寒卵煙も見えず雲もなく 知久芳子
煙も見えず雲もなく
これが軍歌の一節と知る人はもはや少ない
俳句は時代を切り取るという側面をあらためて知ることとなった
見事な寒卵に現代の私たちは何を思い浮かべるだろうか
(小林たけし)
季語は「寒卵(かんたまご)」で冬。寒中の鶏卵は栄養価が高く、また保存が効くので珍重されてきた。が、いまどきの卵を「寒卵」と言われても、もはやピンとこなくなってしまった。割った具合からして、いつもと同じ感じがする。それはともかく、掲句の卵は見事な寒卵だ。黄身が平素のものよりも盛り上がり、全体に力がみなぎっている様子がうかがえる。まさに一点のくもりもなく、椀に浮いているのだ。それを大袈裟に「煙も見えず雲もなく」と言ったところに、面白い味が出た。このときに「煙も見えず雲もなく」とは、あまりにも見事な卵の様子に、思わず作者の口をついて出た鼻歌だろう。というのも、この中七下五は、日清戦争時の軍歌「勇敢なる水兵」の出だしの文句だからだ。佐々木信綱の作詞。この後に「風も起こらず波立たず/鏡のごとき黄海は/曇り初めたり時の間に」とつづく。八番まである長い歌で、黄海の海戦で傷つき死んでいった水兵を讚える内容である。内容の深刻さとは裏腹に、明るいメロディがついていて、おかげでずいぶんと流行したらしい。しかし、作者は昨日付の宗因句のように、パロディを意識してはいない。したがって、好戦や反戦とは無関係。卵を割ったとたんに、ふっと浮かんできた文句がこれだった。すなわち鼻歌と言った所以だが、歌も鼻歌にまでなればたいしたものである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
【寒卵】 かんたまご
◇「寒玉子」
鶏が寒中に産んだ卵のこと。卵はもともと滋養に富んでいるが、特にこの時期のものが良いといわれている。
例句 作者
ぬく飯に落して円か寒玉子 高浜虚子
寒卵二つ置きたり相寄らず 細見綾子
寒卵割る一瞬の音なりき 山口波津女
わが生ひ立ちのくらきところに寒卵 小川双々子
寒卵わが晩年も母が欲し 野澤節子
寒玉子一つ両手にうけしかな 久米三汀
寒卵割れば直ちに自転かな 星野紗一
母の世や病気見舞に寒卵 古賀まり子
寒卵薔薇色させる朝ありぬ 石田波郷
塗椀に割つて重しよ寒卵 石川桂郎