文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 三交社 2000年 p16~…ウィキペディアから。

2012年08月25日 11時27分06秒 | 日記
■『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 三交社 2000年 p16~

・私の受けた戦後韓国の教育

私にとっての日本統治時代の朝鮮問題は、そもそも親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞いていながら、学校教育では「日本人は韓国人
にひどいことをした」と教わるという、まったく矛盾する事態にぶつかるようになったことに始まっている。

この矛盾の感覚は、やがて私の中で「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が優勢となって沈潜していった。が、日本に渡って日本生活を続けて
いくうちに、今度は自分の実体験を通してこの矛盾に再び襲われることになってしまった。

そのプロセスからお話したい。

私の母は昭和十年代のはじめ、14・5歳の頃に故郷の韓国済州島から日本へ渡った。

二人の兄弟が経営する大阪のプラスチック製造工場を手伝ったのである。

母の兄弟姉妹は一人を除いてみな大阪で暮らしていた。

母は日本に来て2・3年経った16歳の時に見合い話があっていったん故郷へ戻ったが、父と結婚するとすぐ、今度は父と一緒に鹿児島へ行き、父の兄が経営る箸製造工場の仕事をしながら、長女の出産を経ての数年間を終戦まで日本で生活した。

叔父さんの住む国・日本。

母が若い頃住んでいた国・日本。上の姉の生まれた国・日本。

私も私の兄弟姉妹も母から同じように日本のことを聞かされていた。

母は「日本のミカンはとても甘くておいしい」と言った。

韓国ではミカンは温暖な済州島でしか採れない。

当時の島にあった品種は夏ミカンではないが、日本のものより大分すっぱかった。

ミカンとはすっばいもの、しかし日本ではそれがとても甘いのだという。

母はまた、日本人はとても親切で、道に迷って「駅はどこですか」尋ねたりすれば、老若男女だれもがとても丁寧に教えてくれると言っていた。

お風呂の話も印象的だった。

当時の韓国には、まだお風呂に入る習慣は根付いていなかった。

日本の影響でできた銭湯が都会の一部にはあったが、田舎では台所でお湯を使い、汗を流す程度が普通だった。

そんな時代だったから、日本のお風呂や銭湯の習慣、また日本には各地に温泉があるといった母の話は、とてもうらやましく感じたものである。

以下続く。

http://dengon.holy.jp/kyk02.htmlから。

反日教育という愚民化政策が韓国人自身を蝕んでいる。…ウィキペディアから。

2012年08月25日 10時16分12秒 | 日記
文中黒字化と*は芥川。

・反日教育という愚民化政策が韓国人自身を蝕んでいる。

以上紹介したのは反日教育のごく一部だが、このような悪質な歴史的事実の捏造によって日本のイメージは著しく傷つけられている。

日本国民は一丸となって公式に独立記念館の展示内容に断固抗議すべきだ。

同時にそれは韓国の国民の目を覚ます絶好の機会となるはずだ。

ありもしないことをでっち上げ、歴史的事実を歪曲し、歴史的事件・施設に恣意的な解説を付けて反日感情を頭に植え付けることは、韓国国民が自らを
愚民化していることに他ならないからだ。

また、苦難に耐えながら日本と共にあの戦争を戦った韓国人自身の先祖にも失礼である。

幼少期から不必要な被害者意識を執拗に注入されれば、被害妄想に取りつかれ、冷静かつ客観的に物事を判断できなくなっても不思議ではない。

日本統治時代が全くの暗黒時代であり肯定的側面は皆無であった、と子供たちに教え続ける韓国政府の意図的な反日洗脳教育は、全ての失敗や短所の責任を他者になすりつける、責任感の無い人間を大量生産する結果となるだろう。

*オリンピックのバドミントンで失格と成った時に、「中国が悪いのだ」、と報道した韓国のマスメディア、

サッカーの時には、観客席に居て、それを渡した韓国人が悪いのだ、当人は、偶然、持っただけだ、とやった韓国国民、代表して、財力でもってスポーツ界の役席に食い込んでいる現代財閥の重鎮が、堂々と、偶然なのだと云っていた、これら、二つの例に如実に明らかだろう。

