもな男、…終戦のドサクサに乗じて現れて、米国をバックにして、独裁政治を行う…あちこちで見かける様な風景ではある…が、1952年に突然、勝手に、公海上に李承晩ラインなるものを引いた事に起因している、つまり、わずか1952年に、韓国は、この、とんでもな、恥ずべき、お粗末な独裁政権の時に為した事を、正当化しているだけの事なのである。

だから、彼等は、国際司法裁判所になぞ、そもそも、出てこれる訳がないのである。

自分達だけの真実を作り上げている…つまりファシズムをやり続けて来たのだから。

こういう自国の歴史を何にも教えられていない韓国の若者達…本質的には、皆、ファシストであると云っても過言ではない…は、様々な事を言っているのだが。


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日本が再生し(元に戻り)世界を救える国になる、

米国と屹立して世界をリードして行く国に成る為には、


拙著を日本中の方々が読まれて、皆さま方が、芥川が書いた〈解答〉を、
皆さま方が選んだ為政者に実行させるしかないのだ、と確信しているからです。



どのページを開いても、貴方は、芥川の独創…一人の紛れもないGiftedが、
神に与えられた使命を果たしている結果としての言葉…に出会う。


「文明のターンテーブル」芥川賢治 第一巻

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朴 正煕…ウィキペディアから。②

2012年08月23日 16時12分41秒 | 日記
文中黒字化は芥川。


韓国軍

1945年8月に第二次世界大戦が終結し、満洲国が崩壊したために退役し朝鮮半島に戻った。

その後朝鮮半島の南半分がアメリカ軍政庁の統治下におかれた後の1946年9月に、陸軍士官学校の前身である警備士官学校(南朝鮮国防警備隊の幹部を育成するためにアメリカ軍政庁が設置した教育機関)に2期生として入学した。

3ヶ月余りの速成教育を受け卒業した後、大尉に任官されたが、1946年10月に大邱で共産党が指導した暴動事件、いわゆる10・1暴動事件が発生し、この事件で兄の朴相煕が共産党幹部として警察に殺害された。

一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告された。

しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることがアメリカ軍当局に評価されて釈放された。

朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、更に戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。

休戦後の1953年には、アメリカの陸軍砲兵学校に留学した。

その後は、1955年7月14日には第5師団長、1957年には陸軍大学を卒業して第7師団長、1959年7月1日には第6管区司令官、1960年1月21日には釜山軍需基地司令部司令官、同年12月15日には第2軍副司令官となった。

朴 正煕…ウィキペディアから。

2012年08月23日 16時06分28秒 | 日記
朴 正煕(パク・チョンヒ、박정희、1917年11月14日(時憲暦9月30日) - 1979年10月26日)は、大韓民国の軍人、政治家。第5 - 9代大統領(在任:1963年 - 1979年)を務め、軍事独裁・権威主義体制を築いた。

また、日韓基本条約の締結を行い、韓国の奇跡的な経済発展である漢江の奇跡を実現させた。

本貫は、高靈朴氏。号は「中樹」(チュンス、중수)。

日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(たかぎ まさお、 - 1945年)。

日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになったが、昔通りの漢字読みも一般的である。

陸英修は妻、セヌリ党非常対策委員長の朴槿恵は長女、EGテック現会長の朴志晩は長男。

なお、出生日を1917年9月30日とする文献等があるが、これは時憲暦での表記であり、実際にはグレゴリオ暦に直すと11月14日である。

出自

生い立ち

満州国軍軍官学校の日系将校枠の受験許可を特別(年齢制限により受験資格がないため)に求める血書による嘆願書を提出(1939年3月31日付満洲新聞)

朴正煕は、日本統治下の朝鮮の慶尚北道善山郡亀尾(クミ、現在の亀尾市)で、貧しい農村部家庭の5男2女の末子として生まれた。

父親は科挙に合格したが、韓国が併合された後に没落し、墓守をしていた。

小学生の頃は、学校に弁当を持って行けないほど生活は苦しく、後世、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。

