なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
*NHKに寄生し税金で飯を食っている左翼ドキュメンタリー屋達とNHKの報道部の常套使用史観…司馬遼太郎もNHKを支配している自虐史観ご用達文化人の一人なのだろう*
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
*NHKに寄生し税金で飯を食っている左翼ドキュメンタリー屋達とNHKの報道部の常套使用史観…司馬遼太郎もNHKを支配している自虐史観ご用達文化人の一人なのだろう*
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。
全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。 全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。人の描き方も伊地知幸介を超えていった。と題して2018-09-29に発信した章である。
読者は私と高山正之の間には通暁するものがあると思ったはずである。
私は高山正之と櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。
夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康が東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。 全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。
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辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、
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正論編集部から送られてきた朝日新聞記者のツイッターを見て、唖然とした。*初めて見た私も、初めて見る読者も唖然としたはずである*
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有名なのは、橋本龍太郎元首相を籠絡した中国人女性通訳のケースだ。
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この小泉が、松沢病院に入院歴があるということについては、小泉家の極秘事項になっている。
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そして、辻元清美の選挙区である、大阪10区、高槻市は日本赤軍の関係者・支援者の多い土地で知られているそうですよ
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中国には「東郭先生」という昔話がある。東郭先生という書生が、山で猟師に追われた瀕死のオオカミを助けた。しかし、オオカミは恩を感じるどころか、逆に東郭先生を襲おうとした
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原子力産業の有史以来の事故死者数を上回る人間が、石炭鉱山では1カ月の間に死んでいる。
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原子力安全基準の改定に、緑(過激な環境保護論者)のグループが気付かないでほしいと日々祈っているはずだ
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以下はアメーバにおける今日の公式ハッシュタグランクイン記事一覧である。
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そんな根拠レスのデータをもとに何兆円もかけて畑や森まで除染させる。 仕掛けた民主党と朝日の責任は重い。
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こういう報復をまるで膝蓋腱反射みたいにやる国が支那だ。 当時の日本大使は支那かぶれの丹羽宇一郎・伊藤忠会長。
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豊中市議である木村真は、あの悪名高い連帯ユニオン、関西地区生コン支部と地方議員ネットワークの副代表であり、
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今しがたインターネットで発見したのが以下の記事。ネットならではの労作である。
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影響力と巧みな弁舌をすべて「日本人の貶めに使う目的は何なのか」と著者は朝日とそれに倣う新聞界に問うている。
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そんな不正を糺すのも規制委の仕事だが、そっちは放置。 ブスなかぐや姫は見るに堪えない。
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安倍vs朝日の闘争勃発…このあとも朝日新聞の日本を貶める報道は続くが、
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NHK、TBS、テレビ朝日の偏向報道が何故あれほど酷くて執拗なのかを明らかにしている。
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小森 陽一…「九条の会」事務局長…日本共産党党員で、書記局員であった父・小森良夫…NHK側で証言している
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実はこの写真は、朝日新聞のカメラマンが、自らナイフでサンゴに傷をつけて撮った悪質な捏造記事だったのである
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著者が本紙「新聞に喝!」に登場した。本書はそれを主にまとめたものだが、朝日とは因縁の吉田調書事件も入っている。
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Cependant, le dosimètre était normal et le discours était également une fabrication du journaliste
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なにより今後20~30年もの間、民主化が進まなければ、中国経済の成長エネルギーは自然に枯渇していくしかない。
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最近の韓国の文在寅大統領政権のわが国に対する無礼非道なやりくちに内外に批判の声も高まり、彼の支持率も降下してきていると聞くが、
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いずれにせよ、この巧みな印象操作による記事によって、世界中のメディアは、大きく反応した。
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En Corée, la discrimination à l'égard des femmes était elle aussi extrême.
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En Corea, la discriminación contra las mujeres también fue extrema.
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This chapter is also an example that nothing can be made to laugh as much as facts, but
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I also pointed out that it is one of the roots of the mischievous thought of the
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it is a popular page yesterday 2019/6/10.
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以下はアメーバにおける今日の公式ハッシュタグランクイン記事一覧である。
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The Japanese suffered much disadvantage by Asahi Shimbun's report.
