文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

以下はアメーバでの昨日の検索数ベスト50である。

2019年06月03日 23時04分04秒 | 日記

1

TBSが反日的報道をする理由を知っていますか?

 

2

合計して8億ドルである。この金額は当時のものであるので、貨幣価値を今の時代に換算してみる。

 

3

立命館大学の教授をしていた事には驚いたが、この男の一番弟子が箱田哲也である事には更に驚き呆れた

 

4

NHK、TBS、テレビ朝日、朝日新聞などの偏向報道が何故あれほど酷くて執拗なのかを完璧に明らかに

 

5

韓国人に歴史の真実という「パンドラの箱」を開けさせないのである。だから韓国人は歴史の真実を知らな

 

6

鳩山由紀夫が韓国で何を行っているのかを初めて知った人達は、呆れ果てるだけではなく心からの怒りを

 

7

国民に対して説明責任のあるA級戦犯記者どもは以下の3名。①読売新聞 越前谷知子

 

8

彼は実態は北朝鮮の工作員であると言っても全く過言ではない人間である。

 

9

これは李氏朝鮮時代に行われた「周牢(チュリ)」という拷問であり、

 

10

このような番組を作り続けている放送局から免許を取り上げなければならない時も、とうに来ている

 

11

NY.Timesやワシントンポストなどは反日プロパガンダの工作下にあるといっても全く過言ではない

 

12

デーブ・スペクター「韓国は何がしたいんでしょうね。(ボロクソに言う)」 ワイ「今後絶対に韓国には

 

13

重信房子支援者が勤務していた高槻市の光愛病院の創設者は日本赤軍の前身である共産主義同盟(ブンド

 

14

辻元清美や福島瑞穂は典型的な在日朝鮮人の反日思想です。

 

15

ドイツ人は日本が嫌いだ。ロシア人は準白人だから日露戦争で日本に負けてもそう気にはしなかった。

 

16

歴史の真実を直視しない韓国人に未来はない。まずは大本を正すべきだ。話はそれからだ。

 

17

福島瑞穂、辻元清美、蓮舫、故・土井たか子、このような国会議員たちの実態が「売国議員」であることは

 

18

韓国に対し現在の貸付金残高が国家として貸し出し中の67兆5800億円(本来、1982年に完済予定

 

19

彼らが日本国と日本国民に対して与え続けて来た損害は、既に、天文学的な額に達しているのだから

 

20

さらに、日本は戦前韓国に残した資産を放棄している。これはインドが英国から独立したとき、イギリス人

 

21

東京でも練馬区あたりでは、一族がチャーター機でヨーロッパに遊びに行くというような話もあった。

 

22

だから私は即座に気づいたのだ。この延世大学が反日プロパガンダの本拠地、KCIAの暗躍の本拠地の一

 

23

鴻海会長のテリー・ゴウは、中国共産党とつながっていますから。

 

24

NHKは、なぜ韓国人ディレクターを使ったのか、と放送当時から疑問が呈されたようである。

 

25

中国では携帯電話が完全に盗聴され、私がどこにいるか、という情報も常時簡単に把握されています。

 

26

こんな番組がNHKの名前の下に今なお作られている事が、私たちの国の最大の弱点であり問題なのである

 

27

その証拠に、韓流ブーム捏造と韓流ゴリ推しTVが、繰り広げられてきました。

 

28

NHK、TBS、テレビ朝日の偏向報道が何故あれほど酷くて執拗なのかを完璧に明らかにしている。

 

29

日本赤軍が市民団体(ピースボート)を関連組織と位置付けている事が分かり、今回の捜索に踏み切った。

 

30

とんでもない奴隷制度国家だったと言っても全く過言ではない朝鮮半島のDNAを持つ者ではないか?

 

31

ハリウッドが中国資本に籠絡され出したという報道が伝えられた頃から殆ど観なくなった。

 

32

問題は、こういう「歴史の真実」を韓国人が知らないことだ。慰安婦問題も同じだ。

 

33

スクープ!金正恩暗殺未遂事件、なぜ韓国駆逐艦はレーダー照射したのか…西岡力氏の論文からである

 

34

確かに英語に統合失調症という名称はなく、schizophrenia(精神分裂病)のままである。

 

35

NHKの左翼ドキュメンタリー屋にとって目の上のたん瘤だった籾井会長が2017年初頭に退任し、

 

36

映画「マラソンマン」で歯医者が歯に穴をあけて拷問するシーンがあった。 

 

37

日韓関係、石破茂らの綺麗事 なぜだろうか。秘密は、彼ら自民党有力議員たちの「韓国利権」にある。

 

38

郷里の鶴岡空港に降り、鶴岡市まで行く間に、草ぼうぼうの土地がたくさんある。減反政策で耕作できない

 

39

この正体不明の女性が日本ではなくフランスで、このような事を行う事についての怪しさを疑う知性もない

 

40

沖縄の二紙などは完全に中国や朝鮮半島、或いは共産党の工作下にある新聞会社だから議論の余地もない

 

41

朝日新聞・豊秀一の恥知らずな講演 朝日新聞の豊秀一という記者が、韓国までノコノコ出かけて行って、

 

42

辻元夫婦の大親友の崔竜海が実質NO2の金正恩側近に昇格している。

 

43

清朝が国書を受け取り、正式な外交関係が始まっても、朝鮮の態度は変わらなかった。

 

44

ディレクターの新山賢治はNHK理事、NHKエンタープライズ取締役を歴任した大物。伯父がインパール

 

45

「Y」を一貫してつなげているのは、まさに日本の皇室だけ。世界の王室を見渡しても、存在していません

 

46

Then, it came to 'the Japanese spirit'.