家が貧しいうえに病弱だったが、亀尾小学校を優等で卒業。大邱師範学校を卒業し、慶北聞慶国民学校で3年間教師をした。

満洲国軍

その後、日本国籍のまま満州国の首都の新京で陸軍軍官学校に入校し、同校を首席で卒業する。

優秀な成績のため、特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学した。

その後、創氏改名によって高木正雄と名乗った。

第二次世界大戦中の1944年に日本の陸軍士官学校を3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。

朴正煕が日本陸軍の軍人だったという誤解があるが、上記のように満州国の軍人として日本の士官学校への留学を命じられたに過ぎず、日本軍人として任官したことはない。

代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。

2012年08月23日 15時57分55秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。

豊富な水産資源の漁場の確保と韓国が自国領と主張する竹島(韓国名:獨島)を取り込むために一方的にとられた措置であった。

李承晩ラインを越えて操業している日本漁船は従来は公海とされている領域であっても拿捕され、長期間に渡って抑留されたり、韓国官憲による銃撃によって判っているだけでも44人の死傷者を出している。

李承晩ラインの設定は国連海洋法条約制定前であり、排他的経済水域が成立する以前である。

またサンフランシスコ条約では竹島への直接言及は無いが、その交渉文書であるラスク書簡においては、竹島は日本領であることが謳われている。

李承晩ラインの設定で韓国の実効支配下に置かれることとなった竹島の処遇は、現在に至るまで日韓の懸案問題になっている。

領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱責を受けるほど、日本を占領したいと発言していた。

また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。

その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。

のちに韓国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあって、今日では次第に改善されてきている。

李承晩は在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業を阻止するため工作員66人からなる工作隊を組織し、帰国事業を主導していた日本赤十字社の建物を破壊すること、帰国事業を担当していた日本側要員を暗殺すること、帰国船が入港する新潟港に通じる鉄道線路を破壊することなどを命じ日本に密航させた。

日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。…ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時50分10秒 | 日記
文中黒字化と*は芥川。

北朝鮮の侵攻を受けた韓国が混乱し、半島南端の釜山にまで追いつめられるほどの醜態をさらしたのは、李承晩個人の資質によるところが大きい。

負け戦の時は誰よりも早く逃げ出し、勝ち戦の時は誰よりも目立とうとして、先頭に立った。

首都ソウルが北朝鮮に侵攻されつつあるときは、避難民で大混乱状態の漢江の橋をかまわず爆破させ、一方で自分は安全な場所に急ぐために米軍基地に逃げ込んでいた。

仁川上陸作戦で北朝鮮軍の掃討が成功しつつあるときは、連軍としての規律を無視して、韓国軍部隊を勝手にソウルに先行させた。

韓国から北朝鮮への逆進攻が敢行されたのも、マッカーサー司令官の意図というよりは、李承晩の独断専行が大きい。

*芥川は、此処を読んでいて日本の或る首相の資質と一緒だな

在任期間中に行われた反日政策として、李承晩ラインの設定、竹島の編入、日本文化の禁止、親日派処分などがある。

権威主義政権として基盤の脆弱な李承晩が、このような自己正当化の論理に頼った面も強い。

また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものを抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。

今日でも、これらの政策による弊害が大きく、
日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。

対日政策 …ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時43分15秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

対日政策

「李承晩ライン」も参照

李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。

保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすために激しい反日教育を行い、それが現在でも韓国社会に影響を与えている。

1954年のサッカーワールドカップアジア予選では、「植民地支配した日本人を領土に入れるわけにはいかない」として敵地日本で2試合戦うことを条件にサッカー韓国代表の参加を許した。

当時の代表監督に「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と言ったというエピソードがある。

出場を決めた際には歓迎式と祝賀パレードが行われた。

李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。

交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月 - 1956年1月、1959年6月 - 1960年4月に日本と通商断交している。