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日本国民全員と世界中の人たちが知るべき事実に満ちた世界一の論文である
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そんなぎりぎりの瀬戸際に、令和の新時代にあたって我々は立たされていることを銘記しなければならないのである。
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潮風で鍛えた声は国技館でトランプ米大統領を振り向かせ、握手の栄を得ている。その大音声で今の新聞に正気を取り戻せと訴えている。
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He kept saying,'I was wrong. I mustn't have shown any mercy on the enemy.'
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自分達の支配を守ろうとして下種野郎の極みであるデビッド・ケイ達を使って国連で日本には報道の自由がない或いは脅かされているなどと国連で報告させる左翼小児病患者達
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Do you want to be the backbone media for those who go on a tale to the UN?
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西側、特にヨーロッパ諸国が一帯一路にかくも安易に便乗していることが、いかに深刻な問題をはらんでいるのか改めて考えておく必要がある。
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格差社会の頂点に立ち続けた挙げ句、「若い世代」に見放されたこの素粒子の書き手には、自社の平成30年余の歩みがまったく見えていないようである。
日本のテレビの幼稚性の証明…
昨夜は本当に忌々しくも不要無用に2時まで夜更かしをしてしまった…当然ながら、今日は、寝不足である。
なでしこジャパン、なでしこジャパンとNHKがやたらに放送し、何と試合開始1時間前から放送するから、直ぐにも始まると錯覚させられて観たためである。
私が顔相という事に言及してきて、それが悉く当たって来た事は読者はご存知の通り。
残念ながら…なでしこジャパンの監督は、とてもじゃないが、世界一になる器の顔ではない…
おまけに見られたものではない戦法、戦術の稚拙さや、不用意なパスミスの連発…私が観ていた前半を通して何度も見受けられたのは、昨夜のメンバーの中で、唯一、ゴールを割れる雰囲気を持っている様に見えた右サイドの中島にパスが出来る絶好のタイミングに全く気付かず、左サイド一辺倒の攻撃を繰り返す…左サイドにいる選手はマスコミが持ち上げている選手だが、私には、選手たちが国を背負って戦っているワールドカップを勝ち抜ける器の選手であるとは、とても見えなかった。
これ以上観ているのは、とんでもないと前半で切り上げて就寝したのだが既に2時だった。
今、滅多に観ないNHKの「おはよう日本」を観ていて、この放送局が、前記の通りである事を確認させられ、朝から、げんなりのダメ押しだった。
日本列島を防衛する…即ち、日本国を、日本国民を防衛するイージスショア…日本の隣国とは、世界でたった二つの反日国家である中国と朝鮮半島である事すら分からない秋田県民の中の活動家に等しい人間達だろうが…説明会で居眠りをしてしまったおじさんに、説明会にいるのが勿体ないガタイの若者が、
昨夜のニュースでは、この男の怒鳴り声は、流石に放送しなかったのだが、…NHKを支配ししている、もはや売国奴、国賊と言っても全く過言ではない税金泥棒野郎達は…これでは来る参院選挙を前にして政権攻撃にならない、として立憲民主党の辻本あたりから、放送しろとの指示でもあったのか…
聞くに堪えない大声で…自分の親父に等しい年齢の人間に対して…俺たちは人生がかかっているんだぞ等との暴言を、まるで正論であるかのようにNHKは大きな音量で、何度も放送した。
私は同じ東北人として、この秋田県民には本当に反吐が出た。
こんな連中は放って置いて、イージスショアを大阪に持って来たら良い…ああいう秋田県民やNHKの報道部を支配している東京に住む連中は、北朝鮮や中国の弾道ミサイルの餌食に成りたいのだろうから…