反日教育が大量に産み出しているファシストの群れ…ウィキペディアから。

2012年08月25日 10時09分31秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

・「日本=悪」が浸透している韓国社会

独立記念館の帰り際、訪問記念に公式ガイドブックを買ってみた。

お金を払うと店員の若い女性が「日本の教科書は歴史を歪曲している」と突然言い出した。

私が「日本の歴史教科書を読んだことあるの?」と尋ねると、間髪を入れず「ない」と答える。

さらに彼女は続けて「日本のものは悪いに決まっているでしょう?」と臆面もなく言い放った。

これには全く開いた口がふさがらなかった。

こうした施設で働いているところからすると、彼女は平均的な韓国人よりも反日感情が強いのかもしれない。

しかし、独立記念館での教師と児童のやりとりが示しているように、「日本=悪」という固定観念が韓国人の精神構造にしっかりと根付いているのである。

検証作業や事実確認などが無いまま、大前提として「日本=悪」という構図が韓国社会に浸透しているのである。

独立記念館を訪れる数多くの子供たちを遠巻きに見ながら、「また反日韓国人」が再生産されていくのか」と溜め息が出た。

判断能力の乏しい子供たちがこのような反日"捏造"記念館を後にする頃には、心に「反日」の刻印を押された反日韓国人として、生まれ変わっていく。


まっさらな更地に反日の種を植え付けていく作業はいつまで続くのか。


http://dengon.holy.jp/kyk01.htmlから。

韓国の反日教育の実態…ウィキペディアから。

2012年08月25日 10時02分39秒 | 日記
*か芥川。

■『 日韓「禁断の歴史」 』(キム ワンソプ 著) 小学館 2003年 p109~

・独立記念館で目撃した「反日洗脳」現場

首都ソウルから車で約1時間半のところに天安という都市がある。その天安市の緑豊かな場所に独立記念館がある。

この記念館は1982年の日韓の政治的懸案にまでなった第一次教科書問題が発端となって、全斗煥大統領(当時)が韓国民からの募金で建設した博物館であ
る。

日本の侵略行為を永遠に記憶しようという意図による。

先日、この独立記念館を訪れた。

敷地に足を踏み入れると、入り口から展示室までは相当の距離があるのだが、沿道の両脇には無数の太極旗が並ぶ。

建物からは見学に来ていた小学生が溢れていた。

課外授業の一環として先生に連れてこられた様子である。

館内のあちこちで輪になって先生を囲み、説明を聞いていた。

ノートをとる子供、はしゃぐ子供、居眠りをしている子供など、まさに純真無垢であどけない児童たちだった。

ある先生の話に耳を傾けてみた。

その先生は子供たちに向かって抑制的な口調であったが雄弁に日本の蛮行を羅列し説明を始めた。

教師「1919年、3.1運動で無数の韓国人が虐殺され拷問されました。この他にも私たちの祖先は日本人に苦しめられ、たくさんのひどい目に遭いました。」

児童「日本野郎は本当に腹が立つ。許せない。」

このような問答が複数回続いた。

子供たちの頭はもはや「反日」でいっぱいである。

こうした憎悪の対象を作り出す教育を韓国は戦後延々と続けてきたのである。

反日のためになされる歴史的事実の歪曲・捏造はあまりにも多すぎるため、こちらが逐一指摘してもきりがない。

日本統治時代の歴史的事実に関しては、真実より捏造の方が圧倒しているのである。

*「まことしやかな嘘」の国の本領発揮と云うには、酷過ぎる、21世紀にも存在するファシズムとして、我々は、国連に提訴しなければならないのだ。





新植民主義 …ウィキペディアから。

2012年08月25日 09時47分47秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

新植民主義

詳細は「新植民地主義」を参照

開発援助において、古くは1960年代に英仏がアフリカの旧植民地に財政支援をおこない、「新植民地主義」と批判され取りやめたことがある[17]。共産主義陣営においては1960年代に世界で新植民主義が進展しているとの認識があり、中国共産党は1963年9月に3回にわたりソ連共産党中央委員会を痛罵し10月22日付の批判ではソビエトを「新植民主義の弁護人」であると批判した。中国の理論家たちの見解によれば、ソビエトによる社会主義世界体制は、世界の発展過程全体にますます決定的な影響を及ぼしていないばかりか、帝国主義に対する大衆の革命的闘争で独自の役割すら果たしていない、と非難した[18]。

こういった大戦後に登場した旧宗主国や大国における新たな植民的支配(新植民主義)論とは別に、21世紀になり中国など新興国の台頭を背景とした国外への積極的な投資や開発援助が「新植民主義」と指摘されることがある。