また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。

後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、日韓基本条約を交わした。


日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。


このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている。

李承晩政権は、おおむね旧植民地官僚であったエリート(現在では親日派とされる)により構成されていて、政治と癒着していた企業も、現在では親日派とされることが多い。

今日の韓国の教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十分であった」といった趣旨の記述があり(金大中も自著の中で同じ内容の批判を述べている)、親日派の糾明は現代の韓国で主要な政治議題となっている(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法を参照)。

日本に併合される前の李朝朝鮮がまるで「東洋の理想国家」であったかのように、アメリカで宣伝。

ハースト系新聞が広めた日本=野蛮国論の一部となり、アメリカが極東に政治介入する政策の根拠となった。


韓国内の朝鮮史賛美は、李承晩の捏造から来ている。

韓民国成立直後は、日帝時代を具体的に知っている韓国国民が大多数だったが、公の場で「日帝時代はよかった」「今の政府は駄目だ」等の批判をした者をすべて政治犯として、投獄・拷問・処刑を行った。

大韓民国成立後のたった2年で政治犯として、投獄された者の総数は日帝時代の約30年間の投獄者数を超えた。

今の韓国でも、親日論者として断罪される事が社会的に抹殺されるに等しいのはそのためである。

経済政策…ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時38分24秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

経済政策

大韓民国建国後、李承晩が真っ先に取り組むべき課題は経済政策のはずだった。

しかし、李承晩は前述の通り、反共に明け暮れ、経済政策を疎かにした。

日本からの多額の無償援助や借款による急速な経済発展を達成した朴正煕と比べて経済の停滞を解消できなかったとして韓国内での評価はきわめて低く、「漢江の奇跡」に象徴される躍進の1960年代とは対照的に、停滞の1950年代ととらえられることが多かった。

韓国併合時代に日本が建設した重化学工業施設の多くは、鉱物資源が比較的豊富な朝鮮半島北部に集中して位置し、朝鮮半島南部は工業施設と日本が建設した道路・橋・港湾施設の他はただただ農地と日本が積極的に植林をした元禿山のみだった。

建国直後の大韓民国は、非常に困難なスタートを余儀なくされた。

そこに追い討ちをかけたのが朝鮮戦争で、農地も敢え無く荒廃し、社会インフラ(港・道路・橋)なども破壊することとなった。

李承晩は朝鮮戦争の休戦を同意(署名は最後まで拒否)する事を条件にアメリカに経済支援を迫った。

休戦直後、アメリカと大韓民国は米韓相互安全保障協定を締結し、アメリカからの多大な経済支援が行われた。

資源が全く存在しない大韓民国は当面の間、それに依存した「非自立経済」の形を取らざるを得なかった。

李承晩自身がアメリカの傀儡であり、アメリカの後ろ盾によって大統領の座に就いていたのは有名である。

李承晩政権時代の主要産業となったのは、アメリカの経済支援(原資)に依った「三白産業」(製粉・精糖・紡績)であった。

原資は「実需要者制」に従い、割り当てられるはずだった。

しかし、実需要者の中でも政治力のある業者団体が独占的にそれを受けることになり、その原資すら企業の中でも圧倒的な財力を誇る財閥系の企業が独占的に買い取る形になっていた。

それをさらに後押しする形になったのが、公定為替レートと実勢レートの不均衡(ドルの過小評価、ウォンの過大評価)と李承晩政権の打ち出した低金利政策で、特定の財閥が肥えることになった。

これらの手厚い保護を受けた財閥系の企業による「三白産業」は圧倒的な速度で工業化し、1957年には経済成長率は8.7%に達したが、李承晩政権の末期には、過剰設備投資が顕在化し、深刻な不況が起きた。

この事から、1961年の朴正煕政権成立まで、一人当たりのGNPも80ドル前後に止まる事となる。

農業政策はほぼ無策で、工業政策の踏み台に近かった。

インフレ抑制の一環として、低米価政策が取られたが、これは「三白産業」の発展を利すものであり、農業従事者の賃金の低下・不安定化を招き、春窮農民が増大化することになった。

