文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

なにより今後20~30年もの間、民主化が進まなければ、中国経済の成長エネルギーは自然に枯渇していくしかない。

2019年06月05日 23時24分39秒 | 日記

以下は月刊誌「正論」今月号に掲載された中西輝政氏の論文である。
日本国民全員が必読の論文であるだけではなく世界中の人たちにも必読の論文である。
以下は「歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝をめぐる内政干渉から、近年の尖閣諸島への執拗な領土侵略行為へと、平成年間、中国による我が国への主権侵害はエスカレートする一方だった。」の続きである。
民主化の可能性は存在した 
天安門事件を今日振り返るにあたって、そして日中関係の未来を考えるにあたって最も重要な観点は、「中国の民主化の可能性」という点である。
共産党独裁の体制を放棄した中国に対してなら、我々はこれほどの緊張感をもって中国の行方を見つめる必要はないからだ。 
中国共産党はあの時、学生たちの民主化要求に人民解放軍による武力行使で応えて一党独裁体制を守った。
そして現在、習近平指導部のもと一段と独裁性を強めようとしている。
その強権姿勢は外部にも向かい、南シナ海、東シナ海へなどの周辺海洋への進出、あるいは「一帯一路」構想によるグローバルな覇権への挑戦という大きな動きにもつながっている。 
平成年間に急拡大した経済や軍事の力で、自国の国民のみならず他国をも従わせようとするその基本姿勢をみると、もし天安門事件が別の解決の仕方をしていたら、つまりあの時点から、たとえ徐々にでも民主化が進んでいたら、という「歴史のif」さえ問わざるを得ないのである。 
事件の背景を検証すると、文化大革命が1976年、毛沢東の死去によって終息へ向かい、78年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)で、鄧小平が国家の指導権を実質掌握して「改革開放」路線を打ち出した。
これは単なる経済成長戦略のように受け止められがちだが、会議では同時に、学生たちが周恩来の死を契機に天安門前で民主化要求デモを行った「第1次天安門事件」(1976年)の肯定的再評価も行われており、実は「改革開放」に踏み切った中国の新たな共産党体制は徐々にではあっても民主化していくことをも含意していたのである。 
80年代に入ると、ポーランドで自主管理労組「連帯」が発足(1980年)し、85年には旧ソ連でゴルバチョフ政権が成立して、「ペレストロイカ」という名の政治改革が始まった。 
この結果、80年代後半には、東西冷戦で自由主義陣営に対して敗色濃厚となったソ連が共産主義・社会主義の旗を降ろすのではないか、全体主義をやめて民主化するのではないかという議論が世界の大テーマになっていった。
そして、これが天安門事件の導火線にもなったのである。 
実際、中国では86年以降、各地で学生たちの「民主化要求」デモが頻繁に起きており、共産党最高指導部でも胡耀邦、趙紫陽という2人のリーダーが先頭に立って大胆な民主化を進めようとしていた。
しかし民主化に反対する党長老を中心とした保守派との路線闘争が指導部内で起こり、胡耀邦は87年に総書記を解任される。 
その失脚した胡耀邦が89年4月に死去したことを契機に、学生たちの民主化運動は天安門広場の占拠にまで急拡大した。
胡耀邦の後継総書記だった同じく改革派の趙紫陽は学生側を擁護したため、党内の反発を招き失脚、最終的に鄧小平が学生たちを武力で鎮圧する戒厳令の布告を決断した。
6月3日夜から4日にかけて人民解放軍の大部隊が出動し、一説には死者は数千人、全容すらいまだはっきりしないほど多数の学生、市民らが殺戮される大惨事となった。 
騒擾は北京にとどまらず、上海や広州、西安など各地に飛び火し、中国は一時、飛行機も飛ばず、外の世界と完全に切り離されて、外国人も出国できない事態となった。