と思ったのだが…それでは日本全土をカバーできず、山口県と大阪では、西日本しか防衛できない。
あの秋田県民とNHKの報道部を支配している連中に対しては本当に反吐が出る。
一体、お前達には、愛国心のかけらもないのか。
どういう教育を受けて育ったら、そんな人間になるのか…
世界の奇観である事だけは間違いがない。
安倍首相の人柄が信用できない、などという項目を今日も入れて、たった2,000人にも及ばない調査を、と題して2019-03-29に発信した章に、加筆して発信する。
2019年2月10日初版発行の「マスメディアの罪と罰」高山正之×阿比留瑠偉は活字が読める日本国民全員が必読の書である。
戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之と現役最高の新聞記者である阿比留瑠偉、産経新聞社の先輩・後輩が対談の形をとった、この本は老眼の人たちにも優しい本である。
今すぐに最寄りの書店に購読に向かうだけではなく、高齢者の人達ほど情報弱者で、朝日、毎日、東京、中日等の新聞を購読してNHKを視聴している人たちが大半なのだから…
読者の方々は、周囲の高齢者の人たちや、テレビを情報源にしているご婦人方にも、この本を推奨しなければならない。
*~*は私。**~**は今日現在の加筆。
はじめに
2017年の話だが、森友学園・加計学園を巡る一連の疑惑を取り上げた朝日新聞の報道が「JCJ(日本ジャーナリスト会議)賞」を受賞した。
JCJ賞は優れたジャーナリズム活動に贈られる賞だということになっている。
何かの間違いか、あるいは悪い冗談だろう。
いまや日本のジャーナリズムは業界全体で迷走している。
恥ずかしげもなく「報道しない自由がある」などと主張するメディアまで現れている。
とくに昨今の朝日新聞は、血迷った挙げ句に、逆恨みして安倍政権と日本人に向かって呪いの言葉を口走るだけのデマ新聞になり果てた。
そんな新聞に本気で賞を出しましたとJCJは言う。
ジャーナリストの名が泣くし、それを異様とも思わないマスコミの対応にもっと驚かされる。
日本のメインストリームメデイアはもはや死んだのだろうか。
マスコミの使命は反権力の言論にあり、リベラルこそが絶対の正義であり、反権力とリベラル・イデオロギーのためならばいくら墟をついてもかまわない、などという幼稚な価値観はいつ生まれたのか。
*私が気付いた概念である「左翼小児病」についての完璧な定義である。*
朝日新聞が臆面もなくそう公言したのは2007年、朝刊一面トップで表明した「ジャーナリズム再興」においてだ。
それほど昔のことではない。
しかし、その根は深い。
日本は清を倒した。
当時の最強国だったロシアも破った。
いずれも自衛の思いからの戦いだったが、気が付いたとき、日本は白人優越主義をかざすアメリカの「倒すべき敵」になっていた。
挑まれた戦いに日本は粛々と応じ、それでも最善の戦いをした。
戦争には敗れたものの、日本は白人帝国主義の土台を成していた植民地をすべて解放し、白人種だけでなくアジア人もアフリカ人もそれぞれが自立し独立した国を営める新しい時代を生み出した。
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」とクラウゼウィッツは言う。
人を人ともみなさなかった白人帝国主義を速やかに終結させたという意味で日本は見事な国際政治を行ったともいえるが、その分、日本は白人の妬みや恨みを一身に負い、戦後政策という名のもとに国の形も歴史も日本人という民族意識も物理的、心理的に解体される。
代わって日本は残虐な侵略国家でアジア諸民族を虐げ、殺戮したという自虐史観を植えこまれた。
彼らのいうウォー・ギルト・インフオメーション・プログラム(WGIP)による歴史の捏造だった。
朝日新聞やNHKはそんな現場に立ち会いながら、それを偽りと知りながら日本解体と自虐史観を受け入れて己の生き残りを図った。
緊急避難と言ってもいいが、彼らは日本が独立した後も己を正当化するため、そんなまがいものの価値観、歴史観を守り続け、いまだに吹聴し続けている。
そのいびつさを日本人自身が気づき始めた。
安倍晋三は、正しい歴史を取り戻すために努力している数少ない政治家のひとりだ。
第二次政権を立ち上げる直前、彼はWGIPに未だにしがみつく朝日新聞を名指しで、フェイクニュースと指摘したのはまさに正しい歴史を取り戻すための宣戦布告と理解していい。
自らは絶対の安全地帯にいると信じ、偽りを報道して恥じなかったマスメディアには驚天動地の出来事だっただろう。
しかもそれは朝日新聞の「吉田清治」の記事全面取り消しという大きな敗北を味わうことになった。
今はなりふり構わぬ安倍潰しに狂奔する理由はそれに敗れればもう廃刊しかないからだ。
