そう言う方々の為に、今週号の週刊朝日の表紙をお伝えしよう。
今、週刊朝日は、かつて、幾多の女優を輩出した、表紙、女子大生シリーズを復活しているのだが、
その見事な女子大生のスタイルも台無しになるほどに、ビシッと打ちだした特集が、
「いじめ」は大津だけじゃない 学校と教育委員会が腐っている という大見出し。
文中黒字化は私。
北朝鮮における評価
北朝鮮においても、金日成国家主席(当時)は、朝鮮における事大主義は封建統治者のみならず、朝鮮革命運動家にも蔓延しているとし、その例として「朝鮮共産党の承認取消問題」を挙げている。
彼らは派閥抗争を繰り返し、それぞれがコミンテルンに事大し、自派の正統性を主張したことで、結局は承認を取り消される憂き目にあったとし、朝鮮革命運動を成就させるには「主体」を打ち立てなければならないとした。
北朝鮮の公式イデオロギーである主体思想の名称は、「事大主義の克服」という意味が込められている。
文中黒字化は私。
韓国における評価
現在の韓国においては、高宗や閔妃の事大先を次々に変えた行動を、朝鮮の独立を守るためであったと評価しているが、李朝末期はすでに独立国と呼べるような状態ではなく、崔基鎬や呉善花らのように、それを場当たり的な対応に過ぎないと見る研究者もある。
韓国の朴正煕元大統領は自著『国家・民族・私』で、次の言葉を遺している。
「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」
「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」
「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」
「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」
朴は朝鮮史における事大主義を自覚し、自著『韓民族の進むべき道』で韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として次の問題を挙げている。
事大主義
怠惰と不労働所得観念
開拓精神の欠如
企業心の不足
悪性利己主義
名誉観念の欠如
健全な批判精神の欠如
韓国が1,000年超、世界史から消えていたのは何故だろうか?
私が何度も言及する様に、中国と云う巨大な国に隣接していた為に、ずっと、中国を宗主国とした属国であった事から来ているはずだ。
その事の弊害が小さかったのは、百済、高句麗、新羅の3国が在った時代までであり、それは、百済の仏像にも現れている…、と私は言及した。
史上最大の図書館であるインターネットを、その最も素晴らしい所で在る関連事象の並列に沿って尋ねて行ったら、金九、という初めて聞く名前があった、
韓国では英雄扱いなのだという。
韓国と云う国には、知性は在るのだろうかと、私は、真剣に懸念する。
以下はウィキペディアから。
…大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理、国務領(首相)などを務めた。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席である。
1896年 鴟河浦事件。食事を注文した時に女性の給仕が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人・土田譲亮を日帝・日本人への懲罰として殺害した。
金九は後に土田を日本陸軍中尉と記しているが、被害者の土田は長崎県出身(貿易商・大久保機一が雇用)の商人であった。
殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する。
^ 『土田譲亮撃殺の件 取調べ調書』
^
長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。
―アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500, 『在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件』
雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。
―アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500, 『在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件』
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倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。
わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…
―金九, 『白凡逸志』日本語版 平凡社 (1973年) 79ページ