まさに内乱前夜、中国共産党が「崩壊」の瀬戸際に直面する事態に立ち至ったのである。 
ここで重要なことは、事件に先立つ2~3年の間に、最高指導部を含めた中国共産党内部で、あるいは体制派のエリート知識人や学生たち、さらには多くの地方組織で指導的地位にあるサブリーダーたちが、中国の民主化の可能性を日夜真剣に議論していた、という事実である。
現にこの頃、中国各地を訪れた筆者も、あちこちでそれを見聞したものだ。 
他方で、人口13億人という巨大国家を、権力分散型で時には指導部に対する抑制という形で体制に遠心力も働く政治システムである近代民主主義の統治体制で果たしてまとめきれるのか、やはり中国は独裁政権でないとまとめきれないのではないか、という有力な見方は昔からあった。
また後述のように、権力による絶対的支配を正統化する文化的素地も中国には今日も根強くある。 
しかし筆者には、中国共産党がこのままの独裁体制を今後半永久的に、50年・100年というスパンで維持できるとは到底、思えない。
現在の党指導部は、ITやAIという電子技術の進歩を国民の監視という独裁手段の強化に利用しているが、それらはほんの少しでも状況が変われば、逆に民主化の追い風にもなる「諸刃の剣」でもある。 
なにより今後20~30年もの間、民主化が進まなければ、中国経済の成長エネルギーは自然に枯渇していくしかない。
マクロ経済政策が国家の統制管理という「独裁の論理」だけに従って動かされたら、経済成長余力は徐々に、あるいは早晩枯渇せざるを得ないからである。
それは自由な市場経済の発展を妨げ、「大いなる非効率」に陥ることを、かつての旧ソ連だけでなく多くの権威主義体制をとる中進国の停滞現象が証明している。
もし、中国が2049年までにアメリカを凌ぐ“世界の一流国家”になるという「中国の夢」を追い求めるのなら、どこかの時点で中国は民主化へと踏み切ることが避けられないだろう。 
今日、天安門事件について考えることは、単なる歴史の回顧にとどまらず、未来に向けた中国の民主化の可能性に思いを巡らせることにつながる。
それほとりもなおさず令和の時代の日本という国の存立を左右する問題であることを知ることでもある。 
天安門事件を現代史・文明史の文脈で考察するうえでの2つ目のポイントは、天安門事件を経験しなければ、中国は今日、アメリカの技術覇権に挑戦するような世界第2位の経済大国の高みに達することはできなかったはずだという「歴史の皮肉」である。 
旧ソ連が崩壊した時、政治の民主化から改革を始めたロシアの経済は長い低迷の混乱期に入った。
それを乗り越えるために今日、口シアは「ポスト共産主義の強権政治」を必要とし、その結果、誕生したのがプーチン政権である。
しかし独裁政治は「利権経済」を出現させ、健全な市場経済は育成されず、石油という唯一の資源産業に依存することによってかろうじて独裁体制が保たれるーという負のスパイラル構造に陥っている。
ソ連型改革の失敗が尾を引き、プーチン体制に見られるように自由経済の本来的発展原理の芽を摘まなくては政治と経済の安定が保てなくなっているのである。
その意味で、天安門事件がなければ中国は、民主化は進んだかもしれないが、ロシア同様の経済の困難にぶつかっていたともいえるのである。
対中制裁網はなぜ破綻したのか 
しかし、そこで1つの疑問に突き当たる。
自国の正規軍まで使って、自国民の「虐殺」という暴挙に出た中国という国について、少なくともアメリカを中心とする西側諸国は、価値観が自分だちとは決定的に相容れない国であると、あの時はっきりと認識したはずである。
それなのに、その後、なぜアメリカなど西側諸国は中国にあれほど甘く対応したのか、という疑問である。 
天安門事件後、確かに西側諸国(ここでは主としてG7など、当時の主要先進諸国)は厳しい対中制裁を課した。
しかし他方で、事件直後から、自由や民主主義といった理念を何より重視しているはずのアメリカ合衆国による無原則とも思える「対中再接近」が始まるのである。
