昭和は遠くなりにけり(2023.1.12日作)
間もなく昭和百年
連日 眼に 耳に届いて来るのは
その時代 昭和の一時期 名を馳せた人達が
次ぎ次ぎと この世を去って逝く 訃報
嘗て 昭和を生きた人達は
明治は遠くなりにけり と
口にした そして今 昭和百年
令和の時代を生きる者達 我々は
計らずも 同じ言葉を口にしたくなる
令和の時代を生きる者達 我々は
計らずも 同じ言葉を口にしたくなる
昭和は遠くなりにけり
記憶に残り 思い出に浮かぶ
あの顔 この顔 その人達 その姿が今
現実 この世界から日々 次ぎ次ぎと消えてゆく
後に残るのは 何処か馴染の薄い
異質な世界 異質な雰囲気
昭和の雰囲気 面影は 次第に薄れ
消えてゆく
移り逝く時の中
日々 生まれる命と世界の華やぎ
昭和の時代は消えてゆき
昭和は遠くなりにけり
昭和を生き 今 令和を生きる者達 我々は
ふと 呟く
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希望(5)
ナイフを盗んだ事自体には罪の意識はなかったが、店の人に顔を見られる事を怖れていた。
母親の顔を思い浮かべたのは一週間程が過ぎて、気持ちにゆとりが出来てからだった。
「クソ婆、死んでしまえば良かったんだ !」
母親には恋しさも懐かしさも覚えなかった。
敵意と憎悪だけが激しかった。
病気の父親も省みず、働いていた飲み屋の客と同棲した母親がどのように考えても許せなかった。
卑怯で卑劣で無責任で薄汚かった。
卑怯で卑劣で無責任で薄汚かった。
「あんな女は死んでしまえばいいんだ !」
修二が中学校一年の時だった。十一月のある夜から母親はぱったり帰らなくなった。
父親が脳梗塞で倒れ、半身不随になり、言葉も不自由になって半年程後の事だった。
飲み屋へ電話をした修二の祖母に母親は、
「うるさいね。わたしがどうしようと、わたしの勝手だろう !」
と怒鳴り返して電話を切った。
母親は駅のある町の飲み屋で働いていた。
父親の治療費を稼ぐためだった。
母親が三十八歳の時で、七十二歳の祖母は母親が帰らなくなってからは、家の仕事の何もかもを独りでしなければならなくなった。
役場からは一日二回、看護婦が来て父親の様子を診てくれた。
それでも夜昼のない四十五歳の息子の世話は祖母には重荷だった。
祖母は農作業も出来なくなり、農地を他人に委ねた。
収入のない家計の中での僅かな農地の賃貸料だったが、父親の治療費を賄うにはそれでも足りなくて、結局、その農地を切り売りする羽目になった。
ほぼ四年に渡る父親の病床生活で農地の大半が売り尽くされた。
修二は中学校を卒業すると近くの製材所で働いた。
高校へ進学する為の金銭的余裕もなく、中学校でも欠席しがちだった修二には学力もなかった。
製材所での仕事は大人に交っての重労働だった。
周りの人達は気を使ってくれたが、与えられた仕事は一人前にこなさなければならなかった。
仕事が終わって自転車で帰る道では高校へ通う同級生達としばしば一緒になった。
修二は慌てて近くの松林や藪の中に逃げ込んだ。
中学生時代、半身不随の父親を「よいよいの父ちゃん」と言われたり、母親を「おめえの母ちゃん、男と逃げた」などと揶揄われた事などが頭から離れなかった。
時には、猛然と立ち向かっていって、取っ組み合いの喧嘩になる事もあったが、その度に何人もの相手に足蹴にされたり、痛め付けられたりした心の傷は癒える事がなかった。
「強情っ張り、強情っ張り」と言って揶揄われた修二が同級生達に抱く感情は憎悪と嫌悪だけだった。
父親はそんな生活の中でも確実に衰弱の度合いを深めていった。
祖母も次第に体力の衰えに苦しむようになっていた。
父親が亡くなる一年程前には祖母自身が腰を痛めて、家の中を這って歩くような状態になっていた。
それでも祖母は息子の介護をしなければならなかった。
修二は祖母に替わって夜中の父親の介護をした。
「修二よう、起きてくんねえが。父ちゃんのしょんべん(小便)がびん(尿瓶)さいっぺえになっちまっただよう」
夜中にしばしば起こされた。
眠い目をこすって仕方なく起きたが、それでも修二は祖母や父親を恨む気にはなれなかった。
次第に衰えを増してゆく二人の姿にかえって憐れみと不安を覚えて心が痛んだ。
父親が死んだのは、修二が働き始めた年の十二月だった。
お粥を喉に詰まらせての窒息死だった。
あくる年の二月には父親の後を追うように祖母が死んだ。
傍に寝ていた修二に気付かれる事もなく布団の中で死んでいた。
朝になって修二は気付いた。
葬儀は父の時と同じく、隣りのえ(家)のお父っつぁんが仕切ってくれた。
母親は父親が死んだ時には来なかった。
祖母が死ぬと初七日の翌日に姿を見せた。
夜八時過ぎに土間の戸を叩く音がして、修二が引き戸を開けると母親が立っていた。
「父ちゃんと婆ちゃんが死んだんだって ?」
母親は修二の顔を見て言った。
修二は母親を見た途端に怒りに捉われた。