 

47

NHKは…優生保護法が、何時、誰が主唱して作られたのか、その経緯については決して報道しない

 

48

つまり世界中で同様の工作が行われていて彼らに支配されている人間達は世界中にいる事を示している章

 

49

当時の肩書きは “朝日新聞大阪本社社会部次長” とあります。なぜ、この肩書きが朝日新聞 WEB

 

50

朝鮮が絡むと、必ず塩田純が制作に関与している。

 

 

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以下は今日の公式ハッシュタグランクイン記事一覧である。

2019年06月03日 22時57分27秒 | 日記

公式ハッシュタグランクイン記事一覧

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以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年06月03日 22時55分20秒 | 日記

1

これがハル・ノートという事実上、アメリカの最後通告によって突如びっくり返り、日本は開戦へと踏み切らざるを得ない状況に追い込まれてしまった。 

2

寺内大将が気に入らないとした人たちは内閣を成立させるために入閣を辞退し、陸軍との妥協が成立して廣田内閣は発足した。

3

「軍部大臣現役武官制の廃止」は山本権兵衛内閣の時、木越安綱陸相が自分の前途を棒にふる大変な努力をして成し遂げたものだった。

4

天皇陛下が、立憲君主制というものについての教育を受けられすぎたことが悲劇の一つではなかっただろうか。

5

以下はリアルタイムのベスト10である。

6

いまではこの「田中上奏文」は、コミンテルンが世界中にばら撒いた偽書であるということがはっきりしている。 

7

だから法廷で証言させることもできたであろうにそうしなかったのは、判事を出しているソ連に不利になるからだったろうと推定するのが自然であろう。 

8

これを左翼や外国人は、戦争を終わらせることができる人が、なぜ始める時に止めなかったのか、だから天皇には戦争責任があると言う。

9

軍隊が訓練以外で実弾を発砲できるのは平時編制から戦時編制に切り替えた時だけであり、その命令を出すのは天皇陛下だけだからだ。

10

辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、

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以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年06月03日 21時04分26秒 | 日記

1

これがハル・ノートという事実上、アメリカの最後通告によって突如びっくり返り、日本は開戦へと踏み切らざるを得ない状況に追い込まれてしまった。 

2

辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、

3

理屈も筋も通らない反対は、憲法改正を阻止するためであろう。 もしそうであるなら、国民を信頼していないということだ。

4

むしろ憲法については十分論じてきたとはいえない日本だけに、できるだけ多くの議論と情報を有権者に届ける方がよいと私は考える。

5

スターリンから、アメリカと日本を戦争させろという命令が下っていたのである。  もちろん、満洲およびシナでも共産党がなければ、あのような反日運動は起こらなかっただろう。

6

来年1月の台湾総統選挙で台湾人の政党である民進党が国民党に敗れれば「政権交代を超えて、台湾から中国へと祖国交代になる」

7

「軍部大臣現役武官制の廃止」は山本権兵衛内閣の時、木越安綱陸相が自分の前途を棒にふる大変な努力をして成し遂げたものだった。

8

沖縄県知事の玉城デニー氏は「中国公船がパトロールしている。故意に刺激することは控えなければならない」と地元漁民側を批判した。*この玉木デニーというのは日本人ではなく中国人なのだろう

9

日本近接の済州島は沖縄に近い状況だ。 大量の中国マネーが投入され、各所の土地が買収されている。 

10

寺内大将が気に入らないとした人たちは内閣を成立させるために入閣を辞退し、陸軍との妥協が成立して廣田内閣は発足した。

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Bob Dylan - Queen Jane Approximately (Audio)

2019年06月03日 20時25分34秒 | 日記

Bob Dylan - Queen Jane Approximately (Audio)

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阿弥陀如如来と一緒に来迎する各種の楽器を奏でる菩薩たちの彫刻は世界最高の一つであると思っている事は以前に言及した通り。全ての展観品が素晴らしいのは無論なのだが…

2019年06月03日 19時49分28秒 | 日記

私がGWの季節に必ず行く場所の一つに宇治の三室戸寺がある。
ここのツツジの景観と鶯の饗宴は日本一と言っても過言ではない。
今年も二度訪れた。
二度目の時の事である。
宇治駅に帰る途中のタクシーで、運転手さんが…「今年は平等院の藤の評判が良い…」、即座に予定を変更して平等院に向かった。
この10年間に、ここにも数十回、来ている。
藤棚は、これまでで一番と言って良いぐらい見事だった。
それだけで帰るのも何だからとミュージアムに寄ったのだが…
やっぱり、ここのミュージアムは良い、何度来ても良い、最高だ、と同行者も頷く。
私が…
阿弥陀如如来と一緒に来迎する各種の楽器を奏でる菩薩たちの彫刻は世界最高の一つであると思っている事は以前に言及した通り。
全ての展観品が素晴らしいのは無論なのだが…


