遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 243 小説 夢の中の青い女 他 芸術考

2019-05-19 23:43:50 | 日記

          芸術考(2019.5.11日作)

 

   芸術 芸術 と

   崇め 奉らない 方がいい

   芸術で 命は 維持出来ない

   命に係わる作業 日々 日常

   生活 生きる場での 行為 行動

   最も尊く 大切

   芸術は命に奉仕する 脇役

   日々 日常 生きる場 生活する場

   その場での 謙虚な 行為 行動 作業

   最大 称賛され 得べきもの

   ありふれた便器を提示した 芸術家

   現代芸術への 痛烈な皮肉

   街の中 

   公衆トイレ その壁の

   雨の染み 切り取る角度で

   芸術にも 成り得る

   それが

   現代芸術

 

 

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          (8)

 

 社員もいなくなり、 事務所も失って無一文になった大木には、もはや大木貿易を維持してゆくだけの力はなかった。

 大木は僅かばかりの在庫を処分し、債務を回収して最後に残った雑費の支払いに当てると、大木貿易を閉鎖した。

 それからの大木の生活は、正に苦闘の歳月だった。最初のスーパーを手に入れるまでの十数年間、大木は四時間以上の睡眠を取ったことがなかった。夜はバーテンダーとして、早朝五時過ぎからは、築地の卸売市場で場内配達員しての仕事をしながら身を粉にして働いた。

 治子にとってもまた、その十数年間は苦闘の歳月だった。再起を目差す大木の心を知って、新聞配達員、スーパーマーケットのパートタイマー、保険外交員、ガス会社の集金員などと、かつては贅沢三昧で、働いた事もなかった体に鞭打って働いた。

 牧子を身ごもった時、大木は働き続ける治子の身を案じて堕胎を勧めた。治子が保険外交員をしている時の事で、勝夫は四歳になったばかりだった。

 治子はだがその時、頑ななまでに大木の勧めを受け入れなかった。働きづめに働いて、何一つ潤いのない日々の生活の中で牧子を産む事は、治子に取っては唯一、自分がこの世に生きている事の確かな証しを得る事であったのだ。

「もう少し、先への見透しが付いてからでも遅くはないじゃないか」

 大木は言った。

「いやよ」

 治子はいった。

「わたし達の間に生まれて来る命まで殺して、わたしが生きている理由なんてないわ」

 牧子を産んでからの治子の頑張りは以前にも増していた。牧子を抱いてのガス会社の集金員の生活が始まった。大木にしても、牧子が生まれてみれば女児のこともあって、ひときわの愛情を覚えずにはいられなかった。大木は治子と牧子の二人へ寄せる深い愛情の思いと共に、治子の身もまた案じて、

「君がそこまでしなくてもいいよ。その分、俺がもっと働くから」

 と言った。

 治子はだが、

「平気よ。かえって働いていた方が、気持ちに張りがあっていいわ」

 と言って、受け入れる素振りも見せなかった。

 大木と治子が知り合った結婚前の月例パーティーの仲間内でも、治子はおしゃれの気取りやで通っていた。そんな治子からは考えられない変化であったが、さすがに定評のあった美貌にもやつれが見え、牧子を抱えての、日中を集金に歩く治子の姿は痛々しくさえあった。

「見て、こんなに陽に焼けて」

 風呂上りの鏡の前で振り返るその眼元にだけ、僅かに昔の美貌を留めるだけになっていた。

 最初のスーパーを手に入れたのは、そのような生活の中での思わぬ偶然からだった。築地市場で繋がりの出来た魚屋が、四谷にある魚屋と八百屋を兼ね備えた店が売りに出ていると話した事が発端になっていた。老夫婦が店員を使って営業していたが、店主が急死し、老妻は一人でその店を維持してゆくだけの気力を失くしていた。

「あの店からすれば、捨て値のようなもんだよ」

 魚屋は言った。

 十数年間、大木と治子が無我夢中で働き、蓄えて来た金は、その売値に匹敵するだけの額があった。大木はその話しに乗り気になり、治子に話した。

「あなたがそれでいいって言うんならいいわ。その為に働いて来たお金なんだから。でも、今度だけは騙されないでよ。今度騙されたらもう終わりよ」

 治子は言った。

「当たり前だ。痛みは俺自身よく知っている」

 大木は希望とも自信とも付かない感情に突き動かされて機嫌よく言った。

 その店舗を手に入れてからの歳月は、大木自身、時として恐ろしくなる程の順調さだった。これは何処かに落とし穴があるのではないか、と思うぐらいで、時として、恐怖感を覚えるような事もあった。自分が再び無一文になった夢を見て、夜中に飛び起きた事も一度や二度ではなかった。その反面、今まで治子と一緒に懸命に努力して来た事を思えば、これぐらいの僥倖があってもおかしくはない、という思いもまた、何処かにあった。

 治子の大木に対する献身には、依然、変わりはなかった。自ら進んで商品の仕入れに出向く事もしばしばだったし、売り場内の配置や、人心掌握にも心を配った。

「わたしにも倉田紡績創業者の血が流れているのかしら」

 治子は笑った。

「当り前だろう。お父さんの娘なんだから」

 大木は言った。

「それにしても、こんなに夢中になれるなんて、自分でも信じられないわ」

 店舗の数が増える度に大木は旧店舗を治子に任せ、自分は新店舗に掛かり切りになった。

 会社組織に改めた時には、治子が副社長に就いた。

 現在、大木の胸中には、店舗拡張の計画はなかった。だが大木は、近い将来の夢として、大木の住む市内の駅前の一画に小さな劇場を建て、そこを映画や音楽などの、自分の好み合った芸術や芸術活動の拠点にして係わってゆきたいという思いを持っていた。大木に取ってそれは決して突飛な夢ではなかった。苦闘の日々の中で大木が僅かに気を紛らわす事の出来たものが、時折見る低料金の名画座での映画や、喫茶店などで何気なく耳にする音楽などだったのだ。大木はそんな夢を何気なく、冗談のように治子に話した事があった。すると治子は厳し言った。

「でも、まだそんな余裕なんてないわ。それはあなたの道楽よ。そんな所からほころびが出来るのよ。気を付けてよ」

「道楽かな」

「道楽よ。ようやく仕事が軌道に乗って来たばかりじゃない」

 治子は冷ややかだった。

 ーーそうか ! とこの時大木 は、ようやく胸に思い当たるものを探り当てた気がした。

 治子はそんな俺に不満を持って、専務の三谷と手を結んだのか !

 大木はやっと霧の晴れてゆくような気持ちの晴れやかさを覚えた。

 だが、それにしてもなぜ、たったそれだけの事で、治子が俺を見捨てなければならないんだ !

 今日まで大木に寄せて来た治子の信頼からすれば、考えられる事ではなかった。

 それとも他に何か、厭になる訳でもあったのだろうか ? 俺を死んだもの扱いにしている。しかも、治子ばかりではない。勝夫と牧子の二人までもがそうだ。

 そこまで来ると大木はまた、分からなくなった。

 いったい、何があったと言うんだろう ? 今朝、俺が家を出る時には普段と何も変わらなかった。たった一日のうちに、何がどうなってしまったと言うんだ。

 もう、自分には治子も勝夫も牧子もいないと思うと、大木は不覚にも涙をこぼしそうになった。

 大木は気力も失せたまま、明かりのない廊下をとぼとぼと歩いて行った。自分がまるで、暗い海原を漂う小舟のように思えた。身も心もボロボロになっているのを感じた。

 ーー大木は思わず眼を細めた。