私も17年前はマスメディアの中にいた。
一介の新聞記者であった。
ゆえによくわかるのだ、連中の欺瞞や特権意識が。
本書は、産経新聞の後輩記者にあたる阿比留瑠比氏との対談本である。
世代は異なる。畑も違ったが、当時からできる記者だった。
阿比留氏は今や隠れもない産経新聞の看板記者だ。
眼力も筆力もある。
こちらが0Bとなった後も交流はある。
彼は90年代から安倍晋三をマークし、以来、第一次政権崩壊後の失意の時代も通して接し続けていた。
今や世界のキーマンともなった安倍氏の数々の肉声を記録してきた数少ない記者のひとりだ。
*その安倍氏に対してNHKは今日(2019/2/12)も、朝日新聞と反日国家の代理人であると言っても全く過言ではない野党の政治屋達とNHKが作ったフェイク報道であるモリカケ問題で作り上げた嘘である…安倍首相の人柄が信用できない、などという項目を今日も入れて、たった2,000人にも及ばない調査を世論調査だなどと言って発表していた。
Watch9での桑子の発表の仕方も正に印象操作そのものだった…支持率47%に対して不支持率37%と読み上げるのである。印象操作したい意図がなければ、単に支持率47%、不支持率37%と言うはずである。**昨夜は確か支持率47%、不支持率32%で、放送の仕方は全く上記の通りだった**…に対して、という言い方をすることに依って、不支持率が、こんなに高いんですよ、と、この報道部を支配しているエージェント達は強調し深層心理に植え付けようとするのである。
自民党の支持率は常に50%前後で立憲民主党の支持率は5%前後しかないのだが、この件についてはアナウンスもしないし、ましてや自民党の支持率50%に対して立憲民主党の支持率は5%などとはアナウンスした事も無い。
それどころか今日は終に政党支持率は発表もしなかった…きっと信じがたいほどに低い支持率だったのだろうと日本国民全員は推測すべきなのである*
**昨夜は、終に政党支持率については全く放送しなかった…NHKを支配している真正な日本人なのか在日朝鮮人なのか分からない人間達がシンパである事は明らかな立憲民主党などの野党に対する見事な「忖度」だったわけである…つまり、口にだすのも憚られる低支持率だった事…それこそが本当の事実である事…NHKの報道部を支配している連中は、日本国営放送で生計を得ながら、日本国民に対して、自分たちの支持する政党である野党…もはや売国奴・国賊と言っても全く過言ではない下種野郎や下種女郎達の集団であり、国民の税金で揚げ足取りや反対だけを唱えて年収4,200万円超を得ている…ちんぴら以下の集団には致命的な真実を目の前に突き付けられて…
NHKは事実を報道しない事も報道の自由であると実践したわけである。
こんな事を堂々と行う既得権益を確保するために福島瑞穂の旦那である海渡雄一や高木健一等と通じて、デビッド・ケイ等と言う中国や朝鮮半島のエージェントとして生計を立てている最低の国際的な下種野郎に、国連で、日本の報道の自由が侵されている等と、世界最高の報道の自由と知性のある国である日本…何しろ捏造報道して国と国民に大損害を与え続けても、のうのうとして大新聞でござい、の顔をして、損害賠償請求も、廃刊もされない世界最高の報道の自由が在る国である日本…
国営放送局であるNHKは政府にとって不都合な事は、単なる居眠りですら重大事であるかのように報道し、上記の実態の野党の支持率については、報道すらしない…事実すら報道しない自由を平然と実行している世界最高の報道の自由が在る国に対して、
デビッド・ケイなどという人間の屑以下の男を利用して、国連に告げ口しているのが、NHKを支配している人間達の実像である事を、朝日やNHKだけを情報源としている高齢者達に、子供達よ、孫たちよ、あなたたちが事実を伝えて上げない限り…日本は神の摂理として文明のターンテーブルが回っている国としての役割である…米国と並んで、後、170年、世界をリードして行く…世界のリーダーにはなれないのだから。
彼らのパペットなのか代表なのか…看板番組であるwatch9で、有馬が、事あるごとに、米国と中国の二代大国に挟まれて等と…これは巧妙な自虐史観に依る日本蔑視そのものの思想を国営放送局で平然と放送させる態様を是正しないかぎり、領土を失う危険、中国の様な、とんでもない国の属国になる危険は回避できないのだから。**
阿比留はまた、多忙な記者生活の中、実名でブログを書き、著作も次々と執筆するバイタイタリティも持つ。
そのコラムは若者の間でも確かに人気が高い。
視点も確かだ。
そんな後輩と日本のメディアの在り方を忌憚なく語り合ったのが本書である。
日本を考えるとき少しでも参考になればと願っている。