なんと事件翌月の89年7月、当時の父ブッシュ政権は大統領の腹心の一人、スコウクロフト国家安全保障担当大統領補佐官を訪中させ、同年12月には同補佐官とイーグルバーガー国務副長官らを「特使」として派遣した。
ブッシュ大統領はこのとき早くも制裁緩和を示唆し、91年11月には対中制裁の一環として高官の訪中を禁じていた国際合意も無視してベイカー国務長官までもが訪中したのである。 
このアメリカの不可解とも言える姿勢が、対中制裁網がやがて破れていく―そして、今日の世界覇権をめざす超大国中国への歴史的歩みが始まる―有力なきっかけの1つになったことは間違いない。
特に事件翌月のスコウクロフト氏の訪中は、同盟国である日本にも知らせない極秘訪中だったことを我々は肝に銘じておくべきである。 
思い返せば1971年7月のキッシンジャー極秘訪中と、ニクソン大統領訪中計画の電撃発表もそうだった。
この時もやはり、アメリカ外交のそれまでの基本路線に追随して中華人民共和国を承認していなかった同盟国・日本には一切事前に知らせなかった。
このまさに「頭ごなし」のアメリカの対中接近に慌てた日本は焦って「日中国交正常化」に突っ走り、翌年9月に訪中した田中角栄首相が日中共同宣言に署名した。
同時に中国の要求をのんで台湾との国交を一方的に断絶し、現在にいたる禍根を残すことになったのである。 
筆者はいまも、戦後日本の運命を決定的に変えたものは、1つはキッシンジャー訪中であり、もう1つがこの(父)ブッシュ政権の天安門事件後の中国への対応だと考えている。
そして、この2つが示していることは、米中にはどこか隠微で、外からは容易にうかがえない不可解な関係があるということである。 
その「深淵な絆」の一端が、近年、ようやく表に出てきた。長く米政権の対中関係の最前線で活動し、現在のトランプ政権の対中強硬政策にも関わっているマイケル・ピルズベリー氏の『China 2049 秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」(原題“THE HUNDRED-YEAR MARATHON”』(日経BP社、2015年)の出版によってである。 
同書については、すでに多くの紹介もなされているが、中国は建国100年の2049年までにアメリカに代わって「世界覇権」を握ろうと着々と手を打ってきたのであり、そのためにしばしばアメリカを騙し、利用してきた―という総括とともに、アメリカが80年代、対ソ連戦略上、中国への最先端の武器技術供与や合同軍事作戦の実施など極秘裹の対中軍事協力を行ってきたことも暴露した点で衝撃的な内容であった。 
ただ、ピルズペリー氏の説明でも納得できない奇妙な箇所が、同書の随所にある。
1980年前後、鄧小平が改革開放路線を打ち出した直後、世界銀行の専門家たちが、時にはその意図を公にせず、あたかも中国と「共謀」してその中国の経済発展策を助言し、又深く関与してきたことを同書は明らかにしているが、そもそも世界銀行の関与にはアメリカ政府のお膳立てが必要だったはずである。
いったい、誰が、いつ、なにゆえに、そのような政策決定をしたのかをピルズペリー氏も明らかにしていないが、そこに米中の「深淵な絆」の存在を感じざるをえない。
このことは、さらに2000年の中国のWTO(世界貿易機関)加盟をアメリカ政府が至極安易に容認してしまったことにも重なってくるのである。 
日本人はこの、いわゆる米中陰結の「絆」に常に敏感でなければならない。
昨年10月のペンス米副大統領の「反中国演説」によって“米中新冷戦”が本格的に始まった、とわが国では盛んに言われている。
確かに、これまでのところアメリカは貿易交渉で安易な妥協は避け、制裁関税の対象や税率も拡大の一途で、強硬姿勢は崩していない。 
ただ、現在の米中対立が、中国が完全に白旗を掲げるまで、あるいは中国共産党が崩壊するまで続くなどと安易に決めてかかってはならない。
この米中の「深淵な絆」がいつ頭をもたげてもおかしくないという、二枚腰の米中関係観を持ち続ける必要があることを、天安門事件は日本人に教えているのである。 
この稿続く。