九品来迎図の前に立った時に…
私の脳裏に、流れて来たのがボブ・ディランの曲だったのには我ながら驚いた。
だが、直ぐに思った…そうか、彼の歌はそういう歌でもあるのだ…と
ジョン・レノンと並んで、僕の人生を支えて来てくれた音楽である。
…その中から流れて来たのが、何故、♬Jokerman♬だったのだろうと、も思ったのだが。
その歌詞を見れば、慧眼の士の読者の人たちも、さもありなん、と思うだろう。

Bob Dylan - Jokerman

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以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年06月03日 19時45分43秒 | 日記

1

辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、

2

理屈も筋も通らない反対は、憲法改正を阻止するためであろう。 もしそうであるなら、国民を信頼していないということだ。

3

これがハル・ノートという事実上、アメリカの最後通告によって突如びっくり返り、日本は開戦へと踏み切らざるを得ない状況に追い込まれてしまった。 1
むしろ憲法については十分論じてきたとはいえない日本だけに、できるだけ多くの議論と情報を有権者に届ける方がよいと私は考える。

5

スターリンから、アメリカと日本を戦争させろという命令が下っていたのである。  もちろん、満洲およびシナでも共産党がなければ、あのような反日運動は起こらなかっただろう。

6

来年1月の台湾総統選挙で台湾人の政党である民進党が国民党に敗れれば「政権交代を超えて、台湾から中国へと祖国交代になる」

7

沖縄県知事の玉城デニー氏は「中国公船がパトロールしている。故意に刺激することは控えなければならない」と地元漁民側を批判した。*この玉木デニーというのは日本人ではなく中国人なのだろう

8

日本近接の済州島は沖縄に近い状況だ。 大量の中国マネーが投入され、各所の土地が買収されている。 

9

沖縄県知事の玉城デニー氏は「中国公船がパトロールしている。故意に刺激することは控えなければならない」と地元漁民側を批判した。 

10

ソ連崩壊は社会主義陣営の限界を露呈し、天安門事件は自由や人権の徹底弾圧なしには存続不能な中国共産党の異形さを暴露した。

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これがハル・ノートという事実上、アメリカの最後通告によって突如ひっくり返り、日本は開戦へと踏み切らざるを得ない状況に追い込まれてしまった。 

2019年06月03日 17時53分47秒 | 日記

以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後の世界で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない
日本はコミンテルンの魔の手に踊らされた 
前章で述べたように、戦後、昭和天皇は連合軍総司令官に「subject to」、つまり隷属させられていた。
だから終戦翌年(昭和21年〈1946〉)のいわゆる「人間宣言」と称せられている詔書など、当時の天皇陛下のお言葉は、すべて被脅迫状況のなかで発せられたものであり、そのまま額面どおり信用すべきものではない。
マッカーサー元帥はこの詔書に満足の意を表したと報道されている。
マッカーサーを満足させるための詔書であることは明らかであった。 
もっとも、この詔書をよく読むと「単ナル神話卜伝説二依リテ生ゼルモノニ非ズ」とあるから、神話と伝説を否定したわけでもなく、「それだけが根拠でない」と言っているとも解釈できる。
天皇が現御神(西洋のデウスとかゴッドではない)であることを否定しているわけでもない。
ただマッカーサーに渡った英訳文(これを私は見たことがない)では、マッカーサーを満足させるようになっていたのであろう。 
いずれにせよ、天皇陛下は西洋で言うところの「ゴッド」ではないが、依然として日本の神道の中心であられることは紛れもない事実である。
昭和天皇を中心に昭和史を見るというのは、一つのオーソドックスな見方だと思う。
ここではその見方について伝えよう。 
昭和天皇が不幸であられたのは、ご成長なされるのと前後してロシア革命が起こったことである。
ロシア革命は昭和天皇だけに関係があったことではないが、ロシア革命が起こったあと、スターリン政府が日本に向けて「皇室をなくせ」という指令を出した。
これがコミンテルンによる、いわゆる「22年テーゼ」「27年テーゼ」「32年テーゼ」などというものである。 
コミンテルンが創設されたのはロシア革命から2年後の大正11年(1922)で、日本共産党は大正11年(1922)に「コミンテルン日本支部」として発足した。
その「コミンテルン日本支部」である日本共産党に出された「22年テーゼ」(大正11年)を例に挙げると、以下のような項目になる。 
「天皇制の廃止。貴族院の廃止。現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止。労働者の武装。朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の撤退。天皇および大地主の土地の没収とその国有化」
こんなことが貧弱な一組織である共産党にできるわけがないにもかかわらず、コミンテルンはこのような指示を出した。 
ちなみに、日本でもよく使われる「天皇制」という呼称はコミンテルンが作ったもので、日本人は「皇室」と呼ぶべきである。
この辺りのことは、谷沢永一氏の『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』(PHP研究所)に詳しく書かれている。 
コミンテルンの「天皇制の廃止」命令を受けて、日本は治安維持法を作らなければならなくなった。
スターリンの指令はこういういろいろな悲劇を生んでいる。 
ロシア革命というものがなく、コミンテルンが暗躍しなければ、20世紀は平穏な時代であったのではないだろうか。 
まず、ロシア革命がなければヒトラーは生まれなかった。
ヒトラーはロシア革命、つまり共産党に対するドイツでの反対運動のなかから出てきた人物である。
しかし、ナチスというのはドイツ国家社会主義的労働者党(die Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)だから、ヒトラーも社会主義者にほかならない。
したがって、ヒトラーとスターリンの戦争は左翼同士の喧嘩ということになる。 
また、イタリアでも共産党とムッソリーニ首相が対立した。
ムッソリーニはもちろん左翼である。 
これを大学紛争に譬えると、共産党の代々木派と反代々木系の中核や革マルの争いだと言える。
大学紛争の頃、左翼同士がお互いをファシストと罵り合っていた。
つまり、スターリンは民青、ヒトラーはドイツの中核派、ムッソリーニはイタリアの革マル派だと言ってもいい。 
コミンテルンの魔の手はアメリカにも伸びて民主党の中心部に食い入り、これがアメリカを日本との戦争に駆り立てていく。 
東條英機首相はアメリカとの交渉にあたって、昭和天皇のご意思に忠実に全力を尽くして和平への道を探っていた。
アメリカが一歩も譲らないのを受けて、最終的に日本はこれで話がつくであろうという乙案を出した。
これがハル・ノートという事実上、アメリカの最後通告によって突如ひっくり返り、日本は開戦へと踏み切らざるを得ない状況に追い込まれてしまった。 
このハル・ノートはハル国務長官が書いたものではなく、実際はハリー・ホワイトという財務省の役人が書いたものだが、彼はソ連のエージェントだった。
スターリンから、アメリカと日本を戦争させろという命令が下っていたのである。 
もちろん、満洲およびシナでも共産党がなければ、あのような反日運動は起こらなかっただろう。
ソ連のコミンテルンの魔の手に日本は踊らされたのだ。 
昭和天皇の御代の大部分がソ連共産主義と同時代であったということは、悲劇だった。
多少の救いと言えば、昭和天皇がソ連の解体に連なるペレストロイカ(ツ連建て直し政策)をご覧になってからお亡くなりになったことである。 

