竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

大寒や転びて諸手つく悲しさ 西東三鬼

2020-01-21 | 今日の季語


大寒や転びて諸手つく悲しさ 西東三鬼

掲句は老境の私には実感である
諸手で身を守れるのだから
良かったとも思えるがそうではあるまい
転ぶことが悲しいのである
転んだ醜態は人には見られていないのは救いだが
己自身は一部始終を演じているのだと知っている
(小林たけし)


季語は「大寒」。「小寒」から十五日目、寒気が最も厳しいころとされる。あまりにも有名な句だけれど、その魅力を言葉にするのはなかなかに難しい。作者が思いを込めたのは、「悲しさ」よりも「諸手(もろて)つく」に対してだろう。不覚にも、転んでしまった。誰にでも起きることだし、転ぶこと自体はどうということではない。「諸手つく」にしても、危険を感じれば、私たちの諸手は無意識に顔面や身体をガードするように働くものだ。子供から大人まで、よほどのことでもないかぎりは転べば誰もが自然に諸手をつく。そして、すぐに立ち上がる。しかしながら、年齢を重ねるうちに、この日常的な一連の行為のプロセスのなかで、傍目にはわからない程度ながら、主観的にはとても長く感じられる一瞬ができてくる。それが、諸手をついている間の時間なのである。ほんの一瞬なのだけれど、どうかすると、このまま立ち上がる気力が失われるのではないかと思ったりしてしまう。つまり、若い間は身体の瞬発力が高いので自然に跳ね起きるわけだが、ある程度の年齢になってくると、立ち上がることを意識しながら立ち上がるということが起きてくるというわけだ。掲句の「諸手つく」は、そのような意識のなかでの措辞なのであり、したがって「大寒」の厳しい寒さは諸手を通じて、作者の身体よりもむしろその意識のなかに沁み込んできている。身体よりも、よほど心が寒いのだ……。この「悲しさ」が、人生を感じさせる。掲句が共感を呼ぶのは、束の間の出来事ながら、多くの読者自身に「諸手つく」時間のありようが、実感としてよくわかっているからである。『夜の桃』(1948)所収。(清水哲男)

【大寒】 だいかん
二十四節気の一つ。小寒に続く1月20、21日頃からの15日間を云う。陰暦では12月中であり、まさに厳寒の時季。しかし寒くはあるが、空には早春のひかりが宿り始めており、梅の便りも聞こえてくる。

例句 作者

大寒の埃の如く人死ぬる  高浜虚子
馬の顔大寒の日にあたたまる 中里麦外
大寒や水あげて澄む茎の桶 村上鬼城
大寒や小浜しぶとき紙相撲 野家啓一
大寒の犬急ぐなり葛西橋 殿村莵絲子
大寒の一戸もかくれなき故郷 飯田龍太
大寒の入日野の池を見失ふ 水原秋櫻子
大寒をただおろおろと母すごす 大野林火
大寒の紅き肉吊り中華街 池田秀水
大寒のここはなんにも置かぬ部屋 桂 信子