そこで国際報道及び宣と言う名のディレクターなる女性について検索して見たら、以下の記事が出て来た。2013年04月17日 「NHKで幹部に昇進した在日が4人李紀彦・玄真行・田容承・朴元瑛源」?

2019年06月05日 23時13分24秒 | 日記

そこで国際報道及び宣と言う名のディレクターなる女性について検索して見たら、以下の記事が出て来た。
2013年04月17日
「NHKで幹部に昇進した在日が4人李紀彦・玄真行・田容承・朴元瑛源」?
読者の方から、韓国人ディレクター「田容承」(チョン・ヨンスン)について教えていただき、少し調べてみました。
ネットで、「NHKで幹部に昇進した在日が4人李紀彦・玄真行・田容承・朴元瑛源」という情報が流れていた。果たして、この4人がNHKで幹部に昇進したのかどうか、確認することはできなかったが、NHKにかつて在職していたり(朴元瑛源)、NHKで放映された番組のディレクターを務めていたことは確認できた(李紀彦・玄真行・田容承)。NHKが韓国人や在日朝鮮人のディレクターをよく使っていることはわかった。
しかし、少なくともこの中の朴元瑛源(えのもとえいげん)は、子会社「NHKエデュケーショナル」にNHKから出向中、児童買春のため警視庁に逮捕され、東京簡裁から罰金50万円の略式命令を受け、2007年6月26日付けで懲戒免職処分になっていて、少なくとも現在、NHKに在籍していない「はず」である。もし在籍していたら、性犯罪者を復職させたことになり、大問題である。
NHK子会社社員の児童買春:懲戒免職処分に
2007.06.20 毎日新聞社東京朝刊 28頁 社会面 
NHKは19日、児童買春禁止法違反容疑で逮捕された子会社「NHKエデュケーショナル」語学部の朴元瑛源チーフプロデューサー(34)=NHKから出向中=を、26日付で懲戒免職処分にすると発表した。11日に東京簡裁から罰金50万円の略式命令を受け、NHKの調査にも犯行を認めたという。5月31日、高校1年の女子生徒に現金4万円を払ってわいせつな行為をしたとして、警視庁に逮捕された。
次に、田容承(チョン・ヨンスン)であるが、韓国・ソウル出身の韓国人ディレクターである。この人物はテレビ朝日のディレクターでもあったが、NHK「プロジェクトJAPAN」の一環である、ETV特集: シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」も担当している。NHKは、なぜ韓国人ディレクターを使ったのか、と放送当時から疑問が呈されたようである。この番組放映当時、来日して8年だったとのこと。
ETV特集「日本と朝鮮半島2000年」 NHKは韓国人に乗っ取られたのか?
韓国朝鮮のマスコミ侵略
次に、李紀彦だが、NHKの「よみがえる海峡を越えた絆・朝鮮通信史400年」という番組を担当したらしい。
最後の玄真行は在日韓国人2世。プロフィールに「1958年、東京生まれ。父母は、韓国済州島出身。」とある。東京ビデオセンターなどに所属しているらしいので、NHK職員ではなく、外注先ではないかと推測される。
◆プロフィール◆
1958年、東京生まれ。父母は、韓国済州島出身。
兄と2人の姉を持つ末っ子の玄に、父は、「自分のやりたいことをやれ」と言って聞かせていた。そんな父が高校2年の時、癌で急逝。ものを表現する自由な仕事をしたいと作家を夢見ていた玄は、家を出て、バイトをしながら受験勉強を続ける。母が影で支えてくれた。早稲田大学第2文学部に学び、84年テレビの制作会社テレコム・ジャパンに入社。活字志向だった玄にとって、テレビは未知の世界だった。そんな時、脳裏に浮かんだのが、遠い日、テレビを見て泣いていた母の姿。母は読み書きができない。でも、テレビは見られる。“お袋が泣くようなものを作っていこう”これが原点となり、今へ続くドキュメンタリー作家としての玄の支えとなっていく。
精力的な創作活動が評価される中「在日だから撮れる」との声に反発、「人間として人間を撮りたい」と“一番”を目指し、90年フリーに。和歌を詠む台湾老人に“言葉って何?”と問う「台湾万葉集?命のかぎり詠みゆかむ?」で数々の賞を受賞。初めて“これが自分の作品”といえるものとなったという。96年にはクリエイティヴ・ネクサスのチーフディレクターとなり、優れたドキュメンタリーを発表し続けてきた。
在日コリアンのための老人ホームを撮った「故郷の家」では、半年間在日一世を追い続け、母の姿を重ねた。作品が出来上がった時、母にやさしくなれた自分に気付き“ドキュメンタリーを撮ることは、人間として自分をマシにしてくれる”と思うようになったという。
節目の20年目、再びフリーとなって韓国に渡り、取組んだ「シャウト オブ アジア」。初の劇場公開作品である。

