木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

是諸法空相

2010年04月25日 | 日常雑感
ひろさちや氏の「てのひら般若心経」(小学館文庫、写真・佐藤健三氏)」を何気なく手にとって開いたページに書かれていたのがタイトルに上げた一説である。
この本は般若心経を短い文で分かりやすく解説している。
タイトルの一説も簡潔に解説されておられるので、全文を掲載させて頂く。

是諸法空相(しょぜほうくうそう)
いま、黄金を使ってさまざまな形のものを作るとします。
仏の姿、鬼の形、女の姿…。
わたしたちは、そのつくられた姿に騙されて物を差別します。
しかし、ほとけさまは そんな外形にはとらわれれず、真実の黄金をみておられます。
こうしたもののとらえ方が、「空」の基本です。


ひろ氏の著作の中だったと思っているのだが、こういうくだりがあった。

ここにワイングラスがある。
その中は汚物でまみれている。
あなたは気が済むまで、どれだけでもグラスが綺麗になるまで洗えと命じられる。
洗剤を使い、熱湯を使い、長い時間、懸命に洗う。
ピカピカのグラスに戻った。
そこで、また命じられる。
「そのグラスで水を飲め」と。

素直に飲めるだろうか。
あれだけ洗ったのだ。
グラスが綺麗になったのは間違いない。
だが、頭の中には洗う前の記憶が鮮明なイメージとして残っている。

人は誰かを判断するときに自分の経験則に基づいて判断しているのがほとんどだ。
今、目の前にある綺麗になったグラスを見ないで、汚物にまみれたグラスを思い出す。

わたしは先入観などない、と思う人がいたら、「今は綺麗だが、かつて汚物にまみれていたグラス」で水が飲めるかどうか、想像してみるといいかも知れない。

賢さとか、経験とか、富など、通常プラスになると考えられているものは場合によっては、逆に足かせになることもある。
子供のような素直さばかりでは、複雑な世の中は渡って行けない。
ただ知識や経験だけでも、真実は見えてこないことも忘れてはならないと思う。


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