文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

再発信!「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである

2024年12月26日 14時42分02秒 | 全般
以下は12月23日に発売された週刊新潮の掉尾を飾る櫻井よしこさんの連載コラムからである。
本論文も彼女が最澄が定義した国宝、至上の国宝である事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。

本欄の作成作業について。
日本国民のみならず世界中の人達が知らなければならない本物の論文を発信するについては、先ず、原文をスキャナーする。
スキャンミスの箇所を校正する。縦書き用の数字を横書き様に変える。段落等を横書き用に変える。
そのような作業を経て日本及び世界に発信している。
本章の段落を変える作業をしていた時、私は慟哭を覚えた。
私の中に松陰の魂が在る事を実感したからである。

松陰は本当に、うらやましいほどの家庭に育った。
時代の中で、彼は処刑され、早世したが、実に幸福な人生だった。

私は不幸な家庭に育ったが、松陰と何ら変わらないのである。
私の周囲にいた人達は、「私は永遠の19歳である」との私の言を、何度も耳にしたはずである。
刎頸の友人は、皆、「貴方なら、確かにそうである…」と同意してくれた。
私は19歳の時に家を出奔した。
以来、我が母校の同窓生名簿には「消息不明」と記されていたらしい。
つまり私の人生は19歳のまま止まっていると言っても過言ではないからである。
京都大学を両肩に背負って立つべしと厳命されていた人間が全く違う人生を歩んだ。
或る面で、天と地ほどの、目も眩むような人生だったとも言える。

加地伸行氏が常識的に語られている人手不足について、「違う、人手はいる」、と警鐘を鳴らした一文は21世紀最高の論文の一つである。
私の家庭には、私を京都大学に送って、かの大学を、この両肩に背負って立たせる事が出来ない不幸があった。
だが、私は、その事を全く悔いてもいない。
それどころか、私は、加地伸行氏の論説の正しさを実証しているのである。
実は、大学教育は人生に必須のものでなど全くないのである。
それどころか偏差値5点の人間達を無理やり高校、大学に送りこんでいる現在の教育制度の愚かさ、馬鹿馬鹿しさを彼は指摘した。
土に生きて畑を耕し作物を育てる為に生まれて来た人達を徒にスポイルしてしまう教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
海に生きて終生、魚と海を愛して暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
森に生きて終生、木々と暮らして行く為に生まれて来た人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
完璧を求める日本人の習性が生み出す数々の工芸の世界に生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政。
世界の誰も真似のできない旋盤工の技術を継承して生きて暮らして行く人達に、徒に無為の時間を過ごさせる教育行政の愚劣さを彼は指摘した。
彼は実体験の中から指摘した。それは彼が本物の知性だからである。
この稿は後日に続ける。

大学卒業が全てである米国の社会は?
あれは歴史の浅い米国が、実は、チンピラの様な哲学しか持っていないからである。
それが証拠に、彼らは、中国の様な国の工作で、簡単に国内世論を分断化されているじゃないか。
米国の知性なんぞよりも日本の知性の方が遥かに上である事を本欄は証明している。
朝日新聞等やこれに同調している所謂文化人達は、米国の知性の浅はかさを証明しているのである。
日本のデフレを齎した失政の影響で経営者としての人生にも苦境が始まった頃の事である。
仕事で親しかった大企業社員の友人に、彼の上司の接待を依頼された。
私は目一杯の御馳走で応え、二次会へと繰り出した。
二次会の席で、その上司が言った。
「綱渡りの様な人生ですね…」
その通りの人生だったのかもしれないが、接待した当方としては一瞬絶句した。
私は松陰の様な家庭は持てなかったが父母は今でも愛している。
生み育ててくれた事に対して無限の感謝を抱いている。
私は彼らが戦後最高の知性の一人を丈夫に育ててくれた事に対して無条件に感謝している。

私が永遠に愛している閖上に生まれ育った事を心から感謝している。
今でも私に掛け値なしの愛情を注いでくれている小学校、中学校の同級生の皆に心から感謝している。
だから私は、たった一人でも、無名の中小事業経営者としては日本一ではないか、と評された仕事もしてきた。
2010年7月以降は、こうして、たった一人でも、日本と世界を糺す為に、毎日、無償で作業をしている。
「文明のターンテーブル」が私の暮らしであり、私の暮らしが、「文明のターンテーブル」であるのは、私の中に松陰の魂が在るからである。

