その心は(2019.5.8日作)
その心は
本当に死にたいのか ?
単に 今が苦しく
淋しくて 悲しくて
辛いだけではないのか ?
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人間 死にたい時には 一度
死ぬがいい 一度 死んで
自分を殺せば
自分の "心" を 殺せば
裸になれる 裸になれば
見えて来るものが あるだろう
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地球は いつでも
廻っている
夜が明ければ
朝が来る
朝が明ければ
夜が来る
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その心は 本当に
死にたいのか ?
今が辛くて
苦しいだけではないのか ?
一日待て
一夜待て
一週待て
時はいつでも巡っている
辛く 苦しい心も
耐えて忍べば いつかは
晴れる
霧の晴れた 朝が来る
永遠 永久(とわ)に 続く
夜など ない
永遠 永久に 続く
悩み 霧など ない
心の 霧も 悩みも
いつかは 晴れる 晴れるだろう
忘れる心 その心 を 持つ
その心 忘れる心 その 心 の
向こうには 彼方には
霧の晴れた 明るい朝
希望の朝が あるだろう
希望の光りも 見えるだろう
光りに満ちた 一筋の
明るい道 希望の道も
見えて
来るだろう
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(7)
勝夫が生まれてまだ、二年と経たない頃だった。当時、大木はアメリカからの輸入食品の販売に携わっていた。その事業の拡大を急ぐあまりに、思わぬ詐欺行為の手口に見事に嵌まってしまっていた。迂闊と言えば迂闊、無知と言えば無知。いずれにしても自身が経営する会社の基盤を根底から突き崩す被害を被っていたのだ。それを救ってくれたのが治子だった。
治子の父は生前、オーナー経営者として倉田紡績の六十数パーセントに及ぶ株式を保有していた。だが、その死と共に、大部の株式が相続税対策として処分された事は、ニュースなどでも取り上げられ、話題になった事で大木も知っていた。
大木は詐欺被害の対策に、何としても五千万程の資金が必要になった時、まず頭に浮かんだのが、その治子の実家だった。
治子の実家に頼めば、取り敢えずの必要資金は工面出来るのではないか ?
しかし、そんな思いはすぐに、五千万もの借財を申し込んだ自分に、実家の者たちがどのような眼差しを向けて来るだろうと考えると、たちまちのうちに萎えてしまった。
「大きな事を言っても、結局、あの男も口先だけの人間なんだよ」
そんな実家の人たちの口ぶりが、眼に見えるようだった。
大木にとって治子は、紛れもない良妻と言えた。かつて治子が、実家を鼻にかけ、大木に何かを強要した事は一度もなかった。治子との結婚生活は、幸福そのものの思いだけが強かった。それだけに大木も、なんの憂いもなく事業に専念出来たのだったが、それが正しく裏目に出て、みすみす甘い詐欺の手口に嵌まってしまっていたという事だった。
大木は日に日に決済の迫って来る五千万の金の工面が出来ないままに、ただただ、東南アジアに本拠を持つというプロ詐欺集団への警察の、捗々しくない捜査の進捗状況に無力感と苛立ちを募らせた。
結局、三十年足らずの人生もこれまでという事か・・・・・
なんとなく投げ遣りな気持ちで呟くと大木は、ふと、今までは考えてもみなかった事であったが、その思いが胸の中で大きく膨らんで来るのを意識した。そして、その思いに引き摺られるように大木は、八方塞がりという現在只今のこの苦しい状況の中では、唯一それが自分自身が安心、安らかになれる、最善の道のような気がして来て、それからは連日連夜、胸の中で反芻していた。
---本当にその覚悟はあるのか ?