李承晩政権の末期には、春窮農民が農業従事者の半数に達した。

このような経済状況を反映してか、当時の韓国では砂糖が大変な高級品とされており、外国人記者団との会談の最中にコーヒーと角砂糖が差し出され、外国人記者達が自国で行っている通りに、複数の角砂糖をコーヒーの中に入れている光景を目の当たりにして、「あなた方の国ではコーヒーの中に砂糖を入れるようだが、私どもの国では砂糖の中にコーヒーを入れる」といった自虐的とも取れるジョークを発言したことがある。

李承晩政権は朝鮮の伝統的政治体質を引き継ぐものと指摘した。…ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時32分21秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

評価

李承晩の政策は彼個人の反共を軸にした「反共に執心して全く見えていない」物で、まず南半部による単独政権を樹立してから、軍事力による北半部の併合を構想した(北進統一論)。

建国された朝鮮民主主義人民共和国を国家として認めず、反国家団体による不法占拠であるとしたうえで、大韓民国は朝鮮半島における唯一の合法的な国家であるとし、国連もこれに従った。

朝鮮戦争の前後から、反共政策・プロパガンダは激しさを増し、激しい戦禍を経験した韓国社会には共産主義者を敵視する強い反共意識が芽生え、これはほぼ国民的合意となった。

建国の父となるべき反共の大統領・李承晩は、生涯大統領を望み、次第に非民主的・権威主義的な性格を現し始めた。

大統領であり続けるために憲法改正の強行や選挙への不正介入を繰り返し、国会での政敵や選挙の民主化・不正の真実を求める民衆を「容共的」「北のスパイ」「平和統一論を唱えた」「パルゲンイ(共産主義者の蔑称)」等と斬り捨て激しく弾圧した。

しかし、最終的に彼を大統領の座・建国の父の座から追い落とすことになったのは、4・19学生革命での民衆の力であった。

李承晩政権下の混乱を観察したグレゴリー・ヘンダーソンは日本による植民地統治の歴史は朝鮮の政治意識・構造を変えることがなかったと考え、李承晩政権は朝鮮の伝統的政治体質を引き継ぐものと指摘した。

独裁者李承晩は「本当に貴いお方」朝鮮国(朝鮮王朝)最後の王位継承者李垠とその夫人李方子の帰国を許さなかった。

王政復古を疑っていたという側面もあるが、李承晩には朝鮮半島の2度の支配(日本による併合、米軍による軍政)から大韓民国という独立国家を立ち上げたプライドがあった。

李氏朝鮮時代の残滓、特に従属国主義などは真っ先に忌諱すべきもので、それを支えていた王家の人間などは自分が築き上げた独立国家に入国させるべきではないと考えていたが、当時の大韓民国には政治を運営する能力のある人間もいない上、日本が撤退してからは世界最低の最貧国のひとつに数えられるほど貧しい財政基盤ではアメリカの後ろ盾や援助なしには国の運営もままならない状態であったことは有名である。

そのためアメリカに見放された後、傀儡政権でしかなかった彼には国を運営できなくなり、亡命するに至った。

李承晩には大清皇帝功徳碑を恥さらしだとして埋めたという逸話が残っている。

しかし李承晩とその他の政治家との対立を、かつての李氏朝鮮時代における王(君主)と両班(官僚-貴族層)との権力争いになぞらえる論者、『朝鮮王朝最後の君主』とする論者も多数存在する。

事実、李承晩の政権は文治国家であった李氏朝鮮の系譜の延長線上にあり、その系譜が絶たれたのは次の独裁者朴正煕の軍事政権でのことである。

現代の韓国において、李承晩は「建国の父である」という評価と、「民衆を恐怖に追い遣った独裁者である」というものに分かれている。これに共通して、朴正煕の評価も韓国では2つに分かれている。

政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。…ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時22分28秒 | 日記
4月20日、ウォルター・P・マカナギー(英語版)駐韓アメリカ大使(英語版)が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、アイゼンハワーの訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。

4月23日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。

政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。

デモは約1週間続き、4月25日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。

このとき、学生代表5名と会見した李承晩は「若者が不正を見て立ち上がらなければ亡国だ。本当に不正選挙ならば君たちの行動は正しい。私は辞職しなければならぬ。」と語り、覚悟のほどを示した。(金大中『私の自叙伝』)

