爪の先まで神経細やか

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流求と覚醒の街角(65)ニット

2013年10月23日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(65)ニット

 曇り空の下の彼女。

 彼女は暖かそうなニットの上着を着ている。ひとは動物と違い着替えることによって温度調節が可能だ。いまは寒い。ぼくは何度目かの奈美の冬へ向かう服装を見ることになった。水着や薄手のブラウスも可愛かった。だが、シックな色合いの洋服もよく似合った。かといって春先の淡い色が似合わないわけでもない。これが、恋する状態が生む結果であることも知っていた。その感じたものを言葉としてもっと告げるべきだったのかもしれない。

 防寒もおしゃれになり、女性本来の柔らかさを生んだ。目も強い光線で痛みつけられることもない。物事は層を通過した向こうにあり、直接に触れ得るものは少なかった。

 樹木も赤く色付いた。すでに芽吹くことを止め、後退の時期に入った。だがこれを越えないと新しいものもやって来ないのだった。いったん袋を空にする必要があった。どんぐりを貯め込む動物も片一方ではいるけれど。

 ぼくらは落ちた草木を踏みしめた。乾燥した音が靴の裏でする。耳はときおり吹く冷たい風に敏感になっていた。暑いときは耳は熱に対してなにも教えてくれなかったが、反対に冬に近付くと主張をするようになる。その歴然とした差をぼくは奈美に報告する。

「そうだね。でも、自分が熱を出したり、酔ったりすると結構、主張する部分だよ、耳って」
「そうかもね」とぼくは答える。鼻の先も冷たくなっている。「太陽が沈むと急に冷え込みそうだね」

 奈美はその言葉を聞くと条件反射のように上空を見た。樹にしがみつく葉っぱは段々と少なくなっていく。
「鍋でも食べる?」
「そうしようっか」ぼくはふたを開けた瞬間の湯気を想像する。冬の本場。冬の本番。今夜の献立。「また、スキー行くんだろう?」
「本当にしたくない?」

 ぼくは返事をしなかった。秋が終わろうとする一日に何も決断したくなかった。ただ、鍋に入る具材を決めることは別の問題だった。食べ物を通しても暖まり、言葉を通じて温かい気持ちにもなる。実際のヒーターやお互いの体温で寒さを避けることもできた。ぼくらは手をつなぐ。子どものころは両親の間に挟まり、この安心感を得た。思春期になるとこの状態になることを恥じ、周囲の視線に過剰に反応した。しかし、また戻って結び付きを信じるようになる。会話はなくても身体の末端の一部が親密さの証拠になった。

 この季節の日射しは夕方の五時までももちこたえなかった。電気のない時代なら、一日の作業を終え、小さな灯りで晩のひとときを過ごさなければならないのだろう。だが、ぼくらはライトアップされた場所に向かっていた。電飾がひとびとを呼ぶ。ぼくらはため息とともに美に見惚れる。

「見惚れてるね?」と奈美がぼくに言った。ぼくはあの場所でラファエロの絵を前にして同じセリフを別の女性に言われたことを思い出していた。
「そうだね」ぼくは視線を奈美に向けた。「男性は好きなものを一心に見つめる」
「女性は?」
「気にしてない異性とずっと視線が合っていても困らないらしいよ。受け売りだけど。男性なら、変な誤解をされたら困るからしない」

「好きだったら?」
「最初は、視線を合わせないようにうまい具合に逸らす。心理学的にはそうみたいだけど。実証する数も少ないんで本質はどうか判断もできない」
「シャイな男性もいっぱいいるけど」
「いるし。潤んだ瞳の女性もいっぱいいる。誤解を与えているのもしらずに」

 ぼくらは温かいものを飲んだ。奈美の頬は寒さによって染まっていた。ぼくは、この頬もどこかで見ていたのだ。
「お腹すいたね」
「空いた。賛成」
「スーパー寄って、白菜とか買ってうちに来る?」
「そうしようっか。賛成」

 ぼくらはその後、ビニール袋をぶら下げ、奈美の家に向かった。正面には月が出ていた。星も少なかったが、どこか遠くで瞬いていた。どれほどの距離かを知らなくても夜空に光っているものを、子どもも星と認識する。無闇矢鱈と足場もない空中から落ちてこないことも、法則は知らないが気付いていた。ある日、流れ行くものに願をかけることを教わる。だが、ぼくは一度もしたことがなかった。上空にあるものより、目の前にあるものの方が結局は誠実であり、正しいのだ。ぼくは奈美の肩の辺りの毛糸を触る。それは一本の毛糸に過ぎなかったのだ。もともとは。いつか形を成し、立体的なものになった。ぼくの女性観も、若い頃の恥ずかしさを越え、立体的なものとなった。その分だけ、いなくなれば痛みが加わることも知っている。ただの一本の糸に過ぎないのだとは考えにくい。ぼくらには無数の思い出ができ、毛糸も複雑に編み込まれ、象徴的にカラフルになるのだ。

 奈美は部屋のカギを開ける。部屋は寒くて暗い。電灯がつく。ガスが野菜を温める。湯気が出る。腹を満たす。奈美は服を脱いで体温を調節する。食べ切れなかった野菜がまだ底にのこっていた。ぼくは見る。見惚れるというのはやはり重い言葉だった。ぼくは奈美を見る。結わいた髪のため、のぞいた耳は幾分か赤くなっていた。ぼくはまだ新しいソファのうえに座り、もうなにもしたくないという怠惰な気持ちで温まった部屋のなかで集中力を消え行く湯気のように四方八方に分散させていた。