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天皇陛下が、立憲君主制というものについての教育を受けられすぎたことが悲劇の一つではなかっただろうか。

2019年06月03日 17時17分52秒 | 日記

以下は前章の続きである。 
なぜ開戦を止められなかったか 
昭和天皇がもう一度、発言なさったのは終戦時だった。
開戦時には発言されず、終える時に発言された。 
これを左翼や外国人は、戦争を終わらせることができる人が、なぜ始める時に止めなかったのか、だから天皇には戦争責任があると言う。 
天皇陛下が戦争を望まれなかったのは明らかだが、立憲君主制というものを叩き込まれていたため、内閣が決めたことは全部、了承されたのである。
日米開戦前の9月6日の御前会議では、明治天皇の御製「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」を3回詠まれたように、時に呟かれるようにご希望を表されたこともあったが、止めろと命令されるお立場ではなかった。 
しかし終戦時は、徹底抗戦を主張するものと、ポツダム宣言を受諾したほうがよいと主張するものに割れていた。
本当は首相が採決し、決定すればよかったことだが、鈴木貫太郎首相は「私たちには決められません。陛下がお決めください」と言った。
このあたりが鈴木首相の賢明なところだ。 
天皇陛下は、内閣が行政を投げ出してしまったので仕方なく、「外務大臣の意見に賛成である」、すなわちポツダム宣言受諾を支持するとおっしゃった。 
だから、終戦を決定することができた人がなぜ開戦を止められなかったのかという議論は、日本のような立憲君主制の国では無意味なのである。
内閣が機能している時は、天皇陛下は口出しできない。
口を出したがために田中義一首相が死んでしまったので、いっそうそれができなくなっていた。 
いまから振り返れば、天皇陛下に口を出して頂きたかったことがたくさんある。
三国同盟にしても、「あれはよくない」とはっきり言っていただきたかったと思う。
しかし天皇陛下のご意思は、雰囲気が伝わってくるようなものでしかなかった。
無視しようと思えば、どんどん無視できるような状況だったのである。 
軍人世界は下剋上の雰囲気に満ち、軍人勅諭の「政治に拘らず」は全く無視されていた。
下剋上の軍人のなかには、コミンテルンと通ずる思想の者たちがいたという指摘もある。
天皇陛下が、立憲君主制というものについての教育を受けられすぎたことが悲劇の一つではなかっただろうか。
この稿続く。

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これを左翼や外国人は、戦争を終わらせることができる人が、なぜ始める時に止めなかったのか、だから天皇には戦争責任があると言う。

