木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

坂本龍馬の筆跡

2010年05月12日 | 江戸の人物
NHKの大河ドラマの影響はかなりのもので、坂本龍馬が人気である。

世の中には色んな鑑定があるもので、筆跡による性格の鑑定というものもある。
宮地佐一郎氏は、その第一人者であるが、坂本龍馬の筆跡を鑑定したことがある。
龍馬の字は、丸みが強く、鋭角が少ない。
これは、人との衝突を好まない性格。
自在の連綿線ともいえるものがあり、ここからリズム感や運動神経が発達していると感じるという。
文字と文字の間も、どこにもつぶれて苦しくなる空間がない。
これは気配りに通じ、龍馬と会った人は警戒心を抱かないと想像する。
あと、龍馬の字は、行の下のほうが左へずれる傾向がある。
このような字を書く人は、楽天家で、発想力が豊かで気配りに優れた人物であると鑑定しておられる。

傾向的には、豊臣秀吉と似ている字であるそうだ。
龍馬と秀吉。
あまり似ているとは言われたことのない二人だが、意外なところから、意外な関係が語られるものである。




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280分の2

2010年05月11日 | 日常雑感
かなり以前、ゴルフスクールに通っていたことがある。
そのとき、レッスンプロがぽろりと口に出した言葉が印象に残っている。
「280くらい打って、わずか1打か2打の違いなんだよなあ」
ゴルフのトーナメントは男子だと4日間で行われる。
パー70の設定だと、70*4日間=280となる。
優勝は1打差から3打差になるのがほとんどで、これが冒頭の「1打か2打の違い」である。
そのときは、レッスンプロの言葉もその通りだなあ、と思って、中小企業の社長をやっている友人に言ったところ、「そんな考えでは絶対にトーナメントプロでは通用しない」と半ば腹を立てていた。
確かに4日間、72ホールも回って、僅かに2打の差ということもできる。
ばらつきの多いアマチュアからすれば、もっともな感想のような気もする。

話は飛ぶが、ストリートミュージシャンを観ても驚くほど上手い人がいる。
絵だって、写真だって、玄人裸足という人は多い。
「アマチュア」と「セミプロ」の境はぼやけている。
だが、「セミプロ」と「プロ」の境は非常にはっきりしている。

ゴルフの優勝の差である1打や2打をどう捉えるか。
「わずか」と捉える人はせいぜい「セミプロ」で終わるような気がする。

「わずか」と考えるのは、心の甘えだ。
よく金持ちはケチだというが、少額であってもお金を大事にするから、お金にも愛されるようになるのかも知れない。
「たった1円」と言う人は金持ちになれないし、「たった1打」と言う人はトーナメントプロになれない。

自分が大事にしていることにおいては、少しも手を抜かないという姿勢。
成功には大切だと思う。


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「公式」を減らす

2010年05月09日 | 日常雑感
結構、日常生活では、へばっている。
いろんなことで人生の岐路に差し掛かっているようだ。
先延ばししてはいけない決断への回答を迫られている状況だ。
「風向きばかり選んでいる農夫はいつまでたっても種を播けない」という西洋のことわざがあったが、熟慮したほうが必ずいい答がでるとは限らない。

そんな状況ではあるが、最近それまでは、点と点だった考えが徐々に線となりつつある。
本棚で埃を被っていた本を取り出してみると、今まではぼんやりとしか分からなかったことが、明確に理解できることが多くなった。
たとえば、「運のつくり方 開き方」という本を開いてみる。
その本に「カタい頭をしていると、運も逃げていく」という項がある。

世の中には、自分の意見・立場が絶対的なものと信じて、他人の言葉に耳を貸そうとしない人がいるものです。絶対的正義をふりかざし、それのぶつかり合いが高じたものが戦争です。(中略)正義や正論にこだわっている人は、それ以外のものがまったく見えなくなり、かえって運を失うことにつながります。(中略)運をとりもどすには、まず自分が絶対と思っているこだわりを捨て、脳相を明に変えることがたいせつになってくるわけです。頭にこびりついている絶対という思い込みをなくし、柔軟性を取り戻すための方法は、とにかく他人の意見に耳を傾けてみることです。

書いているのは藤木相元氏という観相家で、「顔にキズがあるときは、思い切ったことをしてはなりません」なとど相については具体的に述べているのだが、上の引用は「確かにいいこと」を言っているが抽象的だ。
「他人の意見に耳を傾けてみること」と言われても、なかなかできないから苦労している。
最初に読んだのは10年も前だったと思うが、読んでなるほど、と思ったが、それだけで終わってしまった。
具体的にどうすればいいか分からなかったからだ。

