流求と覚醒の街角(60)ガラス
奈美が友人と旅行に行き、お土産を買ってきてくれた。中味を開けると、カラフルなグラスが出て来た。ガラス製の彩色が施されたもの。ぼくはそれが作られる過程を想像してみる。もし、大量生産の品でなければ、製作者が熱で溶かし、形成してできあがる。色をつけるのが、いったいどの過程で行われるのかがまったく分からなかった。素材そのものに色がもう含まれているのか、あとからこびり付けるように付着させるのか、途中のどこかで紛れ込ませるのか、正解はぼくにはなかった。それが機械の流れ作業でできるならば、それでも、同じように回答はなかった。安価につくられる大量生産品。ぼくらは、どれも十ヶ月ぐらいは母の胎内にいた。安価でもなければ、規格というものもなかった。すべてが個性の産物であった。
そして、どの過程でいちばん個性という色が付着するのだろう。親の存在は大きなものだ。遺伝子というもので、先ずは決定的な枠組みをつくる。生活をともにしながら形成していく。まわりの環境で言葉遣いや美意識も決まる。あるいは、馴染んでいく。負けず嫌いとか、友情を重んじるとか、弱いものに対して手を差し伸ばすことが自然にできるとか、その子自身の特徴もあった。やはり、それもまわりの環境に助けが必要な子がそもそもいたから育まれる可能性もあったのかもしれない。
ぼくはグラスを丁寧に洗い乾かした。乾かしたといっても朝に洗ったものをそのまま伏せていただけだ。仕事が終わり、流しにそれがあることを見つける。ぼくは氷をそこに入れる。それから液体を注いだ。グラスは軽やかな音を発した。コロコロンと。
ぼくは以前、こういう状態で何かを回想した場面があったことを思い出していた。だが、それは直ぐにはでてこなかった。あえて早急に回答を求める代わりに、過去のいくつかの場面を頭のなかで再現させた。ガラス製品がでてくる範疇において。
子どもなら理科の実験がある。ビーカー。フラスコ。六人ぐらいの班でひとつの実験をする。率先して頑張ってくれたあの女の子の名前をもう思い出せなかったが、あの子は奈美と共通するものがあることを今になって知った。顕微鏡で見つめるものもガラスの板にのせた微細な何かだった。学校も終わってみなで集まる駄菓子屋でジュースを飲んだ。瓶は自分でふたを開ける機械に突っ込み、斜めにして開けた。飲み終わると勝手に裏にまわって派手なケースの一角におさめた。ある時期、瓶は店にもっていくとお金にかわった。
大人になってワインを飲んだ女性の爪のことを思い出す。そうだ、ぼくはあの子と別れて夏の日の仕事が終わった転勤先の場所で回想したのだった。それは確かに自分でありながら、もう自分ではないような気もした。あの日より、何かの拍子に割れてしまったビーカーに驚くあの少女の顔のほうが、いまの自分にとってはより一層の真実味があった。ぼくはあの子の真剣さに対する報いに憤慨しても良かったし、さらに大人として慰めることもできたことを知った。しかし、当時の自分はその子をからかって、さらにいじめた。いや、いじめるという認識もなく、他のグループがうまくいっていること自体から集中力を殺がせる必要を無意識に感じていたのだ。その奥底の心境など真剣なる先生に通じるわけもなく、こっぴどく叱られた。数日間、あの少女は口をきいてくれなくなった。だが、ぼくの日々の暮らしにとってそれほど痛手を受けるわけでもない。放課後も休み時間もその子がいなくても順調にすすみ、かつ楽しめたのだ。でも、こころの奥では謝るタイミングも見計らっていた。だが、結果としてはその子から一方的に謝ってきた。自分の不注意でぼくが代わりに先生に叱られたと彼女にも不本意な気持ちがのこっていた。それ以後、自分がどう返答したのかも覚えていない。あの時期の炭酸飲料の味ほどにも覚えていなかった。