2019年06月03日 17時11分04秒 | 日記

以下は前章の続きである。 
なぜ開戦を止められなかったか 
昭和天皇がもう一度、発言なさったのは終戦時だった。
開戦時には発言されず、終える時に発言された。 
これを左翼や外国人は、戦争を終わらせることができる人が、なぜ始める時に止めなかったのか、だから天皇には戦争責任があると言う。 
天皇陛下が戦争を望まれなかったのは明らかだが、立憲君主制というものを叩き込まれていたため、内閣が決めたことは全部、了承されたのである。
日米開戦前の9月6日の御前会議では、明治天皇の御製「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」を3回詠まれたように、時に呟かれるようにご希望を表されたこともあったが、止めろと命令されるお立場ではなかった。 
しかし終戦時は、徹底抗戦を主張するものと、ポツダム宣言を受諾したほうがよいと主張するものに割れていた。
本当は首相が採決し、決定すればよかったことだが、鈴木貫太郎首相は「私たちには決められません。陛下がお決めください」と言った。
このあたりが鈴木首相の賢明なところだ。 
天皇陛下は、内閣が行政を投げ出してしまったので仕方なく、「外務大臣の意見に賛成である」、すなわちポツダム宣言受諾を支持するとおっしゃった。 
だから、終戦を決定することができた人がなぜ開戦を止められなかったのかという議論は、日本のような立憲君主制の国では無意味なのである。
内閣が機能している時は、天皇陛下は口出しできない。
口を出したがために田中義一首相が死んでしまったので、いっそうそれができなくなっていた。 
いまから振り返れば、天皇陛下に口を出して頂きたかったことがたくさんある。
三国同盟にしても、「あれはよくない」とはっきり言っていただきたかったと思う。
しかし天皇陛下のご意思は、雰囲気が伝わってくるようなものでしかなかった。
無視しようと思えば、どんどん無視できるような状況だったのである。 
軍人世界は下剋上の雰囲気に満ち、軍人勅諭の「政治に拘らず」は全く無視されていた。
下剋上の軍人のなかには、コミンテルンと通ずる思想の者たちがいたという指摘もある。
天皇陛下が、立憲君主制というものについての教育を受けられすぎたことが悲劇の一つではなかっただろうか。
この稿続く。

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寺内大将が気に入らないとした人たちは内閣を成立させるために入閣を辞退し、陸軍との妥協が成立して廣田内閣は発足した。

2019年06月03日 17時05分50秒 | 日記

以下は前章の続きである。
天皇に背いて軍国主義へ 
しかし2.26事件のあと、この天皇陛下のお怒りを十分に反映するような内閣ができなかった。
岡田内閣の後継首班として西園寺公望が推挙したのは近衛文麿だったが、近衛は病気だとして逃げ、組閣の大命を受けた宇垣一成大将は、自分の古巣の陸軍の反対のため組閣できずに、結局、廣田弘毅に組閣の大命が下ることになった。 
2.26事件後、陸軍は粛軍と称して最年少の3人を残し、7人の陸軍大将を現役から外していたが、その残った3人のうちの一人、寺内寿一大将が陸相就任を求められた。
ところがその寺内大将は、吉田茂など他の閣僚予定者を聞くと著しく不満であるとし、「入閣を辞退したい」とゴネてしまった。 
自分の気に入らない人物を入閣させる内閣では協力できないというのだ。
陸軍が代わりの大臣を出さないかぎり、組閣は不可能になる。 
このような状況のなかで、廣田首相は陸・海軍大臣の現役武官制を復活させてしまった。
2.26事件のあと、3月9日に首相になった廣田は、その年の5月18日にはやばやと陸海軍大臣・次官は現役にするということを決めたのである。
すると軍が大臣を出さないと言ったら、組閣できなくなるのである。
つまり、内閣を作るも潰すも軍の意向次第ということになった。 
「軍部大臣現役武官制の廃止」は山本権兵衛内閣の時、木越安綱陸相が自分の前途を棒にふる大変な努力をして成し遂げたものだった。
それを2.26事件のような騒ぎを恐れた廣田首相は、予備役・後備役のなかから陸軍大臣を選ぶ道をなくし、現役から選ぶより仕方がなくなった。
これは廣田首相最大の失策であり、日本の悲劇の本当の出発点と言えるだろう。 
結局、寺内大将が気に入らないとした人たちは内閣を成立させるために入閣を辞退し、陸軍との妥協が成立して廣田内閣は発足した。
しかし、その2ヵ月後には寺内陸相と永野修身海相が結託して「陸・海軍大臣および次官は現役軍人とすること」という「軍部大臣現役武官制」の復活を提案し、これが通って勅令も出されることになってしまったのである。 
「軍部大臣現役武官制」復活の理由としては、現役ではない大将が大臣になると、2.26事件の黒幕と言われた眞崎甚三郎大将のような人が内閣に入る恐れがあるということだったが、これはただの口実にすぎない。
実際は、軍部の賛成を得ない組閣は一切できないようにすることが真の狙いだった。
こうして日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのである。 
宇坦大将の組閣に陸軍がゴネた時、天皇陛下が「組閣の大命を受けさせないとは何事か」とおっしゃっていればと悔やまれてならない。
なぜなら、2.26事件からのこの一連の天皇陛下のご意思に背いた出来事が、立憲政治を葬り、日本を軍国主義へと押しやり、敗戦への道筋をつけたからだ。
この稿続く。