この場合の頭のカタさとか、思い込みと呼ばれているのを心理学ではビリーフ、あるいはビリーフシステムというらしい。

子供の喜ぶ顔を見たさにおもちゃを買っていったら、ちっとも子供は喜ばなかった。
そのせいで、自分が不機嫌になった。

おもちゃを買っていくという自分の行動に対して、あらかじめ結果を想定していたが、結果は想定外のものとなった。
つまり、自分の行動=起こるべき結果の公式を自分で描いていて、その公式が当てはまらなかったから、不機嫌になったのである。

自分の中にある、~をしたら・・・すべき的な考え方は、意外と多い。
頭のカタい人はこの「公式」が多すぎる人だ。
だから、頭を柔らかくするには、持っている「公式」をどんどん少なくしていけばよい。
本当に人が大事にしなければならない「公式」は数少ないものだ。
そんなことが分かると抽象的だった本の内容も理解できる。
そういった意味で、今、点が線になりつつある。

「運のつくり方 開き方」(PHP文庫)藤木相元

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マリアン・ウイリアムソン ~ 愛への帰還

2010年05月08日 | 日常雑感
マリアン・ウイリアムソン女史の「愛への帰還」の中に次のような詩がある。

根源的な恐れはどこから来るのだろう。
恐れは自分がなし得なかった経験から来るのではない。
そんなに大それたことができるのだろうか、と思う気持ちから恐れは生まれる。
闇ではなく、光のほうがわたしたちを恐れさせる。
ブリリアントでゴージャスで才能がある素晴らしい人間になりたいと自問すると、もうひとつの答えが返ってくる。
おまえは、そんなに素晴らしい人間にはなれないよ、と。

でも、ひとはみな神の子である。卑屈な行動は誰のためにもならない。
人の不快にならないようにと、びくびくしながら生きても、何も生まれない。

本来、誰だって子供のように輝くことができる。
誰もみな、自分の心に存在する輝かしい神性を表現するために生まれたからだ。
特定の人たちの中だけでなく、私たちすべての心に神は存在する。

そして、自分が輝こうとすると、自然に周囲の人たちも輝いていく。
自分が恐れから自由になると、周囲の人たちも恐れを抱かないようになっていく。


かなり意訳してしまったので、下記に原文を載せておく。

人が何か大それたことをやろうと決断する。
そうすると、心の中の声が呟く。
「そんなことはできっこないぜ」
自分が有意な人間だと思っても、また心の声が邪魔をする。
「おまえはそんなにたいした人間じゃない」

そうだ、自分なんてたいした人間じゃないんだ、と考えるのは謙虚なのではなく怠惰なだけかも知れない。
闇の部分にスポットを当てていけば、自分の心の声に邪魔をされることもない。
光の部分にライトを当てると、自分の声と対決しなければならなくなる。
そして不幸なことに、大概がネガティブな気持ちのほうが力を持っている。

そこであまりだいそれたことを考えずに地道に行こうと思う。
それはそれでいいのかも知れない。
でも、恐れを抱かないで生きていけば、人間本来が生得している力が発揮できるようになっているのではないだろうか。
自然体が大事なのかな、と思う。

Our deepest fear is not that we are inadequate.
Our deepest fear is that we are powerful beyond measure.
It is our light, not our darkness that most frightens us.
We ask ourselves, Who am I to be brilliant, gorgeous, talented, fabulous?
Actually, who are you not to be?
You are a child of God. Your playing small does not serve the world.
There is nothing enlightened about shrinking so that other people won't feel insecure around you.
We are all meant to shine, as children do.
We were born to make manifest the glory of God that is within us.
It's not just in some of us; it's in everyone.
And as we let our own light shine, we unconsciously give other people permission to do the same.
As we are liberated from our own fear, our presence automatically liberates others.