中国の対アフリカ援助が「新植民主義」だとの批判が一部の先進国から浮上しており、一部のアフリカの国からも新植民地主義であるとの発言が出ている。援助受入れ国は中国政府を無視することができず、中国企業が地元の環境を破壊したり汚染を及ぼすことなどで現地住民の利益を侵害しているとの報道が行われたことがある。

マダガスカルでは韓国の民間企業がマダガスカル共和国の耕作可能地の約半分を99年間無償貸与される契約を結んだことから民衆騒動が発生し、当時のマーク・ラヴァルマナナマダガスカル大統領が退陣させられ契約が撤回される事態となった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0から。

アメリカ合衆国 …ウィキペディアから。

2012年08月25日 09時40分56秒 | 日記
アメリカ合衆国

イギリスから独立した元13植民地の連合体として出発したアメリカ合衆国は、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を武力併合または買収して、自国の領土を西へと拡大した。

拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。

短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカをロシアから買収、ハワイを併合しその後州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。

さらに米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったカリブ海のキューバやプエルトリコ、東南アジアのフィリピン、グアムを植民地化した。

もっとも、キューバはすぐに独立させたが、その後もキューバ革命までの長きに渡り影響下においた。

アメリカは建国の成り立ちからして、個人の財産的自由権を重視したが白人植民者の子孫からなるアメリカ合衆国議会はインディアンや黒人奴隷に対してその主権を認めることはなかった[15][16]。

フロンティアへの進出に際して先住民と条約を結び、先住民の一定の主権を認めていたが、合衆国や州政府、入植者たちはたびたび条約を無視したり、先住民に権利の放棄を強要した。

北西部領土や西南部領土あるいは西海岸に移動した白人開拓者は1763年宣言などインディアン達との取り決めに違反していたにも拘らず、開拓者や商人らへの攻撃に対して合衆国陸軍は出動し、インディアン強制移住法はミシシッピ以東から先住民を駆逐するだけでなく、以西のフロンティアにおいても駆逐を続け、先住民は占有する土地を極めて小額の補償金と引き換えに合衆国政府に対して強制的に譲渡させられた。

オレゴン・カントリーをめぐる交渉や米墨戦争による武力併合により合衆国政府は広大な土地を獲得し、これらの土地は入植者に対して無償ないしは非常に安い価格で売却された。

1890年代のフロンティア消滅と時期を同じくして発生した米西戦争により領土はフィリピン、グァム、キューバへ拡大し、またハワイ入植者が起こしたクーデターに米国海兵隊が介入しハワイ王国を併合した。

「アメリカ人の生命及び財産の安全確保のため」議会に対して合衆国軍隊の介入を要請するという図式はアメリカ帝国主義拡大の基本的な構造であり、皇帝や国王の名を必要としない19世紀型の帝国主義の典型となった。

米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置いたのちも、中米諸国はバナナ共和国と呼称され、アメリカ資本のユナイテッド・フルーツやドール・フード・カンパニーなどの民間企業が資本主義の尖兵として掠奪経営や政治介入をおこなった。

キューバなどカリブ諸島の親米政権に支援を行い、ドミニカ、グレナダ、パナマには公然と軍事介入した。

中米のプエルトリコは、現在も自治領として存続している。また北マリアナ諸島もアメリカの執政下にとどまっている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0から。

朝鮮半島 …ウィキペディアから。

2012年08月25日 09時37分49秒 | 日記
朝鮮半島

「東北工程」、「中国朝鮮関係史」、および「朝鮮半島を中国とみなす記述」も参照

朝鮮半島や朝鮮史を中国の一部、あるいは従属地域・従属国と見なす研究や記述は世界各国で存在する。

とくに高句麗史の帰属をめぐり韓国朝鮮と中国の間には論争が生じている。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0から。

中華人民共和国…ウィキペディアから。

2012年08月25日 09時34分12秒 | 日記
中華人民共和国

チベット等

「チベット」および「東トルキスタン独立運動」も参照

中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)、満洲(遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などの主権を中華民国から継承したものとし、これらの地域は「もともとの中国の不可分の領土」であるして、併合していった。

現在のこれらの地域は、法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であるとされており、またこれらの土地の殆どの民族は中華民族に包摂されると定義されているため、形式上では植民地とは言えない。

国際連合非自治地域リストに上記地域は含まれない。

中華人民共和国における宗教や思想の統制はこれらの地域に限ったことではないが、少数民族の伝統的な文化・宗教・思想が取り締まりの対象となる際、民族文化への弾圧と捉えられる向きがある。

