流求と覚醒の街角(62)更新
「借りてるアパート、更新の時期になった」意味もなくもらす一言。ぼくの考察のない口。
「だったら、いっしょに住んであげようか、これから?」
「でも、住宅補助とかもらってるからな」
奈美は珍しく即答しないで沈黙する。「女性に対して、正解の答えではないと思うけど。先ず?」
「そうだよな」
「ありがとうとか、うれしいとかじゃない、普通。ショック。まっさきに住宅補助だって」
ぼくは転勤先からもどっていまの場所に住んだ。転勤の途中で以前の交際を終えた。彼女は度々、遠いあそこまで遊びに来てくれた。走り去る彼女の車。バックミラー。そして、新しい女性とここに住んでから出会った。しかし、その期間を正直に分析すれば、前の女性を忘れることを拒んだ年月であり、自分自身に対して許しや猶予を与えた時間だった。でも、それも一面から見たら、どこかに残っている程度の残滓で、ぼくは奈美を当然のこといちばんに考えていたのだ。過去の楽しさを取り戻せないことなど本人である自分がいちばん知っていた。解約された関係など。
「奈美だって、住宅補助をもらっているだろう?」
「もらってるけど。ねえ、話をすり替えようとしているの?」
「してないよ」
「付き合ってから、どれぐらいか知ってる?」
「知ってるよ」
「じゃあ、答えて」
付け込まれる男性。複数の質問による殴打。ぼくは掻い潜りながらも軽いパンチは受ける。ある女性の大切な時間を占有したならば、そこには自ずと責任が生じた。責任をきちんとまっとうするには、ふたつの生活がひとつに近付くことを検討するのだった。
だが、奈美のささいな怒りは長持ちしなかった。ぼくらは先ほどの話題を棚上げにする。決してなくならないが、当面は忘れるのだ。正直にいえば、ぼくは奈美の次など考えられなかった。ぼくらには共有した過去の時間の累積があり、ふたりにしか分からない暗黙の了解みたいなものを通じた居心地の良さも感じていた。それは、将来を選ぶ基準として貴重なものだったし、壊せるものでもなかった。消滅し得ないなにかが、もうはっきりと存在していたのだ。ぼくはいまのアパートに住んでいた期間で、それを温め、純粋に納得していた。
「それ抜きにして、どっか別に住みたい場所とかあるの?」
「ひとりのままなら、あそこでいいよ。どこで買い物すればいいかも分かってるし、周りの環境もそれほど悪くないしね」
「ふたりなら?」
「もう少し自然の多いところとか。休日を過ごしやすそうな」
「向こうの家はどうだったの? こっちに帰ってくる前だけど」
「仕事が忙しかったからね。受け持つ範囲も広いし。職場と自宅の往復で、それ以外の思い出もそれほど多くない」だが、それも突き詰めれば嘘だった。ぼくは前の女性との思い出を直ぐに思い返すことができた。ぼくも若く、それゆえにがむしゃらで計算などしないまま前の女性とぶつかった。彼女もまた若く、愛がこわれることを異常におそれた。いくらおそれ、避けようとしても結局はやってきたのだ。その期間を通過したぼくは、いまここでも真剣に対応しようと思っていた。
ぼくらは理想の間取りを語り合った。休日の過ごし方。そこには、段々とぼくらの子どもがいるようにもなっていた。その子のための環境を重視する。その子を可愛がる奈美の両親の印象まで、もうぼくの手元にあった。それを失うのも簡単であれば、同じぐらいにすくって価値あるものにするのも簡単であるようだった。
結局、夜遅くなり、ぼくは更新がせまったアパートにひとりで帰った。理想の間取りではないし、やはり、そこには奈美がいるべきだとも確かに感じられた。いないことへの不満と憂鬱。その感情がぼくの奥底から生じ、さざ波立つように主張をしていた。穏やかにするのには何を取り込み、なにを防ぐ必要があるのだろうか。しかし、ここにも奈美との思い出の断片が無数にあった。ぼくが別の場所に越してしまえば、その断片はどこかに葬り去られてしまう可能性があった。前の部屋に、前の女性の記憶の断片が散らばってあったように。
翌日になる。アパートの住人がゴミを出している。見覚えのない顔だった。だが、向こうがにこやかに会釈をしたので、ぼくも同様にする。しかし、数歩もあるくともうその顔が思い出せずにいた。印象ならなんとなく分かる。相手もぼくの背格好とか眠そうな顔とか、ネクタイの柄とかの、ぼくに付随するものだけでぼくというものを判断の材料にするのかもしれない。ぼくも奈美のことを当初はそう感じていたのだろう。だが、何度も会い、何度かは多少の衝突を積み重ね、お互いを愛すべき対象として認識して育てていった。その育ったものにはやはり注いだだけの愛情が伴っていた。失うこともないが、大事にしなければ枯れることもありえる。
油断していたのか、定期の期限が切れており、改札を通り抜けられなかった。ぼくは日付を確認する。それは昨日だ。昨日のこの土地にぼくは存在した。明日は、どうなっていくのだろう。奈美と歩むべき場所の最善のところはいったいどこだろう。そう悠長に思っている暇もなく、舌打ちをされる列から逃げた。定期を更新する。日付と駅名と簡単なぼくの氏名や概略。これだけが自分を証明するものだった。この不確かな情報の集まったものが、今朝の自分だった。