翌4月26日には、パゴダ公園にある李承晩の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。

国会でも、大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。

このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。

12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。

2日後の4月28日に、李康石が一家心中を図って李起鵬一家を射殺、自らも命を絶った。

李承晩は5月29日早朝に夫人を引き連れ、金浦国際空港からアメリカ・ハワイに亡命した。

見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだった。

1965年7月19日、その地で李承晩は90年の生涯に幕を閉じた。

因みに、フランチェスカ夫人は夫の没後、故郷であるオーストリアを経て、1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。

1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙…ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時17分53秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

失脚

1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李承晩は選挙期間を早めた。

野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。

この選挙では与党の不正工作はより徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した(1960年大韓民国大統領選挙を参照)。

1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正が酷かった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。

それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。

「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。

4月11日、このデモを見物に行きそのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が、馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた状態で遺体で発見された。

市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した(馬山事件)。

馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。

各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。

李承晩…ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時11分53秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

1956年、李承晩が三選を狙った大統領選挙に際して、民国党を中心とする野党勢力は「もう生きられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、「民主党」を結成した。一方、自由党は「替えたところで、変わらない」というスローガンで対抗した。

民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。

選挙直前の5月5日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の列車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。

官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた(1956年大韓民国大統領選挙を参照)。

高齢の李承晩に万一の事態が起これば、副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になるため、自由党は危機感を抱いた。

同年9月28日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件を起こし、1959年4月30日には張勉系の野党紙「京郷新聞」を廃刊処分にするなど、李承晩は徹底的な政敵潰しを行った。

同年7月には長年の政敵であった奉岩を処刑している。


李承晩はフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石を養子に迎えた。

李康石は1957年にソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。

しかし李承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。

1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。 ”

この風潮に便乗する格好で、1957年8月末に姜聖柄という22歳の男が李康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の道知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり金品を要求するという事件を起こした。

事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、かねてからの李康石への無法への反感や政権への不満感から「貴いお方」という言い回しが流行語となった。

1958年、大統領選挙での自身の当選が不可能と判断すると有力な対立候補であった奉岩を逮捕し処刑する(進歩党事件)。

1959年12月4日には、日本政府による在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために、李承晩政権は密かに日本に「北韓帰還阻止工作員」を送り込んで新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こした。

朝鮮戦争期の政争 …ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時06分36秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

しかし、あまりにも尊大で強引な李承晩は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。

李承晩はやむなく休戦に同意し(署名はしていない)、7月27日に朝鮮戦争は休戦した。

休戦後も李承晩はアメリカ議会に出向き、「北進統一」を訴えたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。

朝鮮戦争期の政争

朝鮮戦争の最中に李承晩は湖南財閥から韓民党への資金供給を断つべく、湖南財閥の中核・京城紡織(京紡)の預金引き出しを停止する。

このために京紡は李承晩派に資金供給先を変更し、韓民党は強力な経済的基盤を失うこととなる。

1952年になると再び議会との対立が激化した。政府は釜山に撤退していた。

任期切れを控えていた李承晩は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を上程した。

これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。

李承晩は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した。

1952年7月4日、国会が警察に包囲されている中、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決された。

大統領の選出は直選制となった。この頃までに李承晩派は自由党を組織している。

この時期、アメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李承晩の排除を考え始めたと言われている。

国民防衛軍事件や居昌良民虐殺事件によって韓国陸軍本部では李承晩に対する反感が高まっていた。

独裁者・「貴いお方」

1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。

しかし、生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。

11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。

可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、136票が必要だった。わずか1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。

しかし、李承晩派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の概念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した(四捨五入改憲)。

朝鮮戦争 …ウィキペディアから。

2012年08月23日 15時01分29秒 | 日記
朝鮮戦争

李承晩は大統領就任前から「北進統一」を主張していた。

しかし、1950年、いざ朝鮮戦争が勃発し、朝鮮民主主義人民共和国が韓国に圧倒的な戦力で攻め込んでくると、韓国軍は瞬く間に総崩れになり、ソウルは陥落。釜山まで引くことになった。