以上のような視点をもとにして、東トルキスタン亡命政府、チベット亡命政府、内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を使用することが多い。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0から。

日本…ウィキペディアから。

2012年08月25日 09時17分04秒 | 日記
日本の海外支配地域を植民地とすることへの異論、反発

植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学においても社会科学の講学上の概念にすぎない。

しかしながら外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は明治期からすでに存在しており、いわゆる忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の慣例となっていた。

(1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。

..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。

議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。

―小熊英二, 『<日本人>の境界』新曜社 第5章 p142~p143 ISBN4-7885-0648-3 1998年刊

我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。

但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。

我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、 「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は 大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。 併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。

―矢内原忠雄『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊

なお、実際にはいくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。

明治31年勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている。

昭和7年9月3日に天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている 。

昭和5年条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている。

また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。

また、上記のような語義的な観点ではなく、実質においても「植民地」ではなかったとする主張は日本の保守系の論壇誌などでしばしば論じられる。

これは、同年代に植民地と呼ばれた地域とはその統治の態様(欧米のそれが非人道的、収奪的であるのに対し日本のそれは人道的、恩恵的であるなど)が異なる、あるいは領有に至る経緯(一般に植民地化は無主地先占の法理によって行われることが多かったが、日本の朝鮮や台湾は文明国間の条約による併合や割譲という法形式によって獲得された)が異なるという認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないという主張である。

また、統治の態様が異なっていた根拠として、欧米の旧植民地における学校教育の普及率が日本のそれより低かったこと(これを指して愚民政策の言われることが多い)や、モノカルチャー経済が行われ、工業の発展が阻害されたこと、結果として欧米の旧植民地の大半が発展途上国に留まっているのに対して、日本統治を経た朝鮮南部と台湾が先進工業地域に成長したことが挙げられることが多い。

その他のヨーロッパ諸国 …ウィキペディアから。

2012年08月25日 09時10分16秒 | 日記
その他のヨーロッパ諸国

ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていたが第一次世界大戦敗北により喪失した(ドイツ植民地帝国)。

イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持したが、第二次世界大戦ですべて喪失した。

ベルギーはベルリン会議の決議としてベルギー領コンゴ(ザイール共和国、のちのコンゴ民主共和国の領域)を保持していた。

1908年にベルギー国王の私有地であるコンゴ自由国からベルギー政府の植民地(ベルギー領コンゴ)に移行した。

1960年にコンゴ共和国として独立。

コンゴの東に隣接するルワンダ・ウルンディ(ルワンダとブルンジとして独立)は第一次世界大戦後に獲得した植民地である。

デンマークは北極周辺に植民地を保有し、グリーンランド、フェロー諸島を領有していたが、現在は両国とも自治領となっている。

アイスランドもかつてはデンマーク領であった。

大航海時代には、デンマーク海上帝国として、デンマーク領西インド諸島、アフリカの黄金海岸の一部、インドのベンガル湾岸の諸都市、ニコバル諸島に植民地を保有していた。

後に西インド諸島は第一次世界大戦中にアメリカ合衆国へ、黄金海岸、ベンガル湾岸の諸都市及びニコバル諸島は19世紀半ばにイギリスへ売却された。

植民としてよりも海運業が盛んだった。

スウェーデンは1638年に新大陸にニュースウェーデン(現在のデラウェア州)に植民。後、オランダに奪われる。

1650年には黄金海岸にも進出したが、デンマーク、イングランドに奪われて海上帝国を形成出来なかった。

植民よりも貿易に力を入れていた。

ただしスウェーデンの植民地の先駆けは、中世以来のフィンランドだとも言える(バルト帝国)。

近代はロシア帝国に支配されたが、現在でもフィンランド社会におけるスウェーデン社会は深く浸透しており、その影響力は非常に大きい。

1784年には、フランスから西インド諸島のサン・バルテルミー島を買取り、西インド会社を設立したが、すぐに閉鎖している。

若干の殖民も行われたものの、1878年に返還された。島には、今もスウェーデン系を含めたノルマン人の住民が多い。

ノルウェーは現在、北極海、大西洋上に植民地を領有している。

ヴァイキング時代には、グリーンランド、アイスランドも領有していた。

現在の植民地は、ノルウェー独立(1905年)以後のものである。

北極海にスヴァールバル諸島、ヤンマイエン島、大西洋上にブーベ島、ピョートル1世島を領有している。

また南極の一部も領有権を主張している。

ヴァイキング時代の植民地を巡ってデンマークと領有権問題を起こしたが、現在は解決している。

プロイセン公国(ドイツ帝国の前身)は1683年に西アフリカに遠征し、黄金海岸に植民(1720年に放棄)。

更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0から。

ロシア…ウィキペディアから。

2012年08月25日 09時04分28秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦)