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だから法廷で証言させることもできたであろうにそうしなかったのは、判事を出しているソ連に不利になるからだったろうと推定するのが自然であろう。 

2019年06月03日 17時02分35秒 | 日記

以下は前章の続きである。
大きな悲劇だった「田中上奏文」 
なかでも、昭和天皇の大きな悲劇は「田中上奏文」という偽書が出回ったことと張作霖爆死事件だった。 
第一章と第二章でも触れたが、「田中上奏文」とは、政友会の会長で陸軍大将だった田中義一首相が、昭和2年(1927)に天皇陛下に提出したとされる国策プランである。
そこには、日本は満洲を制圧し、北シナを制圧し、全世界を征服するという世界制覇のプランが書いてあり、その文書が世界中に出回った。
その「田中上奏文」の原文を日本で見た人はいない。
しかもそのなかには、山縣有朋が会議に出席したと書かれている。
田中義一首相の時はすでに山縣は亡くなっているから、そんなことが書かれうるはずがない。
しかも、田中義一首相は山縣有朋の一の子分だから、親分が死んだことを知らないはずがないのだ。 
いまではこの「田中上奏文」は、コミンテルンが世界中にばら撒いた偽書であるということがはっきりしている。 
当時、日本では誰もこの偽書を見た人がいないため、日本は本気で反論しなかったのだが、世界中がこれを信じてしまった。
ルーズベルトはこの偽書によって、日本を本気で潰しにかかろうと考えたとも言われている。 
そして「田中上奏文」は、東京裁判において日本を「共同謀議」で裁くための下敷きにまでなっているのだ。 
張作霖爆死事件は、日本が行なったこととされた。
ところが、張作霖がなぜ暗殺されたかについては、のちの満洲事変の調査を行なった国際連盟のリットン報告書にさえも「神秘的な事件」と書いてある。
つまり、わけがわからないということで、日本が暗殺したとは言っていない。
国際連盟は決して親日的ではなかったのに、日本が侵略したとは簡単に言えないと結論しているのである。
にもかかわらず、張作霖を暗殺したのは日本だということが世界中に広まってしまった。 
最近出版された『マオ』(ユン・チアン著、講談社刊)には、コミンテルンの手先が暗殺したと書かれている。
たしかにあの頃、張作霖と共産主義との問には大変な軋轢があった。
張作霖は共産党本部を家捜しし、鉄道問題でソ連と揉めていた。
しかし、日本とはまだそんなに利害が乖離していない。
だから、コミンテルンが暗殺したというほうが可能性は高いように思う。
しかし、コミンテルンは世界中に宣伝マンを派遣しているから、日本が張作霖を暗殺したと言いふらす。
日本の外務省などの手には負えない。
当時は日本が暗殺したということになった。 
天皇陛下は平和を願っておられたから、田中義一首相にどういうことかとお尋ねになった。
ところが、田中義一首相のところには報告があがってきていない。
日本が暗殺したのでないとすれば、報告がないのは当たり前である。 
リットン報告書でさえ「神秘的な事件」と言っているくらいだから、田中義一首相も事の真相がわからなかったのだろう。陰謀史観と軽く見られるが、私はコミンテルンが暗殺した可能性が高く、それで日本の対応や天皇陛下への報告が遅れたのだろうと考える。
東京裁判でも、パル判事は張作霖爆死事件に関するすべての証言や証拠を検討した結果、すべて伝聞に基づくものであり、つまり神秘的事件であったと断定している。
この犯人と言われた河本大作大佐は、東京裁判の頃はまだ中国に捕らわれていたの、だから法廷で証言させることもできたであろうにそうしなかったのは、判事を出しているソ連に不利になるからだったろうと推定するのが自然であろう。 
田中義一首相は国際的信用を回復するために関係者の処罰を主張したが、証拠がないものは処罰することもできない。 
そのような事情でぐずぐずしているうちに天皇陛下はしびれをきらし、田中義一首相に「田中総理の言うことはちっとも分からぬ。再び彼から聞くことは自分はいやだ」と言われたらしい。
それがもとで、忠義一徹の田中義一首相は「天皇の信頼を失った」と内閣総辞職してしまった。
そして三ヵ月も経たないうちに亡くなった。 

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いまではこの「田中上奏文」は、コミンテルンが世界中にばら撒いた偽書であるということがはっきりしている。 