◆おもな演出作品◆
1988年  「幻の東京オリンピック」共同演出(テレビ朝日)※ギャラクシー大賞受賞
1995年  「台湾万葉集~命のかぎり詠みゆかむ~」(NHK)
        ギャラクシー(放送批評懇談会)選奨
        ATP(社団法人 全日本テレビ番組製作社連盟)郵政大臣賞
        ATPドキュメンタリー最優秀賞
1996年  「故郷の家~在日韓国・朝鮮人の特別養護老人ホーム~」(フジテレビ)
1997年  「巨鯨に挑む~インドネシアの海人ラマファー~」(関西テレビ)
        ATPドキュメンタリー最優秀賞
1998年  「神々の詩アリラン」(TBS)
        ギャラクシー奨励賞
1999年  「幻の鯨イッカク~北極・人間たちの大地へ~」(関西テレビ)
        ATPドキュメンタリー最優秀賞
        ギャラクシー奨励賞    
2003年  「アジアの歌」(BSフジ)
2005年  「シャウト オブ アジア」 4月23日~5週間 (渋谷シネ・ラ・セット)
2005年  「にんげんドキュメント かあちゃんは好敵手 棋士・藤沢秀行と妻モト」 (NHK)
        ATP2005 グランプリ 受賞
        ATPドキュメンタリー最優秀賞
2005年  「そして僕は日本で生まれ育った~在日コリアン・家族の100年~」 (NHK)
1995~2005年までの一連の演出に対して ATP特別賞(個人賞)受賞
HV特集 この国を見つめて「新在日外国人」
玄氏の両親は在日1世だ。自らの意思でなく”日本”にやってきて、*ここからして既に嘘なのだから、後は押して知るべしだろう*玄氏は小・中・高・大学と日本語での教育を受けた。国籍は「韓国」で、パスポートにも韓国名が記されている。だが、彼は韓国語が出来ない。
彼の仕事の後輩=ジョン・ヨン・スンは韓国人で、日本で映像の仕事に携わっている。ジョンにとって韓国で映像の仕事をする事よりも、大変でも他国で仕事をする事のほうが面白い・・・・そう考えて日本で仕事をしているのだそうだ。
最初ジョンにとって、在日韓国人にどう接したら良いのか、わからなかったし、玄氏のパスポートの韓国名にも驚いたそうだ。日本で暮していても「日本人」にはならない。
http://www.tvc-net.com/shas/director.html


