梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/d8/0cd30340ae934667815bc0d8bec45573.jpg)
昭和56年、「遊牧集」
より。
空がやっと白んできた頃に見た幻想であろう。
先日、長谷川櫂が「現代俳句の鑑賞101」に
「これは幻。
梅には鶯、魚であればせいぜい池の鯉と
決まっている日本の詩歌の常識に
飽き足らぬ人の見た凶暴な幻である。」
とあるのを読んで、
凶暴な幻というのに戸惑いがあった。
ところで、早春の青鮫の幻想は、
作者の心理的のどんなところから来ているのだろうか。
白白とした静謐ななかに潜む、
春の蠢き、怖さかもしれない。
作者はそんな予知的な感受のデリカシーが強い人なのであろう。
韻が5,5,9である。句の作りから見ると、
梅と青鮫だけでは、
読者のなかに感応の不協和音が立つ。
「庭中に」という措辞が緩衝材の役割を果たしている。
庭という限られた具体的な空間が散漫にならず、
この奇異な青鮫が、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/d8/0cd30340ae934667815bc0d8bec45573.jpg)
昭和56年、「遊牧集」
より。
空がやっと白んできた頃に見た幻想であろう。
先日、長谷川櫂が「現代俳句の鑑賞101」に
「これは幻。
梅には鶯、魚であればせいぜい池の鯉と
決まっている日本の詩歌の常識に
飽き足らぬ人の見た凶暴な幻である。」
とあるのを読んで、
凶暴な幻というのに戸惑いがあった。
ところで、早春の青鮫の幻想は、
作者の心理的のどんなところから来ているのだろうか。
白白とした静謐ななかに潜む、
春の蠢き、怖さかもしれない。
作者はそんな予知的な感受のデリカシーが強い人なのであろう。
韻が5,5,9である。句の作りから見ると、
梅と青鮫だけでは、
読者のなかに感応の不協和音が立つ。
「庭中に」という措辞が緩衝材の役割を果たしている。
庭という限られた具体的な空間が散漫にならず、
この奇異な青鮫が、
読む側に、多少奇異ではあるが、入りこめるのだと思う。
参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm