おかしなことが客席でおこった。
場内は8割近くが女性客で、その日は当日券も札止になるくらい満席である。
このお芝居は3幕で2回の幕間が15分づつある。
ところが第一幕が終わったところで、右隣りの若い女性2人がいなくなった。
そして第二幕が終わると、こんどは左隣の女性がいない。しかも三人である。
結局中央席のN列は私と、もう一人の初老の男性の二人になってしまった。
5人もの観客が揃って急用ができたとは到底思えない。
だとすれば「芝居が難しすぎる」、「退屈である」、「見ていて眠くなる」。
そんなところではないでしょうか。
ところで私は、60年代に書かれた三島由紀夫の「サド侯爵夫人」については、いささか疑問をもっている。
というのは、三島由紀夫がほんとうに書きたかったのは「サド」ではなくて、「サド」という名を借りて、三島由紀夫自身をかなり赤裸に語りかけたかったの
ではないか、という疑問です。
劇中で、サンフォン伯爵夫人ははっきりと言う・・・
「サドとは私なのです」
と。これは「サドとは三島由紀夫なのです」と等価もしくは置き換えてもおかしくないのです。
三島由紀夫をご存知のかたなら、60年代の初頭、『薔薇刑』というSМ写真集で三島自身がモデルになった。
それは性と暴力と冒涜の世界に身を投じたサド侯爵と完全に一致するのです。
「サド侯爵夫人」は、華麗かつ豊穣なレトリックが満ち溢れた難解なお芝居です。
私も何度か『サド侯爵夫人』の舞台を見てきたが、残念ながら出来のよかった舞台にはいちども出合わなかった。
事前に作品の知識があろうがなかろうが、見ていて「眠くなる」、それだけのお芝居であった。
それは、女優さんたちが三島の言葉の美しさだけに乗っかって、”喋り”というか”酔って″というか、そこに含まれている本当に伝えたい「意味」が
見る側に伝わってこない。
つまり「装飾的な言葉」と「意味を立てる言葉」の区別が出演者に理解されていないようだ。
それを一諸くたに喋られると単なる波動のようになり、「眠くなる」だけなんです。
蒼井 優(←画像/左)はルネ サド侯爵夫人。最近舞台主演が多いようだが、発声がわる過ぎる。
表情ばかりが豊かで、台本の文字を追うことだけにに終始、、かんじんの声が出ていない。
可憐さばかりが目立って、侯爵夫人としての品格が欠けている。
麻美れい(←画像/中央)のサン・フオン侯爵夫人は劇中の「悪徳」という言葉で称せられる夫人。
女ならではの「悪徳」を体現しようとするあまり、品位のない芝居になっている。
彼女のいう「快楽」への執着さえ見えてこない。
ルネの母親は白石 加代子(←画像/右)。発声がいちばん安定しているのはさすが。
母親役への造形が『身毒丸』の母親とはまったく異質な変身ぶり。多少やり過ぎのキライもあるが・・・。
最後になったが、登場する六人の女優は、実は一度も姿を現さないない「サド」を、どのように舞台に映し出すかが、この芝居の重要な課題。
しかし一向に「サド」の顔が見えてこないのが今回のお芝居の最大の欠点だった、とつけ加えておこう。
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