さっきまでNHKの国際報道を観ていたのだが、この番組を制作している人間達は一体、真正な日本人なのか、と、見ていて気持ちが悪くなって来た。

2019年06月05日 23時06分47秒 | 日記

さっきまでNHKの国際報道を観ていたのだが、この番組を制作している人間達は一体、真正な日本人なのか、と、見ていて気持ちが悪くなって来た。
まず、特集と称して、底の浅い、取材も一面的でお粗末なトランプ批判を報道する。
幼稚園児でも分かるレベルで、大豆農家経営者であるという人物を登場させる。
曰く、父親の代からの共和党支持者で、トランプ大統領に投票した。
だが今回の米中貿易戦争には反対だとして、ニューヨーク・タイムズに何度も登場していたと言う。
この辺りからして胡散臭いのである。
本物の共和党支持者がニューヨーク・タイムズに何度も登場して共和党の大統領批判を行うという構図が、そもそも幼稚園児以下だろう。
中国は、今、これまで存分に米国内に潜り込ませて来た人間達、工作下にある人間達を総動員して、トランプ大統領を落選させるための工作を繰り広げているはずである。
NHKが、中国に与している放送局である事を、色濃くにじませた特集である。
続いての特集と言うのが、本当にしょうもない、韓国の女性が書いて韓国でベストセラーになっているという小説の話。
韓国は儒教の国で男尊女卑の国である事を、今頃、知ったかの様に、報道し、女性キャスターは、「日本語版を読んで、共感する所が一杯あった…自分も28歳なので…」などと、日本人としては、勘弁してくれよ、というレベルのコメントをする。
受け応えている男性キャスターは…交代して時から、妙な顔をして男だな、と思っていたのだが…
この番組のキャスターになる前は、ソウル支局に居たのだと言う。
もう開いた口も塞がらない。
おまけに、この特集を作ったディレクターという女性の名前が宣某と言って、妙なアクセントの日本語を話しながら登場した。
見ていた慧眼の士達は皆、唖然・呆然としたのではないだろうか。
一体、この放送局は、どこの国の放送局で、どんな放送局なんだ…。
もうこの番組は見れないな。
こんなものを見ている事は全くの時間と人生の浪費である。
クワバラ、クワバラ、明日以降は、さっさと寝るか、読むべし月刊誌や書籍を読むべし。


以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年06月05日 19時36分18秒 | 日記

1

辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、

2

中国には「東郭先生」という昔話がある。東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした

3

しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。

4

91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。

18PV

5

しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。

6

天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた

7

2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。

8

そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。

9

Beijing has no 'The Grateful Crane'. There isn't 'The Grateful Crane' in Beijing.

10

天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 


全国人民に祖国の利益を売り渡し、祖国の尊厳を損害し、国家の安全を危険にし、祖国を分裂される言動一切に対して、断固とした闘争を行うよう教育する。民族団結の教育を行わなければならない

