■『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 三交社 2000年 p16~
・私の受けた戦後韓国の教育
私にとっての日本統治時代の朝鮮問題は、そもそも親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞いていながら、学校教育では「日本人は韓国人
にひどいことをした」と教わるという、まったく矛盾する事態にぶつかるようになったことに始まっている。
この矛盾の感覚は、やがて私の中で「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が優勢となって沈潜していった。が、日本に渡って日本生活を続けて
いくうちに、今度は自分の実体験を通してこの矛盾に再び襲われることになってしまった。
そのプロセスからお話したい。
私の母は昭和十年代のはじめ、14・5歳の頃に故郷の韓国済州島から日本へ渡った。
二人の兄弟が経営する大阪のプラスチック製造工場を手伝ったのである。
母の兄弟姉妹は一人を除いてみな大阪で暮らしていた。
母は日本に来て2・3年経った16歳の時に見合い話があっていったん故郷へ戻ったが、父と結婚するとすぐ、今度は父と一緒に鹿児島へ行き、父の兄が経営る箸製造工場の仕事をしながら、長女の出産を経ての数年間を終戦まで日本で生活した。
叔父さんの住む国・日本。
母が若い頃住んでいた国・日本。上の姉の生まれた国・日本。
私も私の兄弟姉妹も母から同じように日本のことを聞かされていた。
母は「日本のミカンはとても甘くておいしい」と言った。
韓国ではミカンは温暖な済州島でしか採れない。
当時の島にあった品種は夏ミカンではないが、日本のものより大分すっぱかった。
ミカンとはすっばいもの、しかし日本ではそれがとても甘いのだという。
母はまた、日本人はとても親切で、道に迷って「駅はどこですか」尋ねたりすれば、老若男女だれもがとても丁寧に教えてくれると言っていた。
お風呂の話も印象的だった。
当時の韓国には、まだお風呂に入る習慣は根付いていなかった。
日本の影響でできた銭湯が都会の一部にはあったが、田舎では台所でお湯を使い、汗を流す程度が普通だった。
そんな時代だったから、日本のお風呂や銭湯の習慣、また日本には各地に温泉があるといった母の話は、とてもうらやましく感じたものである。
以下続く。
http://dengon.holy.jp/kyk02.htmlから。
・私の受けた戦後韓国の教育
私にとっての日本統治時代の朝鮮問題は、そもそも親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞いていながら、学校教育では「日本人は韓国人
にひどいことをした」と教わるという、まったく矛盾する事態にぶつかるようになったことに始まっている。
この矛盾の感覚は、やがて私の中で「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が優勢となって沈潜していった。が、日本に渡って日本生活を続けて
いくうちに、今度は自分の実体験を通してこの矛盾に再び襲われることになってしまった。
そのプロセスからお話したい。
私の母は昭和十年代のはじめ、14・5歳の頃に故郷の韓国済州島から日本へ渡った。
二人の兄弟が経営する大阪のプラスチック製造工場を手伝ったのである。
母の兄弟姉妹は一人を除いてみな大阪で暮らしていた。
母は日本に来て2・3年経った16歳の時に見合い話があっていったん故郷へ戻ったが、父と結婚するとすぐ、今度は父と一緒に鹿児島へ行き、父の兄が経営る箸製造工場の仕事をしながら、長女の出産を経ての数年間を終戦まで日本で生活した。
叔父さんの住む国・日本。
母が若い頃住んでいた国・日本。上の姉の生まれた国・日本。
私も私の兄弟姉妹も母から同じように日本のことを聞かされていた。
母は「日本のミカンはとても甘くておいしい」と言った。
韓国ではミカンは温暖な済州島でしか採れない。
当時の島にあった品種は夏ミカンではないが、日本のものより大分すっぱかった。
ミカンとはすっばいもの、しかし日本ではそれがとても甘いのだという。
母はまた、日本人はとても親切で、道に迷って「駅はどこですか」尋ねたりすれば、老若男女だれもがとても丁寧に教えてくれると言っていた。
お風呂の話も印象的だった。
当時の韓国には、まだお風呂に入る習慣は根付いていなかった。
日本の影響でできた銭湯が都会の一部にはあったが、田舎では台所でお湯を使い、汗を流す程度が普通だった。
そんな時代だったから、日本のお風呂や銭湯の習慣、また日本には各地に温泉があるといった母の話は、とてもうらやましく感じたものである。
以下続く。
http://dengon.holy.jp/kyk02.htmlから。