2019年06月03日 16時58分30秒 | 日記

以下は前章の続きである。
大きな悲劇だった「田中上奏文」 
なかでも、昭和天皇の大きな悲劇は「田中上奏文」という偽書が出回ったことと張作霖爆死事件だった。 
第一章と第二章でも触れたが、「田中上奏文」とは、政友会の会長で陸軍大将だった田中義一首相が、昭和2年(1927)に天皇陛下に提出したとされる国策プランである。
そこには、日本は満洲を制圧し、北シナを制圧し、全世界を征服するという世界制覇のプランが書いてあり、その文書が世界中に出回った。
その「田中上奏文」の原文を日本で見た人はいない。
しかもそのなかには、山縣有朋が会議に出席したと書かれている。
田中義一首相の時はすでに山縣は亡くなっているから、そんなことが書かれうるはずがない。
しかも、田中義一首相は山縣有朋の一の子分だから、親分が死んだことを知らないはずがないのだ。 
いまではこの「田中上奏文」は、コミンテルンが世界中にばら撒いた偽書であるということがはっきりしている。 
当時、日本では誰もこの偽書を見た人がいないため、日本は本気で反論しなかったのだが、世界中がこれを信じてしまった。
ルーズベルトはこの偽書によって、日本を本気で潰しにかかろうと考えたとも言われている。 
そして「田中上奏文」は、東京裁判において日本を「共同謀議」で裁くための下敷きにまでなっているのだ。 
張作霖爆死事件は、日本が行なったこととされた。
ところが、張作霖がなぜ暗殺されたかについては、のちの満洲事変の調査を行なった国際連盟のリットン報告書にさえも「神秘的な事件」と書いてある。
つまり、わけがわからないということで、日本が暗殺したとは言っていない。
国際連盟は決して親日的ではなかったのに、日本が侵略したとは簡単に言えないと結論しているのである。
にもかかわらず、張作霖を暗殺したのは日本だということが世界中に広まってしまった。 
最近出版された『マオ』(ユン・チアン著、講談社刊)には、コミンテルンの手先が暗殺したと書かれている。
たしかにあの頃、張作霖と共産主義との問には大変な軋轢があった。
張作霖は共産党本部を家捜しし、鉄道問題でソ連と揉めていた。
しかし、日本とはまだそんなに利害が乖離していない。
だから、コミンテルンが暗殺したというほうが可能性は高いように思う。
しかし、コミンテルンは世界中に宣伝マンを派遣しているから、日本が張作霖を暗殺したと言いふらす。
日本の外務省などの手には負えない。
当時は日本が暗殺したということになった。 
天皇陛下は平和を願っておられたから、田中義一首相にどういうことかとお尋ねになった。
ところが、田中義一首相のところには報告があがってきていない。
日本が暗殺したのでないとすれば、報告がないのは当たり前である。 
リットン報告書でさえ「神秘的な事件」と言っているくらいだから、田中義一首相も事の真相がわからなかったのだろう。陰謀史観と軽く見られるが、私はコミンテルンが暗殺した可能性が高く、それで日本の対応や天皇陛下への報告が遅れたのだろうと考える。
東京裁判でも、パル判事は張作霖爆死事件に関するすべての証言や証拠を検討した結果、すべて伝聞に基づくものであり、つまり神秘的事件であったと断定している。
この犯人と言われた河本大作大佐は、東京裁判の頃はまだ中国に捕らわれていたの、だから法廷で証言させることもできたであろうにそうしなかったのは、判事を出しているソ連に不利になるからだったろうと推定するのが自然であろう。 
田中義一首相は国際的信用を回復するために関係者の処罰を主張したが、証拠がないものは処罰することもできない。 
そのような事情でぐずぐずしているうちに天皇陛下はしびれをきらし、田中義一首相に「田中総理の言うことはちっとも分からぬ。再び彼から聞くことは自分はいやだ」と言われたらしい。
それがもとで、忠義一徹の田中義一首相は「天皇の信頼を失った」と内閣総辞職してしまった。
そして三ヵ月も経たないうちに亡くなった。 
この稿続く。

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「軍部大臣現役武官制の廃止」は山本権兵衛内閣の時、木越安綱陸相が自分の前途を棒にふる大変な努力をして成し遂げたものだった。