ロシア帝国は16世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。

16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと征服をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ征服した。

シベリアの遊牧民を支配下に組み込み勢力を広げた。

シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。

さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件に乗じ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化した。

東方の併合が一段落すると、続いて中央アジアを武力併合、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策、汎スラヴ主義)。

領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合ったが、第一次大戦中共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅んだ。

拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。

1941年にはバルト三国を、併合した。

また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義国も、名目上独立国であるが、衛星国と呼ばれ、植民地的な側面も見られる。

冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。

また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0から。

オランダ …ウィキペディアから。

2012年08月25日 09時01分48秒 | 日記
オランダ

「オランダ海上帝国」も参照

オランダも17世紀から18世紀にかけて帝国主義的な植民地大国としてオランダ海上帝国と呼ばれる。

特に17世紀前半はオランダの黄金時代であった。

20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカの植民地(スリナム)を支配していた。

しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長したイギリス帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は凋落して行った。

20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0から。

フランス …ウィキペディアから。

2012年08月25日 08時56分36秒 | 日記
フランス

「フランス植民地帝国」および「フランスの地方行政区画」も参照

フランスは当初、カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。

西アフリカのセネガルも古くからのフランス植民地であった。

19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアのタヒチやニューカレドニアなどの植民地化に成功した。

これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。

なおタヒチでは、1990年代フランス政府の核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を実行、現在も独立闘争が続いている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0から。

東ベルリン事件…ウィキペディアから。

2012年08月25日 08時50分29秒 | 日記
東ベルリン事件(ひがしべるりんじけん)は、東ベルリンの在東独北朝鮮大使館と接触し、韓国に対する北朝鮮のスパイ活動や北朝鮮訪問を行っていた嫌疑で、1967年7月に韓国中央情報部がヨーロッパ在住の韓国人教授・留学生を大量に逮捕した事件。

国家情報院が2005年2月から再調査を行い、2006年1月に「事件は捏造でなかったものの、被疑者に対し強引なスパイ罪の適用があった」との結果報告を発表した。

事件の経緯

1967年7月8日、韓国中央情報部(KCIA)は東ドイツ駐留の北朝鮮大使館と接触した194人の韓国人を逮捕したと発表し、容疑者達が行った「事件」の概要を説明した。

KCIAの調査によれば、1958年9月5日から1967年5月20日までの間に、ヨーロッパ、特に西ドイツへと留学していた大学教授・留学生を中心とする194人の韓国人が、東ベルリンを拠点とする駐東ドイツ北朝鮮大使館と居留地を往来しながら、北朝鮮の工作員と接触していた。

そして、このうち7人はモスクワ経由で平壌を訪問し、李孝淳・徐哲など朝鮮労働党の対南工作事業の幹部たちと面会して工作指令を受けていた、とされる。

この事件は、画家の李應魯や作曲家の尹伊桑などの著名な芸術家を含め、多くの学者や学生達が係わったとされたことから、韓国内外で大きな物議をかもした。

また、当時の韓国は西ドイツと犯人引導協定を結んでいなかったことから、KCIAの捜査官達が直接西独へと赴き、「任意同行形式」を装った不法連行で尹伊桑ら17人を帰国させた。

そのため、韓国は一時期西ドイツとの間で17人の身柄を巡る外交問題を抱え、両国関係で窮地に立たされることとなった。

KCIAの「事件」公表後、事件に関してさまざまな疑惑が提起されたにもかかわらず、容疑者194人のうち107人は韓国当局によって「スパイ罪」で立件され、死刑や無期懲役といった有罪重刑判決をことごとく宣告された。

韓国当局による一連の行動は、韓国国内外の世論から強く非難され、同時に西独は韓国に帰国させられた韓国人の「原状回復」を強く求めた。

これを受けた韓国当局は、事件の捜査を早急に終結させるとともに、尹伊桑ら強制的に帰国させられた韓国人を元に戻すことで事件の幕引きを図り、当局への影響を沈静化させた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6から。