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フィッシングパーク清洲東

2010年05月06日 | B級グルメ
ブログのカテゴリーはB級グルメとしてしまったが、ここは紛れもなくA級グルメである。
そして、娯楽施設としても優れている。
場所は愛知県清洲市、22号線沿い。

フィッシングパーク清洲東は海水魚専門の釣堀であるが、釣った魚をその場で食べられる。
釣堀と食堂が併設されているというアイデアが秀逸だ。
上の食堂で食べてもいいし、自宅に持って帰ってもいい、という発想が倹約家の多い名古屋らしくて面白い。

システムとしては、少し複雑。
タイを例にとっていえば、必ず1匹釣れる竿が1500円。
2匹までは自由に釣れるが糸の細い竿が1000円。
さらに、二階で食べるには調理代が必要となる。
鯛の刺身の場合は600円。
持って帰る際も、刺身などにしてもらうと400円が必要。
昼時を外れていたこともあり、持って帰る人のほうが多かったが、二階にある食堂で食べると、大物は舟盛にしてもらえ、わずかな時間の釣果に「俺ってすごい」などと、満足感を得ることもできる。

何だかんだと費用がかかってしまうのが難点だが、遠くへ行く手間や交通費のことを考えると、十分におつりが来る。
そして、味は間違いない。そりゃ、鮮度は抜群である。

イケスにはアジやヒラメもいる。
アジは3匹1200円。ヒラメは1300円。
釣りは引っ掛け釣りなので、子供でも簡単に行うことができる。

もうひとつ、ブリなどの入ったマニア向けのイケスもあって、かなり白熱した人も見受けられた。
腕に自信のある人にはいいのだろう。

あまり人には教えたくないような優れたスポットである。


フィッシングパーク清洲東
愛知県清須市春日長久寺23(地図052-400-2661
木曜定休・11:30~21:30

フィッシングパーク清洲東HP


比較的、短時間で釣れるので、各イケスはそれほど混雑はしないようだった。


二階の食堂「やっちゃば」。釣りをしない人でも、刺身定食などを頼める。ライスは210円。


釣ったアジ3匹のうち2引きをフライにしてもらい、1匹を叩きにしてもらった。


やはり「大物」はおいしい。タイやヒラメは少し高いかな、と思ったけど、この味、この量では納得である。

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共有の無意識

2010年05月05日 | 日常雑感
金剛流能楽師の宇高道成(うだかみちしげ)氏が雑誌PHP誌の中で「宇宙は理念の宝庫」ということを言っておられる。

個々のユニークな身体的特徴や個性に加えて、明らかに重複され、蓄積された能力を持って生まれた存在は、どう説明されるのだろう。能の演者が、深い意識の中で、心、言葉、動きを融合させた時、宇宙のどこかから、先人の叡智が時を超えて、演者に流れ込んで来る。宇宙は理念の宝庫と言ってもよい。(PHP21年11月号)

この文を読んで思い出したのは、高橋たか子氏の「記憶の冥さ」の中の一文である。

(人の死後)肉体の内部にあった眼に見えないもの、つまり頭の中に蓄えられていたものはいったいどうなったのだろうか。(中略)それはアンダーグランドの広大無辺の世界へ入っていったのだ。消滅したのではなくて、日常の私たちには知覚されることのない世界へ入っていき、そこでいつまでも温存されているのだ。(中略)たとえば、私が或る時、ふといいことを思いつく。自分が考えたとは思えないふうに、いいことを思いつくことがある。意外に思われ、まるで他人が考えてくれたものが私に伝わってきたかのように思われることがある。そういうものはこの混沌とした無限世界から来るのだ。かつて生き、そして死んだ、特定の誰かのそれというのでなくて、無数のそれが混沌と蓄えられている領域から、どういう理由でか、考えが私の意識へ浮上してくるのである。

高橋たか子氏は、高橋和己の奥さんでもあった人だが、小説家は潜在意識を大きく開いて、この領域からアイデアを得ることが多いとも語っている。自らも言及されているが、これはユング的な考えである。
フロイトは意識の下部には、意識の何倍にもあたる無意識層があると主張したが、ユングは個人の意識、個人の無意識の下部には集団の無意識があると考えた。

この集団の無意識は人類だけと共有しているのではなく、動物、植物、鉱物、さらには宇宙と共有しているとユングは述べている。
これが冒頭の宇高氏の述べた宇宙観と繋がるものであり、高橋氏の主張とも繋がる。