2019年06月05日 19時18分37秒 | 日記

以下はネットで発見した記事である。
2.愛国主義教育の主要な内容
愛国主義教育の素材は非常に広範である。歴史から現実、物質文明から精神文明、
自然風景から物産資源までおよび、社会生活の各領域のすべてには愛国主義教育を
極めて豊富に実行する至宝が潜んでいる。
国情資料を運用することにたけなければならず、また各種の貴重な教育資料を掘り起こすことに注意し、不断に愛国主義教育の内容を豊富にする。
中華民族の悠久な歴史の教育を行う。我が国人民の愛国主義精神は中華民族の長い歴史過程の中で発生し発展してきた。中国歴史、特に近代史と現代史の教育を通じて、人々に中華民族の自彊してやまず不撓不屈の発展の過程を理解させ、我が国の各民族と人民は人類文明に対して卓越した貢献をしたことを理解させ、我が国の歴史上の重大事件と著名な人物を理解させ、中国人民が外来からの侵略と圧迫に反対し、堕落した統治に反抗し民族独立と解放を勝ち取とり、勇敢に前進し、血を浴びて奮闘した精神と業績を理解させ、中国共産党が全国人民を指導して新中国を建設するために勇敢に戦った崇高な精神と栄光ある業績を特に理解される。
中華民族のすぐれた伝統文化教育を行わなければならない。
中華民族は、光り輝く中華文明を創造する過程で、大きな生命力のある伝統文化を形成し、その内容は、広くて深く、哲学・社会科学・文学芸術・科学技術などの方面の業績を含むだけでなく、崇高な民族精神・民族気骨と優良な道徳をも潜んでいた。
多くの傑出した政治家・思想家・文芸家・科学者・教育者・軍事者を育んだだけでなく、かつ豊富な文物史跡・経典著作などを残しており、この豊かな文化遺産は愛国主義教育を行う際貴重な資源となる。
祖国の言語や文字を正確に使用しなければならず、強力に普通話を普及しなければならない。
党の基本路線と社会主義現代化建設の達成に関する教育を行う。
党の基本路線と我が国社会主義建設の達成は、すなわち愛国主義教育の最も現実的で生き生きとした教材である。
党十一期三中全会 以来の改革開放と現代化建設という巨大な業績と成功の経験に特に注意して教育を行い、人民大衆に一層社会主義への信念を堅くし、党の基本路線を堅持して動揺しないようにさせなければならない。
中国の国情教育を行わなければならない。
国情教育は世界環境全体という大きな背景の下で行わなければならない。
人々が、系統的に我が国の経済・政治・軍事・外交および社会・文化・人口・資源などの方面に関する歴史と現状を理解するするのを助け、我が国の現代化建設の目標と段取りや壮大な見通しを理解させ、かつ中国と世界の他の種類を異にする国家との対比のなかで、我が国の優位と隔たり、優位な条件と不利や要素を見て、使命感と社会への責任感を増強し、刻苦奮闘し勤勉節約という建国の創業精神を更に発揚する。
国情教育は省情・市情・県情教育と結びついて行われなければならない。
社会主義の民主と法制の教育を行わなければならない。
我が国憲法と法律は広範な人民の意志と利益を体言するものであり、
広範で深く掘り下げた民主と法制の教育を通じて、人々が我が国の政治制度・経済制度・その他各制度を理解するのを助けなければならない。
国家観念と国家の主人公としての責任感を増強し、法を遵守する習慣を養い、憲法と法律が規定する公民の権利を正確な行使と同時に、憲法と法律が規定する公民の義務を忠実に履行し、国家の利益を断固として守る。
国防教育と国家安全教育を行わなければならない。
新時代の特徴に基づいて、現代国防教育を重視し、全国人民の国防意識と国家安全意識を増強し、軍政と軍民の団結を強化し、全国人民に外敵の侵略に抵抗し、祖国の独立を防衛し、国家主権と領土保全を守る自覚を強化する。
全国人民に祖国の利益を売り渡し、祖国の尊厳を損害し、国家の安全を危険にし、祖国を分裂される言動一切に対して、断固とした闘争を行うよう教育する。
民族団結の教育を行わなければならない。
中華民族は一つの多民族の大家庭であり、内地であろうが、辺境であろうが、漢民族の地区であろうが、少数民族の地区であろうが、マルクス主義の民族観と宗教、それに党の民族政策と宗教政策の教育を強化して、
各民族人民に、民族団結と祖国の統一を守るためにたゆまぬ努力と歴史的な貢献をするように宣伝する。
各民族人民のなかで、漢民族は少数民族と離れならず、少数民族は漢民族と離れられないという思想を強固にし、民族の団結と祖国の統一を
守ることを自覚する。
「和平統一、一国両制」方針の教育を行わなければならない。
党と政府の祖国統一問題における基本的な立場と方針政策を全面的で正確に宣伝し、人々に祖国統一の作業の進展状況と重点を理解させる。ホンコン、マカオ、台湾の同胞による祖国統一のため貢献を宣伝することに注意し、国外の華僑や海外から帰国した人々の愛国・愛郷の業績を


