爪の先まで神経細やか

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仮の包装(13)

2017年02月05日 | 仮の包装
仮の包装(13)

 女主人は退院してもとの仕事にもどった。それほど大きくない身体がひとまわり小さくなったような印象をもつ。ここには体重計がなかった。ぼくも自分の体重の推移を数字として目にすることはない。最近は閑散としているので仕事の量も多くない。ぼくは漁師の家で細々とした作業を手伝い、糊口をしのぐ。するとももこが帰ってくる。もう制服ではない。大人びた洋服で会社からもどるのだ。

「おかえり」ぼくは、この家の人間のような言いぶりと口調に自分で驚いていた。
「ただいま。お客さんいないの?」今日も、という指摘が隠されている。
「なかなかね」

 ものごとを発展させる段階があり、もうあの民宿は成長の踊り場にいなかった。そこの一員になってしまった自分も正直にいえば八方ふさがりだった。

 ぼくは家族の一員のように夕飯を食べる。生活費を入れているわけでもないが親切にされる。なにかで恩返しをしたく思うが、そのなにかというものを大体の人間は見つけられないでいるのだ。

「ただいま帰りました」
「お帰り」女主人がいう。めずらしく男性の靴がきちんと履きやすいように外を向いて並べてある。

 静かな声がする。密談。相談。ここはプライバシーがあるようでなかった。
「お客さん、帰ります」そのことばを合図にぼくは玄関に向かう。「こちらが、従業員。短い間だったかもしれないけど」
「そうですか」スーツがよく似合うメガネの男性は気持ちよく微笑んだ。それを仕事にしてきた年月を感じさせるほどの。
「誰ですか?」扉が閉まってから一分ほど経ったであろうころ、ぼくは興味本位に訊いた。

「ここの不動産屋さん」
「どうするんですか?」
「そろそろ売ろうと思って」
「ぼくは?」
「どこかのお婿さんにでもなりなさい。まだ、若いんだから、東京にもどるのもよし」

 それは可能性と未来の話であり、年長者からの率直な忠告でもあった。
「もう、まとまるんですか?」
「おおよそは。あとは交渉次第で」彼女は不幸なひとのように無抵抗に笑う。「あんまりのこらないものね」
「ここは?」
「リゾート・ホテルにでもなるんでしょう」

 ぼくは開発された町をイメージする。頭に蓄積されていたとも思っていなかったデベロッパーという深い意味も分からないことばがでてきた。
「コーヒーでもいれますね」
「ありがとう」

 ぼくはテーブルのお茶を片付け、その場所に熱いコーヒーを置いた。ぼくに意見もなく、物事を変化させる力もない。ただどこかに居場所を見つけなければならない。ぼくは履歴書がのこっていたかを考える。ぼくのいままでは紙一枚でこと足りた。墓碑銘も数文字で完結するのだ。

「あなたのいれるコーヒーはおいしいのね」
「そうですか」ぼくは黒い液体をすする。ブラジルのコーヒー園で雇ってもらうにはどこに伝手があるのか、誰に相談すればよいのか空想家のようにぼんやりと頭の回路を揺すってみた。

コメント
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