朝鮮戦争はマッカーサーの「仁川上陸作戦」以降、東西冷戦下の代理戦争の様相を呈し始め、朝鮮戦争を望んでいた李承晩の存在感は徐々に薄れていった。

朝鮮戦争初期に韓国に侵入した北朝鮮兵は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。

同民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。

また、李承晩が傷病兵の慰問としてある病院を訪れた時、その中に韓国出身の在日朝鮮人の義勇兵が混ざっていた。

李承晩が朝鮮語で慰問の言葉をかけたところ、その在日韓国人義勇兵はとっさの事で、朝鮮語が思い浮かばず、日本語で返事をした。

李承晩は思いもかけない言葉で返事が返ってきたので「日本が密かに兵を送っている」として、日本に対して抗議する声明を出したというエピソードがある。

なお李承晩は1953年1月5日から7日までの間、国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将の招きの形で非公式に訪日し、1月6日にクラークの公邸で吉田茂首相と約1時間対談した。

内容は未だに明らかではないが険悪なやり取りであったとされる。

朝鮮戦争中は、李承晩について様々な噂が流れたが、特に「李承晩が朝鮮人民軍に捕まった」という噂は韓国中を震撼させたが、実際は単なるデマだった。

李承晩がエキセントリックな再登場を果たすのは、1953年、国連主導による休戦提案が出始めてからである。

「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」を口に最後まで休戦に反対し、北進統一論に基づいた朝鮮半島の民主主義による統一にこだわった。

しかし、それを尻目に国連は粛々と休戦への道筋を作り、6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された。

すると李承晩は、6月18日にアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留捕虜2万5000人を北へ送還せずに韓国内で釈放するという事件を起こした。

正式に決まった協定を反故にする暴挙に、国際世論の非難が高まった。

また、李承晩は北朝鮮内の中国人義勇兵が完全に排除されることも望み、早期休戦を望む国連軍/アメリカと激しく対立した。

7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は以下の様に報じている。

ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。

3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。

― 神谷不二『朝鮮戦争』

政治的対立 …ウィキペディアから。

2012年08月23日 14時57分44秒 | 日記
政治的対立

李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。

韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。

対立派は多くの場合、反体制派というよりもむしろ議会政治家たちであった。

最初の対立は大統領制を採り続けるか議院内閣制を採用するかを巡って起きた。

李承晩を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。

両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。

日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される。

初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。

韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも拘らず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。

しかし、李承晩は続いて李範奭を国務総理に任命、110対84で可決。

初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。

1949年には反李承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党(民国党)が生まれた。

民国党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕、趙炳玉らがリーダーとなった。

民国党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。

大韓民国建国まで …ウィキペディアから。②

2012年08月23日 14時54分06秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

しかし、アメリカ軍政はおそらく当初の予定どおり李承晩を支持し、彼と韓民党を仲介した。

臨政と韓国民主党は信託統治反対運動の路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党は李承晩に接近する。
両者の連合は独自の勢力作りに動き出し、李承晩の下に政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促)を発足させた。

このことで、アメリカ軍政下には独促・臨政・建準という3つの政府組織(政府準備組織)が存在することになり、ソウルは大混乱に陥った。

李承晩と韓民党の連合は建準で勢力を誇っていた左派と、その他の臨時政府出身者に対抗し、解放直後のソウル政界で主導権を握った。

アメリカ軍政が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国連監視下での総選挙に臨んだ(初代総選挙)。

この選挙は大反対の中で強行された。

各地で反対派による武装闘争が展開された。

選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が済州島四・三事件である。

済州道では選挙を妨害する左派と政府軍との間で衝突が続き、内乱に近い状態に陥った結果、数万人の島民が犠牲になった。


総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制した。

そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。

1948年8月15日、アメリカ合衆国の後押しで大韓民国が建国された。

李承晩は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。

政権は地主・資本家および旧植民地官僚を勢力基盤としていた。