文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

週刊朝日は読んだ事もないと云う方も大勢いらっしゃると思う。

2012年08月28日 20時08分33秒 | 日記
週刊朝日は読んだ事もないと云う方も大勢いらっしゃると思う。

そう言う方々の為に、今週号の週刊朝日の表紙をお伝えしよう。

今、週刊朝日は、かつて、幾多の女優を輩出した、表紙、女子大生シリーズを復活しているのだが、

その見事な女子大生のスタイルも台無しになるほどに、ビシッと打ちだした特集が、

 「いじめ」は大津だけじゃない 
学校と教育委員会が腐っている という大見出し。
 
私は、ご自分も中学校の教諭だったという尾木直樹さんの、教育委員会は教育の「がん」という論説を読んだのだが、具体的で、とても良いと思った。


 

秀吉はこれを日本を属国視するものとしてかえって激怒し、使者を追い返して朝鮮への再度出兵を決定した

2012年08月28日 16時54分45秒 | 日記
一方で、日本には中国を中心とする事大的世界観への拒否反応も強く、倭王(一般に筆者は聖徳太子とされる)から隋の煬帝に宛てた国書の書き出し「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」は対等外交を明確にしたものとして有名であるが、煬帝は中華的世界観と相容れないこの文面に激怒したと伝えられる。

また第1次朝鮮出兵(文禄の役)の講和交渉で、豊臣秀吉は文禄5年(1596年)9月、来朝した明の使節と会見した。

秀吉は明が降伏したという報告を事前に受けていたがそれは虚偽の報告であり、実際に来た明の使節の国書の内容は秀吉を「日本王と認め、朝貢を許す」といったものであった。

秀吉はこれを日本を属国視するものとしてかえって激怒し、使者を追い返して朝鮮への再度出兵を決定した。


日本 …ウィキペディアから。②

2012年08月28日 16時51分44秒 | 日記
また室町幕府の3代将軍足利義満は「日本国王」として冊封を受けた。
この時の事大は、貿易上の利益と冊封による自身の権威向上を狙ったものであった。
義満は九州の商人・肥富なる者から対明貿易が莫大な利益を生むことを聞いていた。
だが明は華夷思想のイデオロギーから、朝貢を建前とする貿易しか認めなかった。
義満は1401年5月13日、肥富と仏僧・祖阿を明に派遣し、国交を申し入れた。
明の使者は翌1402年8月3日に来日し、義満の申請を聞き届ける旨の国書を手交し、ここにいわゆる勘合貿易が開始された。
明の使者が携えてきた国書には「爾日本国王源道義」即ち、義満を明の属国・日本の国王として認めるという意味の表記があった。
対して義満は、明への国書に明皇帝の臣下・日本国王源(義満)という意味の「臣源」と記した。
義満が国内での権力を確実にするためには潤沢な資金を要し、莫大な利益をもたらす対明貿易を継続していく上で、冊封体制下に入るのを黙認するのは必要不可欠であり、義満は名を捨て利を取ったものと言える。
当時これには幕府内部にも批判があったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。
義満の死後、こうした批判は表に現れ、勘合貿易はいったん廃止される(6代将軍・足利義教がのちに再開)。

日本 …ウィキペディアから。

2012年08月28日 16時47分58秒 | 日記
日本には「事大」という政治的用語も明確な概念もなかったが、中国大陸の諸王朝の冊封体制下に入りこれを政策的に利用しようとした時期も存在する。
日本の古代王朝は中国の諸王朝に朝貢、冊封を受けており、事大していた。
これは新羅や百済との戦争・外交・通商や伽耶諸国の宗主権をめぐるこれら2国との争いを有利に運ぶためだったとされる。
「後漢書」によると建武中元2年(57年)、博多湾沿岸に所在したと見られる倭奴国の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて金印(委奴国王印)の賜与を受けており、また倭国王の帥升が永初元年(107年)に生口を献じてきたとする記述がある。
この朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。
 この時期の倭国王(倭王)は、中国史書に名が見える者が、讃、珍、済、興、武という5名おり、これら五王による中国への冊封要請遣使は、4世紀後期から倭国が朝鮮半島南部の伽耶諸国群へ資源・利権獲得のために介入しようとしたため、その地の冊封を受けて大義名分を得ようとしたものと考えられている。

北朝鮮における評価 …ウィキペディアから。

2012年08月28日 16時36分50秒 | 日記

文中黒字化は私。

北朝鮮における評価

北朝鮮においても、金日成国家主席(当時)は、朝鮮における事大主義は封建統治者のみならず、朝鮮革命運動家にも蔓延しているとし、その例として「朝鮮共産党の承認取消問題」を挙げている。

彼らは派閥抗争を繰り返し、それぞれがコミンテルンに事大し、自派の正統性を主張したことで、結局は承認を取り消される憂き目にあったとし、朝鮮革命運動を成就させるには「主体」を打ち立てなければならないとした。

