安々と海鼠の如き子を生めり 夏目漱石
漱石を知らなければなんとも難解な句となるが
詠んだ頃の漱石の生活をしればかくもありなんと納得する
安々と は妻子の無事に安堵する漱石の気持ちまでの表現にも感じられる
併せて、無事で生まれた長女である。漱石にとってみれば海鼠でも蛸でもなんでも感激なのだった
(小林たけし)
漱石の妻・鏡子は一度流産している。この句はその後に長女・筆子を生んだときのもので、作者の安堵ぶりがうかがえる。人間の子を「海鼠(なまこ)」みたいだとは、いくら何でもひどいじゃないか。そう思いたくもなるのだが、このときの漱石は気もそぞろ。今度は無事に生まれてくれよと、生まれるまで落ち着けなかった。当時は自宅出産だから、家の中を襖越しにただうろうろするばかりの男としては、元気な産声を耳にし、生まれたばかりの赤子を見せられて、ほっとしたあまりに思わずも本音が出たというところだろう。人間、安心すると、「なんだ、たいしたことなかったじゃないか」との安堵感から、憎まれ口の一つも叩きたくなるものなのだ。言い換えれば、普段通りの心の余裕のある顔つきで表現したくなってしまう。この句はそういう産物で、それまでの狼狽ぶりが書かれていないだけに、かえってそれをうかがわせる何かがあるではないか。漱石先生の頭は隠されているけれど、尻は立派に出てしまっているのだ。今日はキリストの誕生日。誰もそんな想像はしないだろうが、彼もまた、海鼠のように生まれてきたのかしらん。ところで「海鼠」は冬の季語だが、筆子の誕生は五月だった。したがって揚句は夏の句ないしは無季に分類すべきなのだろうが、歳時記の便宜上「冬季」に置いておきたい。この句に限らず、歳時記の編纂には、しばしばこうした悩ましさがつきまとう。坪内捻典・あざ蓉子編『漱石熊本百句』(2006・創風社出版)所収。(清水哲男)
【海鼠】 なまこ
◇「海鼠突」 ◇「海鼠舟」 ◇「海鼠桶」
ナマコの古名は「こ」。そこで「なまこ」は生のもの、「いりこ」は火にかけたもの、「ほしこ」は天日干ししたもの、「このこ」は卵巣を干したもの、「このわた」は腸の塩辛、ということになる。ナマコは、触手で泥ごと口に入れ、有機物だけを消化吸収し、泥は肛門から排泄するという。このようにふにゃふにゃとした得体の知れない動物を、よくぞここまで食用にしたものだと感心する。
例句 作者
珠洲の海の高波見るや海鼠かき 前田普羅
海鼠みてまじまじと見て男去る 瀧川照子
腸ぬいてさあらぬさまの海鼠かな 阿波野青畝
身に余る竿あやまたず海鼠舟 高崎武義
海鼠切り大海の水流れ出づ 蓬田紀枝子
海鼠桶昏さは海につながりぬ 福島 勲
なまなかな傾きならず海鼠舟 大野崇文
底といふ落着きにをり大海鼠 津森延世
心萎えしとき箸逃ぐる海鼠かな 石田波郷
生きながら一つに氷る海鼠かな 芭蕉