ぼくは、あらためて酒を注ぐ。ひとつのグラスというものも意外と味気ないものだと感じる。こういうものは対になったりして、またはセットで使うことによって生きるのではないのだろうか。奈美も同じものを買ってきたのだろうか。今度、訊いてみることにしよう。
ぼくはシャワーを浴び、その間に実験室の少女の名前を思い出そうとしたが、どうやってもでてこなかった。記憶の引き出しのどこかには仕舞われているはずだ。ぼくに思い出にするかしないかの選択権などなく、勝手に放り込まれているはずだ。しかし、それを取り出すには、ぼくの力だけしか頼るものがなかった。そして、その力も意に反して頼りなかった。
ぼくは飲みかけのグラスにまた酒を注いだ。新鮮な入れ物を有したことによって、味がかわったような錯覚があった。味覚も視覚もだいたいはあやふやなものであるようだった。そのあやふやさを通過して、ぼくらは判断の条件にする。すると、判断も当然、不安定な結果を招くことになるのだろう。
蛍光灯にさらすとさらにグラスの色が変化した。ぼくはそれを奈美だと思う。ある面では勇気があり、別の面ではしぶとかった。だが、自分に甘くもあった。この固定されたグラスには変化は訪れない。違うのだろうか。中味になるものが及ぼす影響をひたすらに待っているのかもしれない。最終的に変化をするのは割れてしまって使い物にならないときだけだ。そして、あの少女は泣き出す。ぼくは、もっと早めに謝れば良かったと後悔している。しかし、後悔の数など並び立てれば、とにかく無数にあるのだ。大量生産の後悔、とぼくはひとりごとを言う。その最後列に加わるようなものを阻止しようと、これから何ができるだろうかと思案をしたが、新しいグラスの所為で思いのほか、酔ってしまったようだった。ぼくは後悔が海の波のようになって押し寄せる姿を想像しているうちに眠ってしまったようだった。眠りの入り口は柔らかく、その後に移動したベッドのうえも心地よかった。ガラスのような固いものはどこにもなかった。そして、ぼくのひとことや、行いの所為で泣く女性を増やさないとぼんやりとした頭で誓った。
奈美が友人と旅行に行き、お土産を買ってきてくれた。中味を開けると、カラフルなグラスが出て来た。ガラス製の彩色が施されたもの。ぼくはそれが作られる過程を想像してみる。もし、大量生産の品でなければ、製作者が熱で溶かし、形成してできあがる。色をつけるのが、いったいどの過程で行われるのかがまったく分からなかった。素材そのものに色がもう含まれているのか、あとからこびり付けるように付着させるのか、途中のどこかで紛れ込ませるのか、正解はぼくにはなかった。それが機械の流れ作業でできるならば、それでも、同じように回答はなかった。安価につくられる大量生産品。ぼくらは、どれも十ヶ月ぐらいは母の胎内にいた。安価でもなければ、規格というものもなかった。すべてが個性の産物であった。
そして、どの過程でいちばん個性という色が付着するのだろう。親の存在は大きなものだ。遺伝子というもので、先ずは決定的な枠組みをつくる。生活をともにしながら形成していく。まわりの環境で言葉遣いや美意識も決まる。あるいは、馴染んでいく。負けず嫌いとか、友情を重んじるとか、弱いものに対して手を差し伸ばすことが自然にできるとか、その子自身の特徴もあった。やはり、それもまわりの環境に助けが必要な子がそもそもいたから育まれる可能性もあったのかもしれない。
ぼくはグラスを丁寧に洗い乾かした。乾かしたといっても朝に洗ったものをそのまま伏せていただけだ。仕事が終わり、流しにそれがあることを見つける。ぼくは氷をそこに入れる。それから液体を注いだ。グラスは軽やかな音を発した。コロコロンと。
ぼくは以前、こういう状態で何かを回想した場面があったことを思い出していた。だが、それは直ぐにはでてこなかった。あえて早急に回答を求める代わりに、過去のいくつかの場面を頭のなかで再現させた。ガラス製品がでてくる範疇において。
