遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 193 母の死 (Ⅱ) 

2018-06-10 13:07:03 | 日記

          母の死(Ⅱ) (2009.9.7日作)

 

   母の死は安らかだった

   文字通り 眠るように逝った

   母の体に付けられた医療器具の

   モニターに映し出された脈拍の数値が

   五十 四十五 三十七 と

   次第に小さくなり 最後に

   その時まで 穏やかだった母の顔が

   小さく苦痛にゆがんだ瞬間 

   突然に数字が消え

   モニター画面が黒一色に塗り潰された

   母の最期だった

   女性看護師が慌ただしく

   病室に駆け込んで来た

   続いて男性医師が姿を見せた

   医師は眼を閉じた母の瞼を開き

   瞳に小さな懐中電灯の光りを当てた

  「残念ですが」

   と 医師は言った

   わたしたち兄妹は 母の危篤と共に

   病床に寄り添っていた

   誰もが納得して母の死を受け入れた

   涙は誰にもなかった

   母の安らかな死に むしろ

   安堵の思いを深くしていた

   母は苦しむ事なく逝った・・・・・

   九十六歳 老衰だった

   何度か入退院を繰り返した後の

   最後だった

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   母の頭脳は最後まではっきりしていた

   訪れるものが避けられないと

   確定された最後の二 三日だけ

   意識の混濁が見られた

   母を慕っていた親戚の者たちが見舞いに来て

  「おばさん 民謡でも唄ってよ」

   と 催促すると

   母は薄れた意識の中で

  「エンヤラヤーノーヤー エンヤラヤーノーヤー」

   と 眼を閉じたまま

  「大島アンコ節」の 囃子言葉を

   何度も繰り返した

   民謡好きの母は全国大会などで

   幾度も優勝 入賞した経験を持っていた ・・・・

   わたしたち兄妹の母を送る作業は

   深夜一時過ぎに始まった

   入院をするたびに 今度は 今度は と

   危ぶまれながらも 無事に帰還を果たしていた母にも

   避け得られない結果だった 

   わたしたちは 母が

   大学病院の病室で亡くなった事にも

   納得していた

   母の肉体には点滴などの器具が

   幾つか付けられていたが

   命の限界まで 生への努力を為し得た事は

   設備の整った病院の病室であったればこそであった

   自宅に居ては為し得なかった

   わが家での死を迎える事の出来ない母ではあったが

   わたしたち兄妹が見守る中で 母は

   静かに逝った

   わたしたち兄妹 それぞれの胸に

   なんの悔いを残す事もなかった

   最後の入院をする日 母は

   食事ものどを通らない程に衰えた体力の中で

  「入院をさせてくれよ」

   と 言った

   再び 三度の帰還を夢見ての事であったのか 

   母の胸のうちは知る術もなかったが 

   母の希望に添い得た事は 

   わたしたちの心の負担を軽くしていた

  「死ぬ時は自宅でって言うけど 自宅に居ては

   これだけの治療は出来ないものなあ」

   わたしたちは 医師や看護師たちの 

   手厚い対応を評価して語り合った

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   葬儀社の車が来ると 母の遺体は

   医師や看護師達に見送られ

   病院の霊安室を出て

   帰途に着いた 深夜二時を過ぎていた

   わが家に戻った母の遺体は 

   葬儀社の作法に従い 作業が進められて

   真新しい敷布の敷かれた布団に横たえられ

   始めて 畳の上に安置された

   葬儀の日取りも決められて

  「今夜は枕辺に線香を絶やさないで下さい」 

   と 言い残し

   葬儀社の職員は帰って行った

   わたしたちはようやく落ち着いて

   母の遺体と向き合った

  「それにしても いい死に顔だね まったく苦しんだ様子がなくて

   ほら 笑っているようだよ」

   みんなが何度となく 

   母の顔に掛けられた白い布を取っては

   穏やかな死に顔を見つめて言った

   安らかな母の死に 誰もが

   無事に母を送り得た事の満足感の中にいた

   命を全うした一人の人間を

   心を尽くして送り得た時には

   人の死も 決して哀しみばかりではない事を

   わたしたちは知った

   わたしたちの母の最期を偲ぶ会話は いつまでも

   途切れる事がなかった

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  「ああ もう朝になっちゃうよ」

   気付いて みんなが声を上げた時には すでに

   窓の外は白み始めていた

 

          アジサイの 雨に濡れいて 母の逝く