「忘れがたい文士たち」水上勉…日経23ページから。
2011-11-27
昨年10月から今年の5月までの間だけでも、芥川が京都の庭園、神社・仏閣を訪れた回数は70回を超えていただろう事は読者の方にはお分かりのはず。
雪化粧だった金閣寺に行った元旦か2日に弊社専務はいみじくも言ったのだった。『昔の人は寒かっただろうね、大概じゃない寒さだったろうね』と。芥川が全く同感していたのは無論。
この時、芥川の脳裏には「金閣寺炎上」事件について、前人未踏の〈解答〉が浮かんでいたのだったが、
後日、ウィキペディアか何かで、その事を裏づけようとして、かのお坊さんの事を調べていた時、水上勉が同名の小説を書いていた事と、そのさわりを知ったのだった。
芥川の脳裏に浮かんでいた事に極めて近い所で…水上勉は、このお坊さんと、何処かの寺に預けられていた時、一緒だったのだから当然と言えば当然だろうが…書いていた訳であった。
今朝、日経と朝日が手元に届いて、真っ先に芥川の目に飛び込んで来たのは日経23面に在った編集委員 浦田憲治による「忘れがたき文士たち」水上勉 だった。
…前略。
例えば、水上さんを一躍有名にした『雁の寺』。舞台は、水上さんが実際に小僧として修行した京都の相国寺の塔頭・端春院がモデルである。
水上さんと親しかった司修さんは、端春院などを徹底的に取材して「作家・水上勉と『雁の寺』」を書いた。それによると『雁の寺』には、若狭出身の小僧が犯す殺人事件をはじめとして多くの虚構が盛り込まれた。しかし若狭の風景や今も端春院に残っている雁の襖絵などの描写は驚くほどリアルで真実に迫っていたという。
「(水上)少年の寂しさや悲しさや憤憑は永遠に生き続けているのだ」。司さんはこう結論を下していた。
…後略。
2011-11-27
昨年10月から今年の5月までの間だけでも、芥川が京都の庭園、神社・仏閣を訪れた回数は70回を超えていただろう事は読者の方にはお分かりのはず。
雪化粧だった金閣寺に行った元旦か2日に弊社専務はいみじくも言ったのだった。『昔の人は寒かっただろうね、大概じゃない寒さだったろうね』と。芥川が全く同感していたのは無論。
この時、芥川の脳裏には「金閣寺炎上」事件について、前人未踏の〈解答〉が浮かんでいたのだったが、
後日、ウィキペディアか何かで、その事を裏づけようとして、かのお坊さんの事を調べていた時、水上勉が同名の小説を書いていた事と、そのさわりを知ったのだった。
芥川の脳裏に浮かんでいた事に極めて近い所で…水上勉は、このお坊さんと、何処かの寺に預けられていた時、一緒だったのだから当然と言えば当然だろうが…書いていた訳であった。
今朝、日経と朝日が手元に届いて、真っ先に芥川の目に飛び込んで来たのは日経23面に在った編集委員 浦田憲治による「忘れがたき文士たち」水上勉 だった。
…前略。
例えば、水上さんを一躍有名にした『雁の寺』。舞台は、水上さんが実際に小僧として修行した京都の相国寺の塔頭・端春院がモデルである。
水上さんと親しかった司修さんは、端春院などを徹底的に取材して「作家・水上勉と『雁の寺』」を書いた。それによると『雁の寺』には、若狭出身の小僧が犯す殺人事件をはじめとして多くの虚構が盛り込まれた。しかし若狭の風景や今も端春院に残っている雁の襖絵などの描写は驚くほどリアルで真実に迫っていたという。
「(水上)少年の寂しさや悲しさや憤憑は永遠に生き続けているのだ」。司さんはこう結論を下していた。
…後略。