子どもなら理科の実験がある。ビーカー。フラスコ。六人ぐらいの班でひとつの実験をする。率先して頑張ってくれたあの女の子の名前をもう思い出せなかったが、あの子は奈美と共通するものがあることを今になって知った。顕微鏡で見つめるものもガラスの板にのせた微細な何かだった。学校も終わってみなで集まる駄菓子屋でジュースを飲んだ。瓶は自分でふたを開ける機械に突っ込み、斜めにして開けた。飲み終わると勝手に裏にまわって派手なケースの一角におさめた。ある時期、瓶は店にもっていくとお金にかわった。
大人になってワインを飲んだ女性の爪のことを思い出す。そうだ、ぼくはあの子と別れて夏の日の仕事が終わった転勤先の場所で回想したのだった。それは確かに自分でありながら、もう自分ではないような気もした。あの日より、何かの拍子に割れてしまったビーカーに驚くあの少女の顔のほうが、いまの自分にとってはより一層の真実味があった。ぼくはあの子の真剣さに対する報いに憤慨しても良かったし、さらに大人として慰めることもできたことを知った。しかし、当時の自分はその子をからかって、さらにいじめた。いや、いじめるという認識もなく、他のグループがうまくいっていること自体から集中力を殺がせる必要を無意識に感じていたのだ。その奥底の心境など真剣なる先生に通じるわけもなく、こっぴどく叱られた。数日間、あの少女は口をきいてくれなくなった。だが、ぼくの日々の暮らしにとってそれほど痛手を受けるわけでもない。放課後も休み時間もその子がいなくても順調にすすみ、かつ楽しめたのだ。でも、こころの奥では謝るタイミングも見計らっていた。だが、結果としてはその子から一方的に謝ってきた。自分の不注意でぼくが代わりに先生に叱られたと彼女にも不本意な気持ちがのこっていた。それ以後、自分がどう返答したのかも覚えていない。あの時期の炭酸飲料の味ほどにも覚えていなかった。
ぼくは、あらためて酒を注ぐ。ひとつのグラスというものも意外と味気ないものだと感じる。こういうものは対になったりして、またはセットで使うことによって生きるのではないのだろうか。奈美も同じものを買ってきたのだろうか。今度、訊いてみることにしよう。
ぼくはシャワーを浴び、その間に実験室の少女の名前を思い出そうとしたが、どうやってもでてこなかった。記憶の引き出しのどこかには仕舞われているはずだ。ぼくに思い出にするかしないかの選択権などなく、勝手に放り込まれているはずだ。しかし、それを取り出すには、ぼくの力だけしか頼るものがなかった。そして、その力も意に反して頼りなかった。
ぼくは飲みかけのグラスにまた酒を注いだ。新鮮な入れ物を有したことによって、味がかわったような錯覚があった。味覚も視覚もだいたいはあやふやなものであるようだった。そのあやふやさを通過して、ぼくらは判断の条件にする。すると、判断も当然、不安定な結果を招くことになるのだろう。
蛍光灯にさらすとさらにグラスの色が変化した。ぼくはそれを奈美だと思う。ある面では勇気があり、別の面ではしぶとかった。だが、自分に甘くもあった。この固定されたグラスには変化は訪れない。違うのだろうか。中味になるものが及ぼす影響をひたすらに待っているのかもしれない。最終的に変化をするのは割れてしまって使い物にならないときだけだ。そして、あの少女は泣き出す。ぼくは、もっと早めに謝れば良かったと後悔している。しかし、後悔の数など並び立てれば、とにかく無数にあるのだ。大量生産の後悔、とぼくはひとりごとを言う。その最後列に加わるようなものを阻止しようと、これから何ができるだろうかと思案をしたが、新しいグラスの所為で思いのほか、酔ってしまったようだった。ぼくは後悔が海の波のようになって押し寄せる姿を想像しているうちに眠ってしまったようだった。眠りの入り口は柔らかく、その後に移動したベッドのうえも心地よかった。ガラスのような固いものはどこにもなかった。そして、ぼくのひとことや、行いの所為で泣く女性を増やさないとぼんやりとした頭で誓った。