最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。天安門事件後の状況に似てきている。そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている

2019年06月05日 15時06分00秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。
天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 

2019年06月05日 15時04分15秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。
天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える

2019年06月05日 15時02分38秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。
天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。

2019年06月05日 14時57分35秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。
天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


中国には「東郭先生」という昔話がある。東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした

2019年06月05日 14時54分10秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。

2019年06月05日 14時52分28秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた

2019年06月05日 14時50分47秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。

2019年06月05日 14時49分33秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。

2019年06月05日 14時45分27秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。


しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。

2019年06月05日 14時35分30秒 | 日記

以下は今日の産経新聞に掲載された矢板明夫さんの連載コラム「中国点描」からである。
矢板さんが中国残留孤児として中国で育った経歴を持つ、当代有数の中国通の一人である事は、今や、多くの人が知っているはずである。
北京に「鶴の恩返し」はない
「海部俊樹さんに会う機会があれば、直接聞きたい。なぜあのとき、中国への経済制裁をやめたのか」 
5月下旬、東京都大田区の小さな居酒屋で、中国の民主活動家の元学生リーダーである王丹氏はビールを一口大きくあおり、語気を強めた。 
1989年6月に起きた民主化運動が弾圧された天安門事件後、中国当局の指名手配名簿の1位だった王氏は、海外逃亡のチャンスを放棄して、刑務所に入ることを選んだ。  
「獄中で戦い続けることは、亡くなった仲閧たちへの供養だ」という王氏。
「戦車を出動させて学生を虐殺する政権を、国際社会が認めるわけがない。民主主義国家は、必ず自分たちの戦いを応援してくれる」とも考えていたという。 
しかし、世界中が人権と民主化問題で中国を厳しく糾弾し、経済制裁による対中包囲網を形成するなか、日本が真っ先に対中円借款を再開した。
91年8月、王氏が刑務所の中で当時の首相、海部氏が天安門事件後、主要国家の首脳として初めて訪中したニュースを聞いたとき「涙が出るほど悔しかった」という。 
一方、海部訪中の実現を中国の外務当局者は、「対日外交の大きな勝利だ」と位置付けていたという。
当時の日本政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者は、「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思いがあった」と説明した上で、「中国を国際社会に巻き込めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待もあった」と話した。
海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる形で天皇訪中も実現。
国際社会での中国の孤立解消に日本が大きな役割を果たした形となった。 
しかし、中国が国を挙げて天皇の訪問を歓迎していた92年秋、江沢民政権は国内各地で100ヵ所を超える抗日戦争記念館の建設に着手し始めた。
天安門事件で失った共産党の威信を維持するのに、民族主義をあおるしかないと考えた江政権は「愛国主義教育大綱」をまとめ、日中戦争を題材に「日本批判キャンペーン」を静かに始めた。
2000年以降、中国国内で度々、反日デモが起き、日本企業が焼き打ちにあうこともあった。
主役となったのは、みな江沢民時代に愛国主義教育を受けた世代だ。       
中国には「東郭先生」という昔話がある。
東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。
しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした。
そこに通りかかった農民がオオカミをスキでたたき殺し「オオカミ相手に仁慈を説いたりしてはいけない」と東郭先生を説教したというあらすじだ。
小学校の教科書にも載っているこの昔話をほとんどの中国人が知っている。 
「鶴の恩返し」など「優しい人は報われる」を説く日本の昔話と違い、中国は子供に「同情心を乱用するな」と教える。天安門事件後、日本が共産党政権のためにした数々のことは、共産党幹部の心の中で、東郭先生のように嘲笑の対象になっていただろう。 
最近の米中対立で、中国は再び国際社会で孤立しはじめている。
天安門事件後の状況に似てきている。 
そして、中国の外交も、再び日本にシフトし始めている。
王丹氏ら民主活動家を悲しませないため、日本は二度と東郭先生になってはいけない。