2019年06月03日 16時57分01秒 | 日記

以下は前章の続きである。
天皇に背いて軍国主義へ 
しかし2.26事件のあと、この天皇陛下のお怒りを十分に反映するような内閣ができなかった。
岡田内閣の後継首班として西園寺公望が推挙したのは近衛文麿だったが、近衛は病気だとして逃げ、組閣の大命を受けた宇垣一成大将は、自分の古巣の陸軍の反対のため組閣できずに、結局、廣田弘毅に組閣の大命が下ることになった。 
2.26事件後、陸軍は粛軍と称して最年少の3人を残し、7人の陸軍大将を現役から外していたが、その残った3人のうちの一人、寺内寿一大将が陸相就任を求められた。
ところがその寺内大将は、吉田茂など他の閣僚予定者を聞くと著しく不満であるとし、「入閣を辞退したい」とゴネてしまった。 
自分の気に入らない人物を入閣させる内閣では協力できないというのだ。
陸軍が代わりの大臣を出さないかぎり、組閣は不可能になる。 
このような状況のなかで、廣田首相は陸・海軍大臣の現役武官制を復活させてしまった。
2.26事件のあと、3月9日に首相になった廣田は、その年の5月18日にはやばやと陸海軍大臣・次官は現役にするということを決めたのである。
すると軍が大臣を出さないと言ったら、組閣できなくなるのである。
つまり、内閣を作るも潰すも軍の意向次第ということになった。 
「軍部大臣現役武官制の廃止」は山本権兵衛内閣の時、木越安綱陸相が自分の前途を棒にふる大変な努力をして成し遂げたものだった。
それを2.26事件のような騒ぎを恐れた廣田首相は、予備役・後備役のなかから陸軍大臣を選ぶ道をなくし、現役から選ぶより仕方がなくなった。
これは廣田首相最大の失策であり、日本の悲劇の本当の出発点と言えるだろう。 
結局、寺内大将が気に入らないとした人たちは内閣を成立させるために入閣を辞退し、陸軍との妥協が成立して廣田内閣は発足した。
しかし、その2ヵ月後には寺内陸相と永野修身海相が結託して「陸・海軍大臣および次官は現役軍人とすること」という「軍部大臣現役武官制」の復活を提案し、これが通って勅令も出されることになってしまったのである。 
「軍部大臣現役武官制」復活の理由としては、現役ではない大将が大臣になると、2.26事件の黒幕と言われた眞崎甚三郎大将のような人が内閣に入る恐れがあるということだったが、これはただの口実にすぎない。
実際は、軍部の賛成を得ない組閣は一切できないようにすることが真の狙いだった。
こうして日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのである。 
宇坦大将の組閣に陸軍がゴネた時、天皇陛下が「組閣の大命を受けさせないとは何事か」とおっしゃっていればと悔やまれてならない。
なぜなら、2.26事件からのこの一連の天皇陛下のご意思に背いた出来事が、立憲政治を葬り、日本を軍国主義へと押しやり、敗戦への道筋をつけたからだ。
この稿続く。

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軍隊が訓練以外で実弾を発砲できるのは平時編制から戦時編制に切り替えた時だけであり、その命令を出すのは天皇陛下だけだからだ。

2019年06月03日 16時49分38秒 | 日記

以下は前章の続きである。
「たとえ反対でも裁可する」 
天皇陛下のお叱りを受けて首相が辞職し、さらに亡くなったというのは大変なことだ。
そこで牧野仲顕や西園寺公望などのいい意味でリベラルな元老級の人たちが、若き天皇陛下に「立憲君主制ですからそういう発言はなさらないほうがよろしい」と諌めたらしい。
それ以後、天皇陛下は政府の方針に不満があっても一切、口を挟まなくなった。 
昭和天皇ご自身がこう回顧されている。 
「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職した。(中略)この事件あって以来、私は内閣の奏上する所のものは仮令(たとえ)自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」(『昭和天皇独白録』文春文庫刊) 
その結果、憲法上、日本の」番弱いところを露呈することになる。 
明治憲法を作る時に、伊藤博文たちは首相を作らなかった。
首相になった人間が徳川幕府のようなものを作るのではないか、という心配が明治政府にあったからだ。 
この感覚は後世の人にはわからないだろう。
徳川幕府がいかに強大であったか。
その幕府をどれだけの苦労をして倒したか。
それを知っている人たちが、首相という権力を作ることを避けたのである。 
実際は内閣がなければ国が動かないので、明治18年(1885)に内閣職権というものができた。
明治憲法が発布されたのは明治22年(1889)だから、その4年前のことだ。
その内閣職権には首相の職務権限が記述されているが、明治憲法にはそれがない。 
天皇が統治権を総攬し、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責二任ス」と定められ、行政は各大臣の補弼により天皇自らが行なうとされていた。 
そのような天皇陛下しか命令する人がいない法体制のなかで、なぜ日清・日露戦争で一糸乱れず戦い、勝利することができたかというと、元勲たちが健在で、元勲たちが推した人が首相になったからだ。
元勲と明治天皇は一体だと思われていたから、天皇陛下と首相とのタッグが組めてすべてがうまくいったのである。 
ところが元勲たちが他界してしまうと、本当の中心は天皇陛下であるにもかかわらず、立憲君主制の原則に従って天皇陛下は発言せずに、政府だけで物事を進めるようになった。
そうして、5.15事件(昭和7年〈1932〉)のようなものが起こる土壌を作ってしまったのだ。 
5.15事件で犬養毅首相を殺した青年将校は死刑にもならずに懲役15年で済み、しかも皇太子殿下(今上天皇)がお生まれになったので恩赦になった。
天皇陛下はいろいろおっしゃりたいことがあったと思うが、口を出されなかった。 
そのような状態の天皇陛下が口を出されたのは2.26事件(昭和11年〈1936〉)の時だった。 
当初、岡田啓介首相が殺害されたと伝えられたのを受けて、天皇陛下は青年将校たちを「反乱軍」だとおっしゃった。
当時、陸軍大将などの偉い人たちは腰抜けで、即座に反乱軍だと決めつけることができなかった。
下剋上の風潮がすでに蔓延していたからだ。 
しかし天皇陛下にしてみれば、明らかに反乱軍だった。
なぜならば、軍隊が訓練以外で実弾を発砲できるのは平時編制から戦時編制に切り替えた時だけであり、その命令を出すのは天皇陛下だけだからだ。 
命令も出していないのに、実弾が発砲された。
だから即座に反乱軍だと判断され、取り締まらないのなら御自分が近衛兵を連れて出ていくとまでおっしゃったのである。

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