北朝鮮の公式イデオロギーである主体思想の名称は、「事大主義の克服」という意味が込められている。


韓国における評価 …ウィキペディアから。

2012年08月28日 16時29分08秒 | 日記

文中黒字化は私。

韓国における評価

現在の韓国においては、高宗や閔妃の事大先を次々に変えた行動を、朝鮮の独立を守るためであったと評価しているが、李朝末期はすでに独立国と呼べるような状態ではなく、崔基鎬や呉善花らのように、それを場当たり的な対応に過ぎないと見る研究者もある。

韓国の朴正煕元大統領は自著『国家・民族・私』で、次の言葉を遺している。

「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」

「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」

「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」

「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」


朴は朝鮮史における事大主義を自覚し、自著『韓民族の進むべき道』で韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として次の問題を挙げている。

事大主義

怠惰と不労働所得観念

開拓精神の欠如

企業心の不足

悪性利己主義

名誉観念の欠如

健全な批判精神の欠如


朝鮮王朝 …ウィキペディアから。

2012年08月28日 16時22分56秒 | 日記
朝鮮王朝

ホンタイジに土下座する仁祖 これ以降、朝鮮は事大先を清朝に変更することになった。

冊封体制による外交を「事大外交」と呼ぶ場合があり、この意味では新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、中国大陸の中原を制した国家に対して事大してきたことになる。

しかし中国王朝への朝貢しつつも、新羅や高麗は中国王朝との対決や独自の皇帝号の使用なども行い、硬軟織り交ぜた対中政策を取った。

しかし李朝の場合、その政策は『事大交隣』といわれ、事大主義が外交方針として強いものだったとされる。

李朝を開いた李成桂は、威化島回軍(1388年)の際に「小をもって大に事(つか)ふるは保国の道」と唱えて明との開戦を決定した当時の高麗政権を倒し、明王朝を開いた朱元璋もこれに応えて李朝建国直後の1392年に「声教自ら由らしむ」ことを条件に独立を保証する事を約した。

16世紀に朱子学の系統化が進むと、事大の姿勢はより強化されていく事になる。

つまり、冊封体制を明確に君臣関係と捉え、大義名分論を基に「事大は君臣の分、時勢に関わらず誠をつくすのみ」と、本来保国の手段に過ぎなかった事大政策それ自体が目的化されるようになる。

こうした影響は李朝の内政面にも表れ、明人であればたとえ海賊であったとしても処刑することは出来ず、明へ丁重に輸送しなければならなかった。

そのため、後期倭寇と直接対峙した地方の武将達は戦闘のさ中に日本人と明人の判別をつけるという難題に晒され、明人を殺害したとして処罰される者すら存在した。

こうした姿勢は李朝末期においてもなお継続され、清皇帝を天子として事大することを名目として、近代化に反対する勢力が存在し、彼等は事大党などと呼ばれた。

対して近代化論者には欧米中心の世界認識と伝統的小中華思想を結合させ、清朝を侮蔑したものも多かった。

李朝の事大主義は伝統的な華夷秩序で合理化された。

李朝における華夷秩序は、自らを中華に並ぶ文明国とする一方で、政治的には明に事大する臣下と位置づけていた。

17世紀、女真族の清朝が漢族の明朝に取って代わり中原支配を確立させると、李朝の儒者たちはそれまで夷狄、禽獣と蔑んできた女真族に中華を継承する資格を認めず、李朝こそが唯一の中華文明の継承者だと自負する一方、現実には清朝に抗い難く、丙子胡乱により仁祖は三跪九叩頭の礼をもって清への臣従を誓わされることになる。

李朝の事大主義の実際の要因としては高句麗・渤海滅亡後には朝鮮半島の諸国家には中原に覇を唱える中華帝国や満州・蒙古の遊牧帝国に対し軍事的に防戦できず、また高麗の元への降伏以降は朝鮮独自の皇帝号の使用が厳しく中華帝国から監視されるようになったため、事大主義を安全保障上も取らざるを得なかったことなどがあげられている。

李朝末期には政変が起きるたびに、清、ロシア、日本、アメリカなどさまざまな国に事大先を変え、国内の統一が取れなくなり、ついには日本との併合を余儀なくされることとなった。

事大主義…ウィキペディアから。

2012年08月28日 16時19分33秒 | 日記
文中黒字化は私。

事大主義(じだいしゅぎ、朝: 사대주의/サデジュイ)は、大に事(つか)えるという考えと行動を表す語。外交政策の1つでもある。

事大の語源は『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)である。

孟子には越が呉に仕えた例が知恵として書かれている。

つまり「小国のしたたかな外交政策(知恵)」というのが本来の意味であった。

しかし後世になると大義名分論と結びついて、「小国である自国はその分を弁えて、自国よりも大国の利益のために尽くすべきである」といった「大国に媚びへつらう卑屈な政策」という否定的なニュアンスを帯びるようになった。

漢代以降、中国で儒教が国教化されると華夷思想に基づく世界観が定着し、またその具現化として冊封体制、周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。

 東アジアの歴史に於いて中国への事大主義と小中華思想は複雑な緊張・影響関係を保った。

その事の弊害が小さかったのは、百済、高句麗、新羅の3国が在った時代までであり…。

2012年08月28日 16時06分31秒 | 日記

韓国が1,000年超、世界史から消えていたのは何故だろうか?