「借りてるアパート、更新の時期になった」意味もなくもらす一言。ぼくの考察のない口。
「だったら、いっしょに住んであげようか、これから?」
「でも、住宅補助とかもらってるからな」
奈美は珍しく即答しないで沈黙する。「女性に対して、正解の答えではないと思うけど。先ず?」
「そうだよな」
「ありがとうとか、うれしいとかじゃない、普通。ショック。まっさきに住宅補助だって」
ぼくは転勤先からもどっていまの場所に住んだ。転勤の途中で以前の交際を終えた。彼女は度々、遠いあそこまで遊びに来てくれた。走り去る彼女の車。バックミラー。そして、新しい女性とここに住んでから出会った。しかし、その期間を正直に分析すれば、前の女性を忘れることを拒んだ年月であり、自分自身に対して許しや猶予を与えた時間だった。でも、それも一面から見たら、どこかに残っている程度の残滓で、ぼくは奈美を当然のこといちばんに考えていたのだ。過去の楽しさを取り戻せないことなど本人である自分がいちばん知っていた。解約された関係など。
「奈美だって、住宅補助をもらっているだろう?」
「もらってるけど。ねえ、話をすり替えようとしているの?」
「してないよ」
「付き合ってから、どれぐらいか知ってる?」
「知ってるよ」
「じゃあ、答えて」
付け込まれる男性。複数の質問による殴打。ぼくは掻い潜りながらも軽いパンチは受ける。ある女性の大切な時間を占有したならば、そこには自ずと責任が生じた。責任をきちんとまっとうするには、ふたつの生活がひとつに近付くことを検討するのだった。
だが、奈美のささいな怒りは長持ちしなかった。ぼくらは先ほどの話題を棚上げにする。決してなくならないが、当面は忘れるのだ。正直にいえば、ぼくは奈美の次など考えられなかった。ぼくらには共有した過去の時間の累積があり、ふたりにしか分からない暗黙の了解みたいなものを通じた居心地の良さも感じていた。それは、将来を選ぶ基準として貴重なものだったし、壊せるものでもなかった。消滅し得ないなにかが、もうはっきりと存在していたのだ。ぼくはいまのアパートに住んでいた期間で、それを温め、純粋に納得していた。
「それ抜きにして、どっか別に住みたい場所とかあるの?」
「ひとりのままなら、あそこでいいよ。どこで買い物すればいいかも分かってるし、周りの環境もそれほど悪くないしね」
「ふたりなら?」
「もう少し自然の多いところとか。休日を過ごしやすそうな」
「向こうの家はどうだったの? こっちに帰ってくる前だけど」
「仕事が忙しかったからね。受け持つ範囲も広いし。職場と自宅の往復で、それ以外の思い出もそれほど多くない」だが、それも突き詰めれば嘘だった。ぼくは前の女性との思い出を直ぐに思い返すことができた。ぼくも若く、それゆえにがむしゃらで計算などしないまま前の女性とぶつかった。彼女もまた若く、愛がこわれることを異常におそれた。いくらおそれ、避けようとしても結局はやってきたのだ。その期間を通過したぼくは、いまここでも真剣に対応しようと思っていた。
ぼくらは理想の間取りを語り合った。休日の過ごし方。そこには、段々とぼくらの子どもがいるようにもなっていた。その子のための環境を重視する。その子を可愛がる奈美の両親の印象まで、もうぼくの手元にあった。それを失うのも簡単であれば、同じぐらいにすくって価値あるものにするのも簡単であるようだった。
結局、夜遅くなり、ぼくは更新がせまったアパートにひとりで帰った。理想の間取りではないし、やはり、そこには奈美がいるべきだとも確かに感じられた。いないことへの不満と憂鬱。その感情がぼくの奥底から生じ、さざ波立つように主張をしていた。穏やかにするのには何を取り込み、なにを防ぐ必要があるのだろうか。しかし、ここにも奈美との思い出の断片が無数にあった。ぼくが別の場所に越してしまえば、その断片はどこかに葬り去られてしまう可能性があった。前の部屋に、前の女性の記憶の断片が散らばってあったように。
翌日になる。アパートの住人がゴミを出している。見覚えのない顔だった。だが、向こうがにこやかに会釈をしたので、ぼくも同様にする。しかし、数歩もあるくともうその顔が思い出せずにいた。印象ならなんとなく分かる。相手もぼくの背格好とか眠そうな顔とか、ネクタイの柄とかの、ぼくに付随するものだけでぼくというものを判断の材料にするのかもしれない。ぼくも奈美のことを当初はそう感じていたのだろう。だが、何度も会い、何度かは多少の衝突を積み重ね、お互いを愛すべき対象として認識して育てていった。その育ったものにはやはり注いだだけの愛情が伴っていた。失うこともないが、大事にしなければ枯れることもありえる。
油断していたのか、定期の期限が切れており、改札を通り抜けられなかった。ぼくは日付を確認する。それは昨日だ。昨日のこの土地にぼくは存在した。明日は、どうなっていくのだろう。奈美と歩むべき場所の最善のところはいったいどこだろう。そう悠長に思っている暇もなく、舌打ちをされる列から逃げた。定期を更新する。日付と駅名と簡単なぼくの氏名や概略。これだけが自分を証明するものだった。この不確かな情報の集まったものが、今朝の自分だった。