「あに(何)しに来やがっただあ。けえ(帰)りやがれ !」
思い切っり母親の胸を突き飛ばして言った。
母親はよろけて倒れそうになったが、漸く持ち堪えて、
「何すんだよお、親に向って !」
と、怒りの表情で言い返した。
「てめえが親かよう、このスベタ !」
修二はなお罵倒すると乱暴に引き戸を閉めた。
「戸を開けなよう。話したい事があるんだよう」
母親は戸を揺すりながら喚いていたが、修二に開ける気はなかった。
「なんで、父ちゃんが死んでも、婆ちゃんが死んでも知らせなかったんだよう」
母親は引き戸を揺すりながら喚き続けていた。
修二は引き戸が外れないように内側からしっかりと押さえていた。
母親はどれ程かの時間、喚いていたが、そのうち、
「いいかい、親を家に入れないなんて、この罰当たり !」
と、捨てぜりふを残して帰って行った。
母親が家の相続で何度も役場へ足を運んでいると知ったのは、十日程が過ぎてからだった。隣りの家のお父っつあんが教えてくれた。
修二はそれを知ると、誰があの女なんかにこの家ば遣るもんか ! と怒りだけを募らせた。
母親はひと月以上が過ぎて、再び姿を見せた。
修二の仕事からの帰りを待って、庭先にあった古びた木箱に腰掛けていた。
修二の顔を見ると、
「お帰り」
と猫撫で声で言って、立ち上がって来た。
修二は返事もせずに玄関へ向かった。。
母親は修二の後を付いて来た。
「父ちゃんも婆ちゃんも死んでしまって、この家ば放って置く訳にもいかないと思って相談に来たんだよ」
母親は言った。
自分が居ない間に母親が家に入らないようにと、付け替えて置いた鍵を開けて土間へ入った。
母親も修二の後に続いて入った。
修二は拒まなかった。
母親を無視したまま座敷へ上がった。
母親も続いた。
修二には母親が今度は何を言い出すのかと興味もあった。
修二が電燈の明かりを点けると母親は座敷に座り込んで、抱えていた紙袋の中から何通もの書類を取り出した。
「役場で聞いてみたんだけどね、おめえがこのうち(家)の財産ば相続するには、まだ未成年だもんで代理人だなんだって、厄介な手続きがいっぺえ要るんだってさ。だもんで、その手続きば母ちゃんに任せて貰おうと思って相談に来たんだよ」
母親は家を飛び出した事などはおくびにも出さずに、自分一人で納得したように喋っていた。
修二は母親に背を向けてジャンパーを脱いでいたが、その言葉を聞くと同時に振り返って、
「やだ !」
と、怒鳴っていた。
「やだ !」
と、怒鳴っていた。
何処までいけ図々しい女なんだ !
腹の底からの怒りと敵意に捉われていた。
母親は修二の思わぬ激怒に瞬間、怯えた様に身を引いたが回復は速かった。たちまち居直ると不機嫌な表情で、
「やだって言ったって、この家ばこのままにして置く訳にはいかねえよ。父ちゃんも婆ちゃんも死んじまって居ねえんだから」
と言い返した。
修二も負けてはいなかった。
「父ちゃんも婆ちゃんも居なくたって、手前なんかにはこの家はやんねえ」
と怒鳴り返した。
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takeziisan様
有難う御座います
今回のブログ いろいろ昔を思い出しました
学校への弁当 記憶に残るのは日の丸弁当ですね
海辺に近い村だったのですが多くの生徒が皆
日の丸弁当にタクアンだったような気がします そのせいかどうか
弁当の時間にはみんなが人に見られるのを恥ずかしがるように
前に蓋を立てて隠すようにして食べていたものでした
懐かしい記憶です それに四年生の時 いっ時
アメリカ進駐軍から贈られたものだという事で
チョコレートが弁当の時間に配られた事があります
それが大きなチョコレートでクラス全員に配るには
切り分けなければならなかったのですが そのチョコレートの堅さと言ったらなくて
みんなが骨を折って切り分けた事を今でも鮮明に覚えています
貧しかった時代の懐かしい記憶です
それにもう一つ 写真の中の木々の小枝にとまる小鳥たち
背後の風景と共に子供の頃に見た情景を思い浮かべました
これも懐かしい記憶です
グザル わたし共の方では一般的にグズルと言っていました
やはり地域的に微妙に異なる違いなのですね
中には同じ表現もあるのですが
八代亜紀 今回 偶然にも冒頭に同じような思いを込めた文章を
掲載しました
後に続くように亡くなった冠二郎 その前には大橋純子 谷村新司 また
篠山紀信 中村メイコ 等々・・・・
時代の移り変わりが偲ばれます
せめて自身は日々の生活に気を付け 少しでも長く健康でいられるようにと
心掛けています
ポイント 何がなんだか分からなくて見ていません
スマホも持っていませんので
今の時代 スマホが無ければ何も出来ません
でも わたくしは今 世間とは距離を置いて自分自身の生を
生きる事だけを最重要に考えています まだまだ
やりたい事も残っていますし これからだと思っています
何時もページ 楽しく拝見させて戴いております
有難う御座います