もし、そうする事が出来れば、治子の実家に生き恥を晒す事もなく、治子にも、自分が仕事に賭けた情熱の本気度を分かって貰えるのではないか、という気がした。
大木はある夜、とうとう心を決めると治子に出来事の一部始終を話して離婚を申し出た。大木がいなくなった後に、治子に迷惑の掛かる事を避ける配慮からだった。
「とにかく、俺が立ち直るまでは形式だけでもいいから、離婚に承諾の判を捺してくれ」
大木の仕事に一切、係わる事のなかった治子には、大木が何か、慌ただしく動いているとは分かっていても、その言葉のすべてが初めて耳にする言葉だった。
「なぜ、もっと早くなんとかしなかったの !?」
治子は咎める口調で言った。
「なんとか出来れば、こんな事にはなっていなかったよ」
大木は苛立ちを込めて言った。
治子は黙っていた。
治子と大木が知り合ったのは、月々、都内で開かれるあるパーティでの事て゛あった。初め大木は、治子が倉田紡績の創業者の娘だとは知らなかった。一年近い交際の後、結婚の話しが出るようになって、初めて知った。
この時、治子の父は既に亡くなっていた。それでも大木には、倉田紡績の創業者の娘という事で、大きな気持ちの緊張感を強いられるような気がしていたのを、今でも鮮明に思い出す事が出来た。
その夜、治子はそれ以上は言わなかった。だが、治子はその時既に、鋭く大木の心の中を見抜いていた。
「わたしが判を捺したら、自殺するつもりなんでしょう」
睨み付けるような眼で言った。
「そこまでは考えていない」
大木は心の中を見抜かれた動揺を隠して平静を装い言った。
翌朝だった。
治子は食事の前に、
「昨夜の事だけど」
と言って切り出した。
「わたしの名義の倉田紡の株券が、大阪の母の所にまだ少し残っているはずだから、それを処分すればいいわ」
と言った。
治子の話しではざっと見積もっても、時価六千万に近い数の株式だった。
大木は息を呑んだ。無意識のうちに体が震えていた。
思わぬ僥倖による喜びのためではなかった。恐怖とも言っていい感情に大木は怯えていた。
それは正しく大木がこの苦境から救われるだけの金額だった。それを最も身近にいる治子が持っていたーー。
一度は諦め、心を決めてみたものの、希望があれば縋りたいのが人の真情に違いなかった。
一方、そんな大金を最も身近にいる妻とはいえ、なんの保証もないままに受け取ってもいいものだろうか、という思いもまた、心を動かした。
紛れもなく、一瞬の間に消えてなくなってしまう金だった。再び取り戻せるという当てもない。
その上、更に複雑な思いも絡んで、治子の母や兄弟たちはなんと言うだろうという、倉田の家への思いもまた消えなかった。娘の財産を食い潰す甲斐性のない奴 !
治子がその日まで、それ程の株式を所有していたのを黙っていた事に付いては大木は、今までそれを必要としなかった事もあって、格別の不満は抱かなかった。治子が夫の窮状を見兼ねて正直に打ち明けてくれた事に、むしろ、感謝したい気持ちの方が強かった。
大木はその日、食事も満足に喉を通らないままに出社すると、誰もいなくなった事務所で一日中机に向かい、思い悩んでいた。
結局、大木が治子の申し出を受け入れる気持ちになったのは、死への恐怖もあった上に、なによりも、謙虚な気持ちでもう一度、やり直してみたい、という再起への思いが強かった為だった。
その夜、大木は、
「その株は君の一存で処分してしまってもいいのか」
と、改めて治子に聞いた。
「生前、父がわたしの為にって、少しずつ譲渡してくれた株だわ。誰に迷惑を掛ける事もないわ」
治子は言った。
「お母さんや、お兄さんは、なんて言うだろう」
「今更、そんな事を言っても仕方がないでしょう」
大木はここまで来てなお、未練がましく言い訳めいた言葉を口にしている自分に嫌悪感を抱いたが、治子もまた、それを感じたらしく、不機嫌に言った。
「でも、その株は君にとってはどぶに捨てるようなものじゃないか」
「じゃあ、どうしろって言うの ? わたしと別れて死ぬって言うの ?」
治子は泣いていた。
・・・・・今、この夜の中で大木はその治子の涙を限りなく懐かしく、美しいものに思うのだ。治子の愛の純粋さを思うのだ。あの時、株式を処分して大木が急場を切り抜けた時、治子は、
「これでわたしはもう、倉田紡績とはなんの関わりもない人間になったわ」
と、気抜けした様子で言った。
治子にとっては、現在兄が社長に就いている倉田紡績の株式を持ち続ける事は、亡くなった父との関係を持ち続ける事でもあったのだ。
大木はその夜、治子の顔を見る事も出来なくて、黙ったまま酒を呑み続けた。