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壊れゆくブレイン(1)

2011年12月03日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(1)

 そして、何もかも失ってしまったような自分だけがきっちりと残った。36年間の自分の人生は見事な失敗に終わり、すべてが灰となった。愛すべきひとも同じように灰になり、ぼくは薄れつつある記憶だけを手掛かりに、彼女を再生させる。

 ぼくは、会社が所有する部屋に入る。職場まで歩いても15分程度で、実家とも同じような距離だった。ぼくは引越しの荷物を開封する。洋服があり、食器があった。またもや、カラフルさが消えるタンスの中味。ぼくは、若い頃に家を出て、女性と住んだ。彼女はモデルをしていて、洋服も多かった。扉を開けると色鮮やかなものたちが目に飛び込んできた。その女性と別れ、2年間ほど、またひとりで住んだ。気楽といえば気楽だったし、その状態に不慣れといえば不慣れでもあった。また意図しなかったが、そのような状態に戻った。

 女性のブラシもなければ、自分以外の歯ブラシもなかった。自分は家で見たいテレビを見て、聴きたい音楽を流した。だが、それは満足とも充足ともなってよかったのだが、そうはならなかった。ぼくは、裕紀が聴いていた未知のクラシックの曲も望んでいた。それは、自分で探すのには厄介だったし、その手間を考えるのも面倒だった。

 休みには実家に帰り、甥や姪と遊ぶ。彼らは、ぼくに自分たちの好奇心からいろいろな質問をしたが、ひとつのことだけは口にしないという誓いをしたようだった。ぼくの結婚相手。優しくしてくれたあの女性は、どこに消えてしまったのだろう? そういう疑問も強いはずだが、なぜだか口に出さなかった。その分だけ、ぼくらの間には隙間ができた。彼らは子どもだから仕方がないが、大人はそんなさり気なさは有していないようだった。ぼくは、その他人との隙間を敬遠するため、ひとりで仕事帰りに酒を飲み続けた。みなはデリケートさがないから酔わないのだと勝手な言い訳をつけて。自分に甘く、すべてのことを許して。

 しかし、朝になれば仕事から受ける忙しさによって、いくつかのことは対岸と呼べそうなところに置き去りにして忘れる。廻りの人間は、ぼくが東京に行っていた10年間で変わり、そして、増えていた。自分の能力をアピールする必要もあったし、そこそこの位置に自分はいた。東京での成果へのご褒美。その代わりに、ぼくは妻を失った。

 仕事が終わるとゆっくりとした速度の船で対岸から過去の思い出たちがやって来た。ぼくは、自然とそれを迎える。絶対に拒否しない。そのものたちは帰るべき場所が必要であり、それはぼくの胸のうちが最適なのであった。

 ぼくは、こうして未来を築くということを忘れつつあった。仕事では新しいことを学び、習練しながらも、仕事が終われば過去の居心地の良い日々を再現しようと思っていた。だが、それは裕紀がいない以上、決してできず、その不可能な状態を埋めるべく、また酔った。その噂は、いくつかの場所に広がり、ぼくは東京の埋没性にも憧れていた。やはり、ここはそう広い場所でもない。ぼくの行動は目立ち、あそこの誰ということが知れ渡っていた。

 そして、両親にも軽く叱責される。そうすると甥を誘い、外に出て戯れた。彼は妹がいなくなったためか、その秘密の共有というべきものなのか、疑問である死ということを訊いた。彼らも静かに横たわり青ざめた裕紀を見るという経験を通過する必要があったのかもしれない。ぼくも、それが必要だったのかもしれないが、裕紀の兄たちに敬遠され、それもできなかった。

「もう、お姉ちゃんに会えないんだよね?」という素朴な質問が彼の口からでる。もしかしたら、その疑問はぼくの口からでるべきだったのかもしれない。
「どうなんだろう? 良い子にしてたら、ママはプレゼントをくれる?」
「たまに、くれるけど、いまは妹にだけ」
「そう。良い子にしてても、もう会えない。むかしに会ったときの思い出だけ」
「じゃあ、思い出を大事にする」と言って彼は口を固く結んだ。開けてしまえば、思い出も逃げ去ってしまうとでもいうように。

 ぼくらは商店街でサンドイッチを食べ、ジュースとビールを飲んだ。そこには東京の必要以上な華やかさがないと感じたが、これが人間の住むべき実際の場所という安心感もあった。甥はおいしそうに食べ、父親似の大柄な男性になる予感をさせた。それが終わると、妹の家に彼を連れて行き、またひとりの自分に戻った。ぼくはある場所に戻り、カウンターでお酒を飲む。ぼくは、むかし知っていた女性と話す。

「近藤君にサッカーを教えてもらった息子も店を出した」
「どんな?」
「これからは、スポーツ・バーだって。そうかしらね?」
 それから、その子のここ数年の話を教えてもらった。学生時代はサッカーに励んだが、その後は調理を学んだ。
「やっぱり、お母さんに似たんだ。自分に向いた仕事につけるっていいもんだよ」
「近藤君は、仕事合ってない?」
「ただ誰のために働いているのか分からなくなった」
「そうよね。ごめん。でも、そんな飲み方、身体こわすよ」と、ちょっと彼女は顔をしかめた。以前にないような表情だった。でも、この身体を誰も心配しないんだと、ぼくは思っている。そうさ。

 ぼくは店を出て、よろよろと新しい家に帰る。カギをポケットから探し、不器用な手付きでドアを開ける。
「裕紀、いるんだろう?」とぼくは、どうしても言いたい。だが、さっきの甥のようにぼくは口を固く閉ざす。思い出を逃がさないため。

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