限られた自分の狭い価値観の中で言い合いをしているのが、とてもちっぽけなことに思えてくる雄大な考えである。

高橋たか子「記憶の冥さ」人文書院

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映画名曲集

2010年05月04日 | ポップマニア
GWの夜長。
酒を片手にYoutubeを観ていたら止まらなくなった。
本当にYoutubeって凄い!
懐かしい映画の曲集。
内容的にはたいしたことのない映画もあるが、こうしてミュージッククリップの形でみると、とてもいい!
アイリーン・キャラのWhat a feeling などもこの曲があったから映画「フラッシュダンス」も成立した訳だし、「愛と青春の旅立ち」もあのジョー・コッカーのかすれ声がなければ、あそこまで感動的にはならなかった。
「ストリート・オブ・ファイヤー」も冒頭のこのシーンはかっこよすぎる。
スターシップの「愛が止まらない」はこんな優れたビデオクリップがあるとは知らなかった。
「小さな恋のメロディ」も内容よりも主人公の魅力とビージーズの歌声が大きかったが、ある年代以上の人には胸に詰まるものがあるのではないだろうか?
今日もまたYoutubeにはまりそうな気配である。


ストリート・オブ・ファイヤー ~ Nowhere fast

フラッシュダンス ~What a feeling

トップガン ~ Top gun anthem

愛と青春の旅立ち ~ Up where we belong

マネキン ~Nothing's gonna stop us now

小さな恋のメロディ ~ First of May(Olivia Ong版)

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偶然と必然

2010年05月03日 | 日常雑感
世の中は、偶然と偶然の結びつきにより成り立っているという人がいる。
テストで自分が勉強しない部分が出てしまい資格を取れなかっただとか、たまたま飛行機に乗り遅れたせいで事故に遭わずに済んだ、などの類である。

私はそう思わない。
落合恵子氏は、「出逢いは偶然、別れは必然」という名言を残したが、私は「出逢いも必然、別れも必然」だと思う。
世の中は「偶然」の振りをした「必然」に支配されている。

衛藤信之氏が著書「心時代の夜明け」のあとがきでこんなことを書いている。

この世で起こることにはすべて意味があるということ。
私は心から、意味のない人生など決して存在しないということを強く感じています。
この本を手に取られた方には人生を失敗だった、いまの私は不幸だと嘆いておられる人もいるかもしれませんが、その一見、失敗や不幸に見えることの中にも、何か見えない成功の序曲が始まっているのかもしれません。そんな気持ちで、単純だと思っている生活を見直して生きてみたらいかがでしょうか。


世の中に起こるすべてのことが偶然だったら、出来事にたいした意味はない。
必然だから、意味がある。
そして、必然だから、いとおしい。
この世の全てがあらかじめ運命によって決まっていると言っている訳ではない。

私は無宗教なので、具体的に「神」だとか「仏」と限定することは出来ないのだが、それでも人類を越える「絶対秩序」のような存在は信じる。
「絶対秩序」は偶然のような顔をしてさまざまな「問題」を出してくる。
知らないうちにテストされているようなものだ。
その回答によって、その後の人生が変わってくる。

冒頭の例だったら、資格試験に落ちて、何を学ぶかを「絶対秩序」は見ているのだ。
飛行機事故から免れて、その後、何をするかも見られている。
とにかく私たちは、目先のものに一喜一憂しがちだが、世の中はそんなに短絡的なものではないような気がしている。

衛藤信之「心時代の夜明け」PHP研究所
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覚悟

2010年05月01日 | 日常雑感
ある人が言っていた。
「覚悟の問題ですよ」

覚悟。
辞書を引いてみて少なからず驚いた。

あきらめて心を決めること。
好ましくないこと、または最大の努力を払わなければならない時が来るのをさとって、心を決めること。
もと、迷いを去り道理をさとること。さとり。


こんなにもネガティブなニュアンスだったのか。
努力が報われない人間は、覚悟が足りないのかも知れない。
この道で生きる、ということは、他の道を捨てること。この道で駄目だったら、こっちの道、それでも駄目だったら別の道、と考えているようでは、覚悟が足りない。

努力の量が多ければ誰でも成功するのであれば、長く努力した人は必ず成功する。
会社でも、もっとも残業が多い人が、もっとも出世するはずである。
要領だとか、工夫だとか、色々な要因もあるのだろうが、「この道」と覚悟を決めていない人は、どれだけ努力しても成功しないのではないかと思う。

私の知り合いで年もあまり変わらない社長がいるのだけど、彼が十年前、工場を新設するために億単位の借金をこさえたときは、心労で血尿が出たという。
これが、覚悟の重さなのだろう。

翻って、自分はどれだけ「覚悟」を持っているだろうか。
全然、足りないような気がする。


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