金剛流能楽師の宇高道成(うだかみちしげ)氏が雑誌PHP誌の中で「宇宙は理念の宝庫」ということを言っておられる。
個々のユニークな身体的特徴や個性に加えて、明らかに重複され、蓄積された能力を持って生まれた存在は、どう説明されるのだろう。能の演者が、深い意識の中で、心、言葉、動きを融合させた時、宇宙のどこかから、先人の叡智が時を超えて、演者に流れ込んで来る。宇宙は理念の宝庫と言ってもよい。(PHP21年11月号)
この文を読んで思い出したのは、高橋たか子氏の「記憶の冥さ」の中の一文である。
(人の死後)肉体の内部にあった眼に見えないもの、つまり頭の中に蓄えられていたものはいったいどうなったのだろうか。(中略)それはアンダーグランドの広大無辺の世界へ入っていったのだ。消滅したのではなくて、日常の私たちには知覚されることのない世界へ入っていき、そこでいつまでも温存されているのだ。(中略)たとえば、私が或る時、ふといいことを思いつく。自分が考えたとは思えないふうに、いいことを思いつくことがある。意外に思われ、まるで他人が考えてくれたものが私に伝わってきたかのように思われることがある。そういうものはこの混沌とした無限世界から来るのだ。かつて生き、そして死んだ、特定の誰かのそれというのでなくて、無数のそれが混沌と蓄えられている領域から、どういう理由でか、考えが私の意識へ浮上してくるのである。
高橋たか子氏は、高橋和己の奥さんでもあった人だが、小説家は潜在意識を大きく開いて、この領域からアイデアを得ることが多いとも語っている。自らも言及されているが、これはユング的な考えである。
フロイトは意識の下部には、意識の何倍にもあたる無意識層があると主張したが、ユングは個人の意識、個人の無意識の下部には集団の無意識があると考えた。
この集団の無意識は人類だけと共有しているのではなく、動物、植物、鉱物、さらには宇宙と共有しているとユングは述べている。
これが冒頭の宇高氏の述べた宇宙観と繋がるものであり、高橋氏の主張とも繋がる。
限られた自分の狭い価値観の中で言い合いをしているのが、とてもちっぽけなことに思えてくる雄大な考えである。
高橋たか子「記憶の冥さ」人文書院
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個々のユニークな身体的特徴や個性に加えて、明らかに重複され、蓄積された能力を持って生まれた存在は、どう説明されるのだろう。能の演者が、深い意識の中で、心、言葉、動きを融合させた時、宇宙のどこかから、先人の叡智が時を超えて、演者に流れ込んで来る。宇宙は理念の宝庫と言ってもよい。(PHP21年11月号)
この文を読んで思い出したのは、高橋たか子氏の「記憶の冥さ」の中の一文である。
(人の死後)肉体の内部にあった眼に見えないもの、つまり頭の中に蓄えられていたものはいったいどうなったのだろうか。(中略)それはアンダーグランドの広大無辺の世界へ入っていったのだ。消滅したのではなくて、日常の私たちには知覚されることのない世界へ入っていき、そこでいつまでも温存されているのだ。(中略)たとえば、私が或る時、ふといいことを思いつく。自分が考えたとは思えないふうに、いいことを思いつくことがある。意外に思われ、まるで他人が考えてくれたものが私に伝わってきたかのように思われることがある。そういうものはこの混沌とした無限世界から来るのだ。かつて生き、そして死んだ、特定の誰かのそれというのでなくて、無数のそれが混沌と蓄えられている領域から、どういう理由でか、考えが私の意識へ浮上してくるのである。
高橋たか子氏は、高橋和己の奥さんでもあった人だが、小説家は潜在意識を大きく開いて、この領域からアイデアを得ることが多いとも語っている。自らも言及されているが、これはユング的な考えである。
フロイトは意識の下部には、意識の何倍にもあたる無意識層があると主張したが、ユングは個人の意識、個人の無意識の下部には集団の無意識があると考えた。
この集団の無意識は人類だけと共有しているのではなく、動物、植物、鉱物、さらには宇宙と共有しているとユングは述べている。
これが冒頭の宇高氏の述べた宇宙観と繋がるものであり、高橋氏の主張とも繋がる。
限られた自分の狭い価値観の中で言い合いをしているのが、とてもちっぽけなことに思えてくる雄大な考えである。
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