私が何度も言及する様に、中国と云う巨大な国に隣接していた為に、ずっと、中国を宗主国とした属国であった事から来ているはずだ。

その事の弊害が小さかったのは、百済、高句麗、新羅の3国が在った時代までであり、それは、百済の仏像にも現れている…、と私は言及した。


金九…ウィキペディアから。

2012年08月28日 13時51分35秒 | 日記

史上最大の図書館であるインターネットを、その最も素晴らしい所で在る関連事象の並列に沿って尋ねて行ったら、金九、という初めて聞く名前があった、

韓国では英雄扱いなのだという。

韓国と云う国には、知性は在るのだろうかと、私は、真剣に懸念する。

以下はウィキペディアから。


…大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、首相代理、国務領(首相)などを務めた。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席である。

1896年 鴟河浦事件。食事を注文した時に女性の給仕が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人・土田譲亮を日帝・日本人への懲罰として殺害した。

金九は後に土田を日本陸軍中尉と記しているが、被害者の土田は長崎県出身(貿易商・大久保機一が雇用)の商人であった。

殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する。

^ 『土田譲亮撃殺の件 取調べ調書』
^
長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。

―アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500, 『在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件』

雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。

―アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500, 『在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件』
^
倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。

わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…

―金九, 『白凡逸志』日本語版 平凡社 (1973年) 79ページ


ヤン・ヨーステン …ウィキペディアから。

2012年08月28日 11時05分31秒 | 日記
東京都中央区八重洲にあるヤン・ヨーステンとリーフデ号の彫像

ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteijn , 1556年? - 1623年)は、オランダの航海士、朱印船貿易家。日本名は耶楊子(やようす)。

教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンスタイン」である。

来歴

オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年豊後に漂着。

徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。

屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身に由来する。

「ヤン=ヨーステン」が訛って「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったのである。

やがて東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが帰国交渉がはかどらず、結局あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した。

家康の死後 …ウィキペディアから。

2012年08月28日 11時00分56秒 | 日記
家康の死後

三浦按針終焉の地(平戸市木引田町431番地 )

平戸市崎方公園にある「三浦按針之墓」。毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催される。

家康に信頼された按針だが、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなり、後を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制御し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。

以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒されながら、按針は憂鬱の状態のまま、1620年(元和6年)5月26日に平戸で没した。

57歳であった。

関連文献

『日本に来た最初のイギリス人 ウイリアム・アダムズ=三浦按針』 
 P・G・ロジャーズ、幸田礼雅訳、(新評論、1993年)

『さむらいウィリアム 三浦按針の生きた時代』
 ジャイルズ・ミルトン、築地誠子訳 (原書房、2005年)

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、ウィリアム・アダムスに関連するメディアがあります。

ヤン・ヨーステン

安針塚駅 - 京急線の駅名で横須賀市にある。

将軍 SHOGUN - ウィリアム・アダムスをモデルとした、アメリカのドラマ。

ANJIN~イングリッシュサムライ~ - ウィリアム・アダムスをモデルとした演劇作品。2009年12月に天王洲銀河劇場にて初演。映画撮影され、方々で上映された。

按針祭海の花火大会 - 静岡県伊東市で毎年行われる花火大会

三浦按針となる …ウィキペディアから。

2012年08月28日 10時58分31秒 | 日記
三浦按針となる

江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。

代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。

また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。

帰国を諦めつつあった彼は、1602年頃日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚した。

彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。

やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。

永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。

これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる(この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられた)。

この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えた。

また、三浦 按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦半島に因む)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。

のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。

日本漂着、家康の引見 …ウィキペディアから。

2012年08月28日 10時55分47秒 | 日記
日本漂着、家康の引見

1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。

自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。

太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。

この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。

結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。

イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だが、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。

しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。

ウィリアム・アダムス(三浦 按針)…ウィキペディアから。②

2012年08月28日 10時52分55秒 | 日記
リーフデ号の航海

航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。

航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。

ホープ号("希望"の意・旗艦)
リーフデ号("愛"の意)
ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
トラウ号("忠誠"の意)
フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)

司令官のヤックス・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用する。

こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。

だが航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。

生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。

その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。

こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。