偉人・松陰を育てた家庭と父
過日山口県を訪れた際、地元の志篤い人から『吉田松陰の思想と生涯』という本を戴いた。
松陰研究者で知られる、今は亡き玖村敏雄氏が山口銀行で行った6回の講演を、同行が行員職員の学びの目的で上梓した。
心に沁み入る一冊だった。
周知のように、松陰が松下村塾で教えたのはわずか2年と3か月間だった。
この間に身分の差を超えて約60名が集った。
松陰の下で学んだ士分出身の主な人物には高杉晋作、久坂玄瑞、萩の乱で首を切られた前原一誠、司法卿(大臣)になった山田顕義、中谷正亮などがいる。
足軽出身者としては池田屋事件で重傷を負い、長州藩邸の門まで帰りついて自刃した吉田栄太郎、禁門の変で戦死した入江衫蔵、初代総理大臣となった伊藤博文、日露戦争当時の参謀総長、山縣有朋、また品川弥二郎、野村靖も維新の大業に尽した。 
士分でも足軽でもない塾生に魚屋の子で画家の松浦松洞がいる。
松陰が座っている肖像があるが、これは松洞が描いたものだという。
ちなみに松下村塾の最初の塾生は医者の子の増野徳民だった。
次の塾生は杉家(松陰は養子として吉田家に入ったが、ずっと生家の杉家で暮らしていた)の隣家の吉田栄太郎で、彼のことは前述した。
三番目の入塾者がこれまた前述の松浦松洞だ。
玖村氏は、松下村塾の最初の塾生の3人が医者、足軽、魚屋の子で、士分ではなく皆平民であったことの意味を説く。
当時の日本、毛利藩の実情を見れば特筆すべきことなのだ。
江戸時代の日本には士農工商の身分制度があり、士の子弟は藩校で学び、平民の子は寺子屋で学んだ。
毛利藩にも藩校として萩に明倫館があった。
しかし、松陰は身分の上下など気にせず、全ての人を一人の人間として見た。
ここで想い出すのが明治新政府誕生と同時に発布された五箇条の御誓文である。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし。上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。」
 まさに維新を貫いた思想がここにある。
約190年前に生まれた松陰は明治維新の10年前に処刑されたが、彼は時代を先取りして見事に実践していたのだ。
なぜ学ぶのか 
松下村塾で学んだ約60名の中から歴史に名を残した人々が20数名もいる。
松陰の住んでいた村に特別に才能ある人々が集中して生まれていたということか。
そうではないだろう。
玖村氏は日本のどの村にも人材はいて、よき師に巡り合うことによって人材はその持てる天分を磨き、一廉(ひとかど)の人物になれるのだと言っている。
つまり、松陰はよき師であったということだ。
では、なぜ松陰は人を育てることができたのか。
それは一にも二にも松陰の育った家庭にあったと玖村氏は書いている。
松陰は幕府がアメリカと和親条約を結んだときペリーの艦でアメリカに密航し学びたいと念じた。
下田港近くで機を窺い、小舟で漕ぎ出しついにペリーの艦によじ上ったが願いは受け入れられなかった。
松陰は密航を企て国禁を犯したとして自ら名乗り出た。
結果として国許に送られ父杉百合之助に引き渡された。
安政元(1854)年10月、松陰数え年で25歳の時のことである。
ちなみに父百合之助は「百人中関頭兼盗賊改方」、つまり萩の警察署長だった。
事情を端折って言えば松陰は野山獄に入れられる。
そこには士族11人がすでに入っていた。
獄中で松陰は本を読んだ。
「感激すると涙をふるって読む、腹が立つときにはまなじりをあげ激越な調子で読む、嬉しいときは声をはずませ膝を打って読」んだ。
警察署長の坊ちゃんが獄にあって少しもめげず、読書に没頭し楽しんでいる。
11人も感化され獄中座談会が始まった。
皆が問うた。
獄外に出ることも望めないのに、なぜ学ぶのか、と。
松陰は答えた。
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というではないか、と。
人間としての道がわかればそれでよいではないか、と。
一日この世にいるのなら、一日いた甲斐のあることをしたらよい。
たとえここから一生出られないとしても、人間の道に背いて死ぬか、人間の人間たる道を踏んで死ぬか、覚悟次第でどちらにもなれる、と。
その内に野山獄の司獄、つまり刑務所長も松陰の人柄に打たれて、夜は灯をつけてはいけないとされていた規則を改め、夜も灯をともし、筆も墨も紙も自由に使わせた。
そして或る日、彼もまた松陰の弟子になりたいと申し入れた。
獄中生活をこのように明るく積極的に変えることができたのには松陰の人柄がある。
どんな時にも自分本来の性格を貫き、周囲の詰まらない状況でへこまされたりはしない自立性がある。
立派である。
しかし、松陰のそのような在り方を支えた力を見逃してはならない。
松陰を支えたのは家庭の力、家風であると玖村氏は説いている。
うらやましいほどの家庭 
松陰の父は前述したように警察署長だ。
それがその息子は国禁を犯してアメリカ密航を企てた。
罰せられて帰り、野山獄に入れられた。
普通なら怒ったりするだろうが、父も母も兄も妹も叔父も、誰も怒ってなどいない。
皆が皆、松陰のよき理解者として彼を支え続けている。
たとえば「野山獄読書記」を見ると、ひと月に松陰が読んだ量は大体40冊前後、1年間で約500冊だ。
読書記では、松陰が野山獄に入った安政元(1854)年10月24日から年末までに106冊、安政2年に480冊、同3年505冊、同4年9月までに346冊となっている。
これを兄梅太郎は近郷近在の藏書家を訪ね歩いて手に入れるのである。
或いは江戸に注文して写本を作ってもらうのである。
梅太郎は明治の終わり頃まで存命だったそうで、松陰の望む本を入手し次々に供給するのがひと苦労だったと語っている。
それだけではない。
松陰が野山獄から杉家に戻されたとき、父、兄、叔父の3人が松陰の弟子となった。
松陰は獄で11人を前に時事、政治、人生、教育などを講義していたが、その延長を自宅で始めたのだ。
こうして名著『講孟余話』が生れた。
孟子の講義のほかに、父も兄も日を決めて経済要録、新論、日本外史などを一緒に読んだ。
松陰は家から一歩も出られない身であり、退屈だろう。
何とか皆でいたわってやりたいという愛情である。
母も妹も親族の女性達も「婦人会」を創って松陰を中心に読書会をした。
松陰の家庭は本当にうらやましいほどの家庭だ。
これは父の力だと、玖村氏は書いている。
人物を育てるのは家庭なのである。
人間を身分や富で判断するのではなく、その人の人間としての特性に素直に着目することのできる松陰の人間性を育んだのが、愛情ある家庭だった。
家庭、家風の大切さを松陰の短い30年の人生から学んだ一冊だった。
 
私の撮影史上最高の龍安寺を4Kで珠玉の演奏と共に世界中の読者に贈る。
 


 

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