東京・品川から京浜急行で、およそ5~6分ほどで「新馬場駅」。
駅からすぐののところに「六行会ホール」という小さな劇場(こや)がある。
そこで毎年、「みつわ会」が久保田万太郎の作品を上演しており、定着してきたようだ。
15回目をむかえた今年は、久保田万太郎が最も敬愛した作家・樋口一葉原作の『十三夜』。
人間の幸、不幸とはを問いかけ、関東大震災の翌年発表された『不幸』の二作品。
いずれも万太郎得意の手法で、いま失いかけている下町の香りを放った、朗読劇のような端正な舞台であった。
『十三夜』は私にとって取りわけ思い入れが深い演目である。
樋口一葉の小説を万太郎の世界に移しかえた二場からなる舞台。
劇が進行しているあいだ、いつも十三夜の月の光がさしている。歌舞伎の「引窓」にも匹敵する「月」のしばいでもある。
ことに、主人公のせきが実家の玄関を出はいりする時に、格子戸にさす影が、この芝居の一つのモーメントではないだろうか。
残念ながら、狭い舞台のためか玄関は省略して、おくの一間だけの装置だが、縁側に飾られた月見だんごの三宝に月の光をしぼった中嶋八郎の端正な美術は見事だった。
明治中期の旧士族の家という設定だが、それぞれの登場人物が現在的であるのが気になったが、おおげさな新派劇にしないで、淡々と演じていたのには好感がもてた。
父親の斉藤主計は鈴木 智(←画像/右上)。
元官吏らしい厳格なところを見せていた。
母親のもよの菅原チネ子(←画像/左上)は往年の夏川静江を思わせる女優さんだが、もう少し芯がほしかった。
せきの大原真理子(←画像/下段右)は平凡。もっと芝居をしてもよいのではないか。
ことに録之助との上野山中の出逢いで、感情移入が多いためか、会話のテンポがよくないのが惜しまれる。
対する録之助の世古陽丸(←画像/下段左)だが、いまは零落れた車夫を強調するあまり、全体にトーンが暗く、しかも爺くさい。
かつては、せきが惚れた男なのだから、その面影を見せる”役づくり”がほしい。
今回の『十三夜』で感心したのは、せきの弟亥之助の澤田和宏(←画像/下段中央)。
よかったのは2点ある。
一つは幕開きから板付きで父親のすぐ傍で夜学に行く用意をしていること。
これで弟が夜学生であることが一目でわかる。
あと一つは上野山中で、姉のせきと録之助を見かけて幕がおりるのだが、口笛を吹きながら舞台を横切って、途中で一度立ち止まって、「姉さんではないだろうか?」と佇む動作が実にうまい。
これでこそ幕が下ろせるというものだ。余韻を感じさせた見事な終幕であった。
アマチュア演劇だったか、口笛を吹きながら、まったく同じテンポで舞台を横切っただけの役者がいた。
これも余談だが、『十三夜』で高坂録之助を演るというので、たまたま持っていた先代松本幸四郎(←白鵬)の録音テープをK君に貸した。
もちろん録之助は幸四郎、せきは初代の水谷八重子だったと思う。
後日、本番で上野山中の録之助はKくん。幸四郎バリで
「ちょうど今夜は十三夜!!」
幸四郎の物まねをやってのけた。
これでは「くさい芝居」といおうか、「ドサ芝居」である。
その場の鐘の音だけは、ほんとの上野は寛永寺の鐘の音であったそうだ。
←『不幸』は大正13年の作。
舞台は大正3年ごろの向島。没落した新三郎の仮住まいである。
こちらは戯曲そのものがしみじみした万太郎独特の世界。
一幕だけの小品だが、時候も今の肌寒い弥生の宵のひとこま。
お雛様だの、長命寺の桜もちなどの風俗描写がこまかい。
主人公の義兄を演じた菅野菜保之は「みつわ会」公演の常連。
ベテランだけに、会話のテンポ、間のよさはさすが。
それに女中の柴崎まり子がよい。いかにも下町育ちの匂いがある。
幕切れも、万太郎好みのしみじみした下町の香りを感じた舞台。
二作品とも新派の大場正昭の演出。泰和夫の音響がすばらしい。
ロビーに飾られたフアンからの花輪
(2012年